フランス革命の概略(4):テルミドールから総裁政府そして革命の終焉(1794-1799)

 フランス革命は18世紀末にフランスで起こった大革命である。フランス革命に関する一連の記事によって、その背景や展開、意義や影響を説明していく。
 この記事は、「フランス革命の概略(4):テルミドールから総裁政府そして革命の終焉(1794-)」である

1,フランス革命の流れを通史的に追っていく記事

フランス革命の概略(1):背景と原因
フランス革命の概略(2):革命の勃発から1791年憲法制定へ(1789-1791)
フランス革命の概略(3):1791年の国民議会からジャコバン独裁の終焉へ(1791-1794)

フランス革命の概略(4):テルミドールから総裁政府そして革命の終焉(1794-)

フランス革命の概略(5):意義や影響

2,個別テーマに着目した記事

フランス革命における恐怖政治とは
フランス革命における演劇
フランス革命における植民地と奴隷制

 テルミドールのクーデターと「反動」?

 テルミドールのクーデター以後から総裁政府の樹立までは、ながらく、テルミドールの反動の時期として知られてきた。1794年7月ー1795年10月である。伝統的には、この時期はテルミドール派がジャコバン派の急進主義を逆転させ、時計の針を戻したと考えられてきた。
 たとえば、テルミドール派はジャコバン派の社会政策を廃止したり、市民社会の自治を回復させたりした、と。テルミドール派はそれ以上のことをしなかった。よって、テルミドールの「反動」と呼ばれてきた。
 だが、この伝統的理解は批判に晒されている。テルミドール派は革命の「時計の針を戻す」以上のことをしていた。というよりむしろ、革命の針を進め続けていた。さらに、別の仕方でも、ロベスピエールとは異なる政策を展開した。
 では、テルミドール派はこの時期に何をしたのか。

体制の変革

 テルミドール派はロベスピエール派を粛清することで、国民公会の勢力図を大きく変えた。さらに、ロベスピエールらの急進主義的な政策や制度を解体した。彼らの社会政策を放棄した。ジャコバン・クラブを閉鎖した。これらにおいて、テルミドール派はロベスピエールらと異なる道を進んだ。
 さらに、テルミドール派は次のような理由で、ロベスピエールとの断絶を強調した。テルミドールのクーデター後、民衆はジャコバン派の恐怖政治にうんざりしていることが判明した。クーデター実行者たちも恐怖政治の実行者の一部だった。だが、彼らはこの恐怖政治をロベスピエールのせいだとし、彼だけに責任をなすりつけようとした。
 彼らはロベスピエールという元凶を処罰することで、恐怖政治を終わらせ、新しい体制に移行するのに成功したと喧伝した。そこから、ロベスピエールの恐怖政治とテルミドールの時期には断絶があるという考えもうまれてきた。

テルミドール派による革命の推進

 テルミドール派は革命の精神を継承していた。かつてのフランス王権の王朝主義には敵対し、共和制を支持し続けた。国民公会という議会の権力の強化を推進し続けた。
 彼らは共和制の枠内で改革を続けながら、ジャコバン派の専制主義を終わらせようとした。その延長線上に、次の総裁政府を成立させる1795年の共和主義的な憲法を成立させた。

報復と和解の試み

  他方で、テルミドールの時期に、ジャコバンの恐怖政治は次の暴力と連鎖した。いわゆる「白い恐怖」が始まった。1794年末から、かつてのジャコバン派への報復の暴力が展開されたのである。
 恐怖政治は革命にこのような負の遺産をもたらした。国民間の深刻な分裂や対立である。政府は国民間の融和や和解を実現しなければならなかった。この深い傷を癒やすには数年間かかることになる。

テルミドール派の経済

 ジャコバン派の恐怖政治が物価や賃金の統制を、一定程度ではあれ、可能にしていた。さらに、ジャコバン派は飢饉を防ぐことができた。軍事産業などを振興した。 国家の要請で設立された多くの企業は、目覚しい生産性の向上を達成した。実のところ、ジャコバン派によって、フランス経済は安定していたのである。
 上述のように、テルミドール派はこの恐怖政治の制度を解体した。その結果、経済の統制が不可能になった。同時に、統制経済から自由主義経済へのシフトを部分的に進めた。このような経済政策がフランス経済を悲惨なものにしていく。
 たとえば、テルミドール派は賃金の統制を緩めた。ジャコバン派のもとで建設された数々の工場を廃止した。
 政府の庇護に頼っていた膨大な数の企業は大部分が倒産に追い込まれた。原材料の費用や賃金の上昇で、原材料や労働者の確保が難しくなったためである。熟練工がもはや公務員として徴用されなくなったためでもある。そのような中で、アシニア通過が市場原理のもとで暴落した。よって、企業は資金の融通が困難になった。

 総裁政府の成立へ

 1795年のフランスは疲弊していた。 悪天候による穀物不足と通貨の暴落で国民生活は厳しかった。それに伴い、犯罪と自殺が急増した。 対外戦争の負担は重くのしかかった。内戦もまた活発になっていった。

 アンシャン・レジームでのエリートたちが革命の共和制政府に対立し、かつての権力を取り戻そうとした。このような反動に加えて、共和主義者同士でも対立が激しくなった。上述の恐怖政治の負の遺産である。
 政府は共和主義を守ろうとした。同時に、この大いに動揺した秩序を回復し、治安を確保する必要に迫られた。共和主義と治安がこの時期の二つの大きな目標となる。
 そのために、1795年、議会は新たな憲法を制定した。これは個人の自由、法の平等、代議制民主主義といった革命初期の重要な原則を定着させようとした。この憲法に基づき、二院制議会と5人の総裁による総裁政府が誕生した。総裁政府の時期の始まりである。

 共和主義と治安

 だが、総裁政府はこれらの共和主義と治安の確保で悪戦苦闘した。これら二つの目的は当時のフランスではしばしば相反するものとなった。共和主義の敵としては、立憲王政派と、絶対王政派がいた。

 立憲王政派がこの時期のフランスでは中道だと考えられていた。絶対王政派は亡命中だった。これらの王党派や、極左の勢力が総裁政府の政治を左右から攻撃し、非常に不安定なものにしていった。
 総裁政府と議会は恐怖政治の負の遺産に取り組んだ。恐怖政治への補償や和解などの試みである。犠牲者の家族への財産の返還などによって、そのような試みを進めようとした。だが、報復や暴動などは続いた。
 総裁政府は恐怖政治の実行者を特定していた。だが、これらの共和主義者を罰さずに、恩赦を与えることにした。この時期に王党派の脅威が明らかになったため、かつての共和主義者への刑罰をとりやめたのである。総裁政府は負の遺産の解消よりも王党派の脅威に立ち向かうことを優先した。
 だが、この恩赦にかんする総裁政府の決定は法律に基づくものではなかった。そのため、これは立憲主義的な共和主義という総裁政府の立場と憲法に反するものであった。よって、この点で総裁政府は信頼性を損なった。
 他方で、政府は共和主義を定着させようとした。その一環として、宗教の公的実践を制限し、移住者家族を政治的に排除した。これらは革命初期の共和主義の特徴だった。
 しかし、これらの政策が大きな反発をうみ、治安の確保にとって逆風となった。共和主義と治安という二つの目標の対立である。
 1795年10月の選挙によって、共和主義に賛同しない代議士が多く当選した。同じような立場の人々が役人になった。彼らは治安の悪化を事実上容認した。たとえば、恐怖政治の犠牲者たちが報復したとしても、彼らはこれらの犯人を処罰するのに消極的だったのである。
 総裁政府は彼らの行政や司法での怠慢や職務放棄をコントロールできなかった。その分、共和主義の体制や治安が不安定となった。
 この時期には、盗賊の犯罪件数が増えていた。彼らは散発的なものもあれば、組織的なものもあった。さらに、王党派の武装集団がこれと重なった。彼らは共和主義政府から土地を購入した富裕な農民などを襲ったのである。

 監獄が脆弱だったので、逮捕された犯人は陪審員や裁判官にしばしば報復した。総裁政府はこれらの地方の治安を維持できなかった。
 これらの犯罪や治安の悪化は新聞などで毎日のように取り上げられた。王党派などの新聞は政府への攻撃のために、事件を捏造することもあった。治安の回復を望む声が高まっていった。

共和主義より治安を優先する

 総裁政府は国民の信頼を回復するためにも、治安対策に本腰をいれた。まず、1797年に、国家憲兵隊の大改革に着手した。その質と量を改善した。国家憲兵隊はプロフェッショナルな近代的な警察に変わっていった。それでも、盗賊や反乱の鎮圧は警察にとって命がけの戦いであり続けた。
 さらに、総裁政府は犯罪と反乱への対策として、刑罰を厳しくした。たとえば、路上強盗と住居侵入は死刑に処されることになった。財産の犯罪でも死刑に処されることになった。これは革命以前では否定されていたことである。
 このように治安維持のために自由を犠牲にする政策は議会で議論をよんだ。だが、制度化されていった。

 フルクティドールのクーデター:強権政治へ

 総裁政府はさらにそのような措置を推進していった。1797年の選挙で、王党派が勝利し、議会の過半数の議席をえた。共和主義の総裁たちは体制が崩されてしまうと恐れた。そこで、フランス軍の協力を得て、同年9月にフルクティドールのクーデターを起こした。
 その結果、総裁政府は1797年の選挙の大部分を無効と宣言した。いわば、力づくで、この選挙がなかったことにしたのである。
 さらに、総裁政府は王党派の代議士たちを追放した。王党派の数百人の裁判官や県の行政官を排除した。 反革命的な移住者や神父の帰還を根拠に、彼らに対する強権的な措置をとった。 フランスに無許可で戻って捕らえられた移住者すべてに死刑を命じた。

 このように、クーデターの指導者たちは、民衆のカトリックと王党派を政権に対する深刻な脅威とみなした。秩序回復を優先して、それまでの立憲主義と法の支配への支持を放棄し、ますます権威主義的な手段をとるようになった。

 総裁政府が取った手段をより具体的にみてみよう。クーデター後、政府は扇動者などとみなされた人物を国外追放に処す権限をえた。この措置のためには、裁判も審理も必要なかった。この政府の単純な行政命令によって、1400人ほどが国外追放された。
 さらに、総裁政府は42の新聞を廃刊するなどして、ジャーナリズムを抑圧した。
 1798年の選挙は、再び総裁政府にとって好ましくない結果となった。政府はこの選挙結果をあからさまに無視した。これも一種のクーデターとみなされている。
 総裁政府が特に利用した手段が正規軍だった。自身への抵抗勢力や不満分子を抑圧し排除するために、軍隊を利用した。
 その際の特徴的な方法に、「包囲状態」の宣言がある。これはいわゆる戒厳令ではない。「包囲状態」はもともと、ヴァンデなどの反乱の際に、反乱地域にたいして用いられた。
 特定の地域が「包囲状態」と宣言されると、その地域の陸軍司令官は、文民当局の要請なしに、逮捕を命じることができるようになった。監獄を管理したり、軍隊を使役したりすることも可能になった。
 すなわち、軍人がシビリアン・コントロールなしに軍隊を動かし、その地域の裁判官などの役割も行えるようになったのである。このような措置は当初、戦時の例外的な手段として案出された。
 だが、フルクティドールのクーデターにより、総裁政府は望むままに「包囲状態」を宣言できる権限をえた。政府はこれを国内弾圧の日常的な手段に転化したのである。
 その結果、たとえば、1799年までに、220以上の市町村において、地方自治体から正規軍に警察権が移譲された。軍隊は都市や主要道路の監視だけでなく、移動の管理や、疑わしいとされた地域の徹底的な捜索なども行った。

 同時に、総裁政府は司法への影響力を強めた。裁判官などの人事に影響力を行使し、敵対的な人々をその役職から追い出した。その結果、犯罪者として起訴された人々が有罪判決を受ける可能性は高まった。長期間の重労働の罰の数は50%近く増加し、死刑判決の数は2倍以上に増えた。
 総裁政府はこのような司法制度をも利用して、共和制の維持を図った。共和制は多くの点で実質的に損なわれながら、強権的な仕方で保持されたのである。

 ブリュメールのクーデターから革命の終焉へ

 この頃には、ナポレオン・ボナパルトが革命の対外戦争で軍人として頭角を現し、国民的な人気を得るようになっていった。1799年11月、シェイエスはナポレオンと結託し、総裁政府を打倒した。ブリュメールのクーデターである。
 ナポレオンらはそれまでの総裁政府を廃して、統領政府を樹立した。とはいえ、総裁政府が利用していた弾圧手段を多用することになったので、その体制との連続性もみられたが。
 ブリュメールのクーデターとともに、フランス革命は終焉したと一般的に考えられている。

ブリュメールのクーデタ

 総裁政府の経済

 アシニア通過は1795年5月末までに456億リーブル分の紙幣が印刷された。それが金融システムと経済を疲弊させた。アシニアは暴落の末に、ついに1796年2月に廃止された。フランスは1797年に破産を宣言した。20億リーブル未満の国債を債務不履行とした。アンシャン・レジームと革命によって蓄積された債務負担をこのようにして無理やり解消した。
 この頃、恐怖政治の時期の統制経済への反感はフランスの政治・経済エリートに根付いていった。物価や賃金の統制のみならず、富や土地の再分配もまた嫌悪された。
 政府が経済に関与しないという方針は、たとえば、交通網の軽視にみられた。主要道路や地方の道路も蔑ろにされた。輸送のための馬と牛が軍事で徴用されたのも、輸送問題を悪化させた。

 この輸送問題は、フランスの商業、工業、農業の発展にとって、大きな足かせとなった。この問題は19世紀なかばに全国的な鉄道網が整備されるまで残り続ける。

 征服と経済

 この時期に、フランスは反転攻勢を本格的に進め、ナポレオンが周辺地域の制圧に成功していった。たとえば、1795年にはベルギーとドイツ語圏のライン川左岸、オランダを支配下においた。1798年には、 スイス連邦をヘルヴェティア共和国にした。
 総裁政府はこれらの支配地から莫大な利益をえた。これらの地域は重税を強いられた。たとえば、1798年から99年だけでも、占領地からの税金は1億5800万リーブルに達した。 反抗的な都市はより思い税金を強いられた。たとえば、ローマは7000万リーヴルを支払わなければならなかった。
 さらに、フランスはこれらの地域から貴重な原材料を入手した。たとえば、ベルギーの石炭、レーヌの鉄、ピエモンテの絹などである。かれらの科学知識なども吸収した。

和解や融和へ

 上述のように、恐怖政治や内乱での深い対立がフランスの国民内部で生じていた。テルミドールのクーデター以降、政府は国民間の和解や融和を推し進めようとした。
 フランスのほとんどの地域では、集団的な暴力の加害者と被害者がその暴力の後も隣り合わせで暮らし続けなけらばならなかった。そのため、彼らは報復や処罰、共存や和解のジレンマを生きた。

 たとえば、不正な暴力の犯人を裁きたいという要求や、犠牲者の記念碑を新設するという行為は、復讐心を忘れ和解して治安を回復するというニーズとしばしば対立した。
 このような複雑なジレンマはきれいに解消されなかった。だが、人々は和解のために、様々な工夫をした。たとえば、祭りや演劇が利用された。あるいは、新興宗教が市民にたいして、相互に赦しあい、過去のすべての過ちを忘れるよう説いた。
 様々な工夫と状況の結果として、フランス人は相互の報復や分裂の危機を乗り越えていく。

 ※フランス革命に様々な影響を与えた演劇については、次の記事を参照

 フランス革命の意義や影響

 フランス革命の意義や遺産は実に広範で深甚なものである。そのため、フランス革命は学校での歴史の授業だけでなく、書物や演劇などの文学、テレビや映画などでも繰り返し扱われてきた。意義や遺産について、詳しくは次の記事を参照。

フランス革命の大まかな流れ

 フランス革命の流れをおおまかに示すと、次のようになる。1789年7月のバスティーユ監獄の襲撃で、フランス革命が始まる。国民議会が主体となり、フランスという国のかたちを大きく変革していく。貴族という身分は消滅し、領主はいなくなる。人権宣言が出され、新しい国のかたちが模索される。
 1791年に議会はヨーロッパで最初の成文憲法を制定し、フランスは立憲君主制に至る。国王のパリ脱出計画の失敗の後、議会は王権を廃止し、フランスは共和制に至る。国王夫妻は処刑される。
 国内外で反革命の勢力が台頭し、力づくで革命を失敗させようとする。議会は危機的状況に陥る。これを乗り切るために、1793年、ロベスピエールらのジャコバン派が議会を支配し、独裁をしき、恐怖政治を始める。経済を統制しながら、危機を乗り越える。
 1794年、危機が弱まる。ロベスピエールの恐怖政治がクーデターによって終わりを告げる(テルミドールのクーデター)。テルミドール派は彼の恐怖政治を過去の産物にしようとし、諸改革を勧める。だが、恐怖政治への復讐が繰り広げられ、その負の遺産に苦しめられる。
 1795年、総裁政府が成立する。共和主義という革命の成果の発展と、治安の維持を、主な目標とする。だが、負の遺産が重くのしかかり、反革命の勢力が復活してくる。総裁政府はついに治安維持を優先し、革命の理念(法の支配など)を大いに無視して、強権的な支配に至っていく。独裁的な政府へはあと一歩である。
 その頃、ナポレオンが対外戦争で軍人として人気を得る。1799年のブリュメールのクーデターで総裁政府を打倒し、新たな体制に移行する。ここで革命は幕を閉じる。ナポレオンの独裁体制に至っていく。

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おすすめ参考文献

Whiteman, Jeremy J., Reform, Revolution and French Global Policy, 1787–1791 (Aldershot, 2003)

Dubois, Laurent, A Colony of Citizens: Revolution and Slave Emancipation in the French Caribbean, 1787–1804 (Chapel Hill, 2004).

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Doyle, William, Aristocracy and its Enemies in the Age of Revolution (Oxford, 2009).

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Feilla, Cecilia, The sentimental theater of the French Revolution (Routledge, 2016)

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von Güttner, Darius, French Revolution : the basics (Routledge, 2022)

山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生』刀水書房, 2018

高橋暁生編『 「フランス革命」を生きる』刀水書房, 2019

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