マリー・アントワネットはフランスの王妃(1755-1793)。母マリア・テレジアが政略結婚でフランスに嫁がせた。 わがままで浪費を繰り返す王妃として、さらに、オーストリア出身の王妃として、不人気だった。
フランス革命の勃発にたいして、反革命の立場をとった。政治家としての影響力を行使し、オーストリアに助けを求め、反革命を画策していく。恋多き女性でもあった。
マリー・アントワネット(Marie Antoinette)の生涯
マリー・アントワネットは神聖ローマ皇帝のフランツ1世とマリア・テレジアの四女として生まれた。
マリア・テレジアとマリー・アントワネット
マリー・アントワネットはテレジアの政略結婚としてフランスの王家に嫁ぐことになったことはよく知られている。このことはアントワネットの生涯にとって重要な影響をもたらすので、より詳しくみていこう。
マリア・テレジアは1740年から1780年にかけてオーストリアや神聖ローマ帝国で影響力を行使したヨーロッパ政治の主要な政治家である。オーストリア・ハプスブルク家で唯一の女性当主だった。巧みな外交手腕で知られ、優れた政治家とみなされた。
マリー・アントワネットとの関係で重要なのは、テレジアがプロイセンとの戦いのためにフランスと同盟を組んだことである。その際に、オーストリアとフランスが100年以上も前からの伝統的な敵だったことも重要である。
オーストリアは伝統的にイギリスと同盟を組んでフランスと戦争してきた。だが、テレジアはプロイセンに勝利するために、この伝統的な宿敵フランスと同盟を組んだ。
このことは当時のヨーロッパを驚かせ、外交革命とも呼ばれた。しかし、テレジアのオーストリアとフランスはプロイセンに勝てなかった。 その後も、オーストリアはフランスとの友好関係を強めるべく、様々な外交手段を用いた。その一つとして、テレジアは子どもたちの政略結婚という典型的な手法を用いた。
テレジアは多産でも知られ、10人の子供が成人するまで成長できた。そこで、1770年、四女のマリー・アントワネットは14歳のときに、フランスの皇太子ルイと結婚した。
エピソード:音楽好きの一家とモーツァルト
オーストリア・ハプスブルク家は伝統的に音楽好きな一族だった。たとえば、ウィーンを音楽の国際都市にしたのは、17世紀後半のハプスブルク家の当主でオーストリア大公のレオポルト1世であった。
マリア・テレジアも音楽を愛好し、マリー・アントワネットも同様だった。アントワネットはチェンバロを弾いたり譜面を読んだりすることができた。アントワネットはフランスの宮廷生活で優雅な振る舞いができるよう教育されていた。
よって、音楽趣味はその一環であった。7歳のモーツァルトは神童として彼女たちの前で演奏を披露した。マリー・アントワネットはほぼ同じ歳のこの神童と出会った。
不人気なフランス王妃として:その原因
その後、フランス国王ルイ15世が没した。1774年、皇太子ルイはルイ16世として即位した。よって、マリー・アントワネットは王妃となった。
王妃としてのマリー・アントワネットの不人気ぶりもまた有名である。その一因としてよく挙げられるのは、アントワネットの宮廷生活での浪費ぶりである。この浪費ぶりという原因をみていく前に、別の原因をあらかじめ指摘しよう。
オーストリア出身の王妃ということ
それは、アントワネットがオーストリア・ハプスブルクの出身だったことである。上述のように、オーストリア・ハプスブルク家はフランスの伝統的な敵だった。オーストリアを抑え込むために、わざわざオスマン帝国と伝統的に同盟関係を維持していたほどだった。
テレジアによってオーストリアとフランスが味方になったとはいえ、オーストリアへの民衆の敵対心や嫌悪がすぐに消え去ったわけではなかった。
しかも、オーストリアとフランスはプロイセンに敗北していたので、この同盟はフランス人からすれば国際的な恥をフランスにもたらすものでもあった。
このようにフランスの宿敵だった国の出身であったため、アントワネットは何かを行う前からすでにフランスで嫌われる傾向にあった。
浪費
次に、アントワネットの浪費という不人気の原因に移ろう。この時期のフランスは財政が逼迫しており、様々な改革が必要だった。財政問題はのちのフランス革命の主な原因となるほど重大だった。それゆえ、ルイ16世はネッケルなどを起用して、フランスの再生を図ろうとした。
しかし、マリー・アントワネットは宮廷生活で浪費を重ねた。ルイ16世の諸改革に反対し、軽率でわがままだと言われていた。
それゆえ、フランス国民からは不人気であり、「赤字夫人」とさえ呼ばれた。この浪費にかんするアントワネットの不人気ぶりを象徴するのが「首飾り事件」である。
首飾り事件
1785年の首飾り事件はアントワネットを巻き添えにした詐欺事件である。
この頃、枢機卿ロアンが別件でアントワネットらの信用を失っていた。ロアンは状況を改善させようとして、どうにかアントワネットの機嫌を取る方法を考えていた。モット夫人という詐欺師がロアンに近づき、その方法を提供すると申し出た。
モット夫人はロアンを信用させるために、ヴェルサイユ宮殿の暗闇で偽物のアントワネットをロアンと会わせた。ロアンはその偽物を本物のアントワネットと勘違いしたため、モット夫人を信用してしまった。
次に、モット夫人はロアンに、アントワネットの欲しがっている高額の首飾りをプレゼントするよう提案した。ロアンはこれに応じ、首飾りを購入した。その際に、アントワネットの署名を偽造して、その首飾りを宝石商から購入した。
だが、結局ロアンはその代金を支払えなかったので、宝石商はそのことをアントワネットに連絡した。そこで、この事件が発覚した。
ロアンは投獄され、裁判にかけられた。だが、ロアンは無罪となった。民衆はロアン自身よりも、アントワネットの日頃の浪費にこそ真の原因であり問題があると訴えた。
そのため、この詐欺事件にはアントワネット自身が直接関わっていなかったにもかかわらず、アントワネットの不人気が増大した。
エピソード:「食べるものがなければお菓子を食べればいい」?
このような背景のもとで、「食べるものがなければお菓子を食べればいい」とマリー・アントワネットが発言したという逸話も生まれた。
だが、今日の学術において、この逸話は真実ではないだろうと考えられている。この発言はルソーの著作に由来するという指摘もある。
「食べるものがなければお菓子を食べればいい」の発言のエピソードはアントワネットへの不人気をさらに煽り立てるために捏造されたのかもしれない。
革命の原因としての浪費の重要性?
アントワネットの浪費がフランス財政に与えた影響は、実際にはさほど大したものではなかった。そもそも、フランスの財政はマリー・アントワネットの贅沢な生活がなくても、すでに危機的状況にあったのである。
たとえば、ルイ16世がアメリカ独立戦争(1775−83)に援軍を派遣したことで、ますます財政は悪化した。この派兵はフランスの宿敵イギリスに対抗するためだったが、いよいよフランスの財政危機は極まってきた。
オーストリア出身の王妃と浪費の組み合わせ:革命の一因へ
アントワネットの「浪費家」としてのイメージとオーストリア出身の王妃という出自が結びつき、革命の火種となっていく。
その背景として、マリー・アントワネットは1780年代には王位継承者となるべき息子を産み、政治的影響力を増大させていった。アントワネットは政治家としての手腕をふるうようになったのである。
他方で、この頃には、オーストリアは対外的に拡張政策を展開していった。
フランス国内では、マリー・アントワネットとオーストリア派の閣僚たちが親オーストリア政策を推進していると言われるようになる。次のような疑念がアントワネットに向けられた。
単なる親オーストリア政策ではない。フランスの国庫から莫大な資金をオーストリアの対外拡張支援のために費やしているのではないか。フランスがこれほどにも財政危機に瀕しているのは、マリー・アントワネットがフランスの金を母国オーストリアのために使い込んでいるためではないか。
しかも、かつての同盟相手オスマン帝国をオーストリアが侵略するための資金をマリー・アントワネットが捻出しているのではないか。その結果として、フランス自体は財政のさらなる悪化によって、ますます没落していっているのではないか。
このような噂が流れ始めた。たとえば、1789年には、ヨーゼフ2世とアントワネットの偽の手紙が本物として流布された。ヨーゼフ2世はアントワネットの兄であり、オーストリアの君主である。
ヨーゼフはアントワネットにたいして、オスマン帝国との戦費として大金をフランス国内でかき集めさせ、オーストリアに送らせた。この偽の手紙にはそう記されていた。
このように、アントワネットの不人気は個人的浪費だけでなく、アントワネット自身の政治的影響力の増大に起因するこのような面にも由来していた。オーストリア外交と結びつけられた財政問題がフランス革命の火種の一つとなっていく。
恋多き女
アントワネットの不人気さの他の原因として、マリー・アントワネットが美貌で知られており、貴族たちとの情事も盛んだったことも挙げられる。この点はフランス革命中のアントワネットの行動とも関連してくる。
フランス革命の勃発
1789年、フランス王権の財政問題を主な原因として、ついにフランス革命が始まった。この革命はその後の世界史に大きな影響を与える大事件である。
結果的にみれば、革命議会がフランス王権を打倒してフランスを共和制に至らせ、その中からナポレオンが台頭してフランスを帝政に至らせることになる。
ルイ16世とマリー・アントワネットが直接関わるのはその初期だけである。アントワネットはそこでどのような役割を担ったのか。無力なお姫様だったのか?
革命でのアントワネットの役割
フランス革命は膨大な研究がある。そこでアントワネットが果たした役割についても様々な意見がある。近年においては、アントワネットが革命の初期において、程度の差はあれ、重要な政治的役割を担ったことが知られている。
革命の当初、ルイ16世は革命政府の穏健派にたいしては協調的だった。穏健派は立憲王政の樹立を目指した。立憲王政とは、王権が憲法によって行動を制限される政治体制である。
よって、王権はそれまでよりも自由に行動できないことになる。それでも、ルイは他の諸改革も含めて、立憲王政を推進する穏健派と協調路線を歩もうとした。
これにたいし、マリー・アントワネットは革命以前の体制の維持を望み、革命に反対だった。ルイ16世にも反革命の行動を取るよう求めた。
同時に、アントワネットはフランスに嫁いだ後も、親元のオーストリア・ハプスブルク家への愛着を抱き続けた。その利益になるような政策がフランスでなされるよう働きかけた。
この点で、テレジアの言いつけを守ろうとしたともいえる。これらの反革命とオーストリアとの愛着のもとで、アントワネットはこの時期の宮廷政治と外交政策で一定の役割を果たした。
ただし、アントワネットがこの時期の王権側の偉大な政治家あるいは唯一の外相だったといえるほど大物政治家として活躍したのかについては、専門家の間で議論が割れている。
ヴァレンヌ逃亡事件
1790年に入った頃、フランス王権と革命政府の関係は必ずしも決定的な対立関係にあるとは言いがたかった。ルイ16世とアントワネットは護衛をつけながらもノートルダム大聖堂の儀式に参加したり、貧民対策に協力してパリの孤児院を訪れたりしていた。
だが、王権と革命政府の関係を一気に悪化させる事件が起きる。それはヴァレンヌ逃亡事件である。革命へのアントワネットの影響が特に指摘される事件でもある。
革命が進展するにつれて、マリー・アントワネットは親元のオーストリアがフランス革命に干渉するよう求めた。当時のオーストリア大公および神聖ローマ皇帝は彼女の兄のレオポルト2世だった。
そのような中で、彼女はルイ16世とともに、民衆によってヴェルサイユ宮殿からパリへと移送され、その監視下に置かれた。王負債と協力関係していたミラボー伯爵によって、パリ脱出計画がッ提案された。だが、ミラボー自身はまもなく没した。
マリー・アントワネットは愛人のスウェーデン貴族フェルセンの協力を得て、王家のパリ脱出を計画した。パリから離れた都市で安全を確保した上で、革命議会とより有利な条件で交渉しようとしたのだ。
だが、同年6月20日、移動中に発見され、失敗した。これが1791年のヴァレンヌ逃亡事件である。その後、王夫妻はパリに連れ戻され、チュイルリ宮殿でより厳しい警備のもとで幽閉された。
エピソード:フェルセンとの恋
幽閉中も、マリー・アントワネットはフェルセンにたいして手紙を送った。手紙は検閲を受けていたので、暗号化された部分もあった。
たとえば、チュイルリー宮殿に引き戻されてまもなく、アントワネットはフェルセンに6月28日付けの手紙でこう伝えた。なお、これは暗号化された部分が復号されたバージョンである。
「私はあなたを愛するために、ここで生きています。ああ、私はあなたのことをどれほど心配していたことでしょう。私たちから何の知らせもなく、あなたが苦しんでおられることをどれほど申し訳なく思っていることか。 どうかこの手紙があなたに届きますように。 私に手紙を書かないでください。
これは私たち全員を危険にさらすことになります。なにより、どんなことがあっても戻ってこないでください。 私たちをここから逃がしてくれたのはあなただと知られていますし、あなたが姿を見せたらすべてが水の泡です。 私たちは昼も夜も警備されていますが、私は気にしない。あなたはここにいない。
私のことは気にしないでください。私にはなにも起こらないでしょう。 国民議会は寛大さを示すでしょう。さようなら、最愛の人よ。 最も愛された男よ。 できることならおとなしくしてください。 私のために、お気をつけて。 これ以上書くことはできません。ただ、この世でなにが起ころうとも、私はあなたを死ぬまで愛することでしょう」。
7月9日付の手紙では、アントワネットはフェルセンにこのように伝えている。
「さようなら。 私を憐れんでください。私を愛してください。 なによりも、あなたが今後わたしについてみることについて、私の話を聞く前に判断を下すようなことはしないでください。私が愛し、これからも愛さずにはいられない人から一瞬でも失望されるようなことがあれば、私は死んでしまうでしょう」。
処刑へ
その後、亡命失敗を受けて、レオポルト2世はプロイセンとともにフランス革命への干渉戦争を開始すると宣言した(ピルニッツ宣言)。ここから、フランス革命はフランス国内だけの問題ではなく、ヨーロッパに関わる問題となっていく。
そのような中で、1792年、革命政府では上述の急進派が実権を握った。王権への敵対的な態度を核的にし、ついにフランスの王権を停止させた。ルイ16世が恐れていた事態が現実化したのだ。ルイ16世はもはやフランス国王ではなくなり、マリー・アントワネットもまたもはや王妃ではなくなった。二人とも一般の市民になったのである。
だが、事態はそれで終わらなかった。ルイとともに、マリー・アントワネットは幽閉された。
その後、ルイ16世とマリー・アントワネットの処遇をめぐって、革命政府は特別な裁判を開始した。二人にたいする追放刑で十分ではないかという意見も出された。だが、裁判の結果、二人とも死刑が決定された。
1793年、まずルイ16世が処刑された。同年10月、マリー・アントワネットはもまたギロチンで処刑された。ちなみに、アントワネットは処刑の間際に間違って執行人の足を踏んでしまい、「ごめんなさい、わざとではなかったのです」と言った。これが最後の言葉だとされている。
アントワネットのギロチンでの処刑
マリー・アントワネットと縁のある人物や事物
☆ルイ16世:アントワネットの夫。フランス王権が衰亡していく中で、国家の再建を目指した。フランス革命で、アントワネットより先に処刑された。これらの一連の出来事をルイの視点でみると、どうなるか。
●マリア・テレジア:アントワネットの母。オーストリアの女帝として知られる。テレジアはどのような状況や意図で、アントワネットを宿敵だったフランスに嫁がせたのか。
●ミラボー伯爵:フランスの政治家。フランス革命の初期段階の主要人物。国民議会では穏健派の立憲君主制支持者として活躍した。王権と取引しようとし、最後は・・・。
●ラ・ファイエット:フランスの政治家で軍人アメリカ独立革命で軍人として活躍した。その後のフランス革命では、革命側で参加した。革命初期の主要人物。
マリー・アントワネットの肖像画
おすすめ参考文献
内村理奈(2019)『マリー・アントワネットの衣裳部屋』平凡社, 2019
阿河雄二郎, 嶋中博章編(2017)『フランス王妃列伝 : アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで 』昭和堂, 2017
John Hardman (2019) Marie-Antoinette, Yale University Press
David Andress(ed.) (2019) The Oxford handbook of the French Revolution, Oxford University Press
Patarin, Jacques & Nachef, Valerie (2010) “I Shall Love You Until Death” (Marie-Antoinette to Axel von Fersen), Cryptologia, 34, 104-114