ミラボー伯爵はフランスの政治家(1749ー1791)。若い頃は放蕩と浪費を繰り返しては、父の怒りをかい、何度も投獄された。1789年からのフランス革命では、政治家の道に進んだ。革命の初期段階の主要人物であり、国民議会では穏健派の立憲君主制支持者として活躍した。王権と取引し、最後は・・・。
ミラボー伯爵(Comte de Mirabeau)の生涯
ミラボーはフランスのピニョンで貴族の家庭に生まれた。本名はオノレ=ガブリエル・ド・リケティ。父は著名な経済学者のヴィクトル・リケティである。
放蕩と浪費の青年時代
ミラボーは父の意向で修道院で学んだ。18歳で、軍人の道に進まされた。だが、そこで様々な問題を起こし、投獄された。
1772年、ミラボーはエミリー・ド・マリニャーヌと結婚した。だが、濫費を重ねるなどしたため、父の怒りをかい、再び投獄された。その後、ミラボーは居場所を転々とした。
この頃、ミラボーはソフィと出会った。二人はスイスで落ち合い、オランダへ駆け落ちした。だが、これはミラボーによる誘拐事件とみなされた。
その結果、ミラボーは1777年には逮捕され、ヴァンセンヌで投獄された。その時に、『ソフィーへの手紙』などを執筆した。1782年には釈放された。
その後も、ミラボーは波乱の人生を送った。ルイ16世の重臣シャルル・ド・カロンヌのような要人とも知り合った。イギリスに旅行して交流をもった。
1786年にはドイツに移った。そこでは、1788年、『フリードリヒ大王のプロイセン王国について』を公刊し、父に献呈した。
政治家の道へ
その頃、フランスではまさにフランス革命が起ころうとしていた。フランスはルイ16世の支配下にあった。ルイ16世が即位した頃から、フランスはすでに財政的に逼迫していた。
だが、ルイは1778年にアメリカ独立革命への支援を行うなどしたため、さらに財政が悪化した。
フランス王権は財政改革などに取り組むために、全国三部会の召集を決めた。三部会は聖職者と貴族およびブルジョワの三身分によって構成された議会である。
三部会の議員に
このタイミングで、ミラボーはフランスに戻った。当初、全国三部会に、第二身分の貴族の議員として参加することを望んだ。そのために父の協力を得ようとした。だが、失敗した。
そこで、ミラボーはしかたなく、第三身分の議員となることを目指した。これに成功し、マルセイユとエクスで第三身分代表の議員として選ばれた。
1789年5月から、パリで全国三部会が開催された。ミラボーはエクスの第三身分の議員としてこれに参加した。ミラボーは卓越した弁舌などにより、政治家として早速頭角を現し、名声を得た。
フランス革命の始まり
同年7月、パリのバスティーユ監獄が陥落した。フランス革命の始まりである。上述の三部会は国民議会として、革命を主導することになる。ミラボーは引き続き議員として国民議会に参加した。
当初、ミラボーはルイ16世にたいして曖昧な態度をとった。だが、革命を正当化する立場をとり、人気を博した。国民議会で主要人物の一人となった。
立憲君主制の支持
1790年5月、国民議会では、ミラボーは王政の廃止を求めず、王権を憲法のもとに置く立憲君主制を主張した。
当時、革命支持者においても、ラファイエットのように、立憲君主制の支持者は一定数存在した。ルイ16世自身も当初は立憲君主制への移行に好意的だった。
ミラボーの立ち位置は、立憲君主制の支持者の中でも、強力な君主制の支持者だった。というのも、ミラボーは国王の拒否権や宣戦講和権を主張したためである。
たとえば、宣戦講和権あるいは戦争と平和の権利は、主権者のみに属する権利だと一般的に考えられていた。そのため、この権利を王に残すということは、それだけ従来のフランス絶対王制に近い制度を保持することを意味した。
しかし、このミラボーの主張は国民議会で拒否された。共和主義のジャコバン派や左派との対立により、議会への反逆者として糾弾されるようになった。
ルイ16世との密約:王権の協力者に
同年7月、ミラボーは王妃マリー・アントワネットと秘密裏に会談した。そこでは、王権の味方に加わるよう打診された。
たとえば、革命が王権打破に向かわないよう求められた。ミラボーはこの打診を承諾した。その報酬として年金を受けた。
とはいえ、ミラボーは王権の操り人形として活動したわけではなかった。むしろ、ミラボーは政治家としての人気を高めることに躍起になっており、王権の要求をなおざりにすることもあった。
国民議会の議長
1791年1月には、ミラボーの人気は回復した。ミラボーは名誉ある地位を得ようと画策し続けた。ついに、国民議会の議長に就任した。優秀な議長として活躍した。
そのため、ミラボーはラファイエットとともに、革命初期の代表的政治家として認知されている。
ミラボーの最期
同年3月、ミラボーは過労などにより、倒れた。まもなく、病没した。葬儀が盛大に執り行われた。遺骸はパンテオンに葬られた。
ヴァレンヌ逃亡事件への道
生前、ミラボーはルイ16世とアントワネットにたいして、様々な計画を提案していた。その一つは次のようなものだ。
一度、王と王妃はパリを脱出して国内のどこかに逃亡する。国外に逃亡してしまうと、王が外国による陰謀に加担していると思われてしまうので、国内でなければならない。
国内の亡命先で安全を確保する。その結果、王権は現在よりも有利な状況で、国民議会と交渉することができる。
ミラボーはこの計画を実行する前に、没した。同年7月、ルイ16世とアントワネットはこれに類似する計画を試みた。だが、国境近くのヴァレンヌで捕まった。これがヴァレンヌ逃亡事件である。よって、ミラボーはその種を蒔いていたことになる。
ちなみに、ヴァレンヌ逃亡事件をきっかけとして、国民議会は王権への敵意を高めていった。それまでも共和主義のジャコバン派が王制の廃止を求めていた。この事件がジャコバン派の躍進を助けた。
その結果、ついにフランスの王権が廃止され、フランスは共和制に至る。よって、ミラボーの脱出計画は結果としてはむしろフランス王権の寿命を早めることになった。
死後のミラボーの評判:密約の露見
ミラボーは革命の主導者としてふるまい、そのためにパンテオンという名誉ある場に埋葬されていた。しかし、ミラボーの名誉が失墜する事件が起こった。
1792年8月、パリで暴動が起こった。その際に、王宮だったチュイルリー宮殿の鉄箱から、ミラボーと王権の密約の証拠文書が発見された。かくして、革命の主導者というミラボーの評判が地に落ちた。反逆者だと批判されるようになる。
その結果、1794年9月、ミラボーの遺骨はパンセオンから撤去された。
ミラボーと縁のある人物や事物
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ミラボー伯爵の肖像画
おすすめ参考文献
ピーター・マクフィー『フランス革命史 : 自由か死か』永見瑞木, 安藤裕介訳, 白水社, 2022
山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生 』刀水書房, 2018
Charles F. Warwick, Mirabeau and the French Revolution,Kessinger, 2005