ゴーギャンは19世紀後半のフランスの画家(1848ー1903)。ポスト印象派や象徴主義の代表的人物として知られる。若い頃は船乗りや株式市場で働いた。20代なかばから絵を描くようになり、当初は印象派の影響を受けた。その後、セザンヌの影響を受け、象徴主義を牽引する画家となった。当時フランス領だったタチヒへ旅立ち、この新天地で新たな作品を生み出していった。一時期、オランダ画家ゴッホと共同生活したことでも知られる。以下、ゴーギャンの絵画の画像つきで紹介する。
ゴーギャン(Paul Gauguin)の生涯
ポール・ゴーギャンはパリでジャーナリストの家庭に生まれた。彼が誕生した1848年、フランスは2月革命が起こった。その結果、王制から共和制に移った。父は共和主義者だったので、これを大いに喜んだだろう。
だが、誕生して間もない共和制は短命だった。ナポレオン3世により、フランスはすぐに第二帝政に至った。この流れで、ゴーギャン一家は亡命を余儀なくされ、ペルーに移った。
1855年、ゴーギャンはフランスに戻った。10代なかばから20代前半までは、南米などを航行する商船の船乗りとして働いた。1871年、ゴーギャンはパリで株式仲買人として成功した。結婚もした。
画家としての開化:その特徴
この頃、ゴーギャンは習慣的に絵を描くようになった。印象派の画家ピサロと知りあい、絵を学ぶようになった。そのため、当初のゴーギャンの作品は印象派の影響を受けたものだった。
上述のように、ゴーギャンは様々な地域を遍歴して育った。多様な背景をもつ人物だった。そのため、ピサロは、ゴーギャンをあちこちで見つけたものをそのまま持ち帰る人だと評した。だが、この特徴はこう表現されることもある。ゴーギャンは対応力や柔軟性をもち、新しい考えに好意的で順応できる、と。
1876年には、ゴーギャンはサロンにも出品した。1880年からは印象派の個展にも参加した。ピサロはセザンヌの作品をゴーギャンに紹介した。その結果、ゴーギャンはその影響を受けるようになった。
1883年、当時のフランスの不況の影響もあって、ゴーギャンは株式仲買人を辞め、画家として生計を立てることになった。だが、当初は人気が出ず、貧しい日々を送った。また、画家以外の職業を諦めたわけではなかった。
1886年、ゴーギャンはブルターニュのポンタバンに滞在した。セザンヌらの影響がみられ、それまでの印象派の画風が後景に退いていった。1887年には新たな職を求めてマルティニークに住んだ。その間際にも絵を描いた。
ゴッホとのアルルでの共同生活:ゴッホの『ひまわり』と耳
1888年、ゴッホの招きに応じて、ゴーギャンはアルルの「黄色い家」に移った。ゴッホはアルルにおいて、芸術家たちが共同生活を送るような楽園を築こうとしていた。様々な芸術家たちを招いたが、応じたのはゴーギャンぐらいだった。
これは1888年10月下旬から12月下旬までの9週間に及んだ。最終的には、ゴッホが激しい発作を起こして、ゴーギャンに切りかかり、自身の左耳を切り落とした。かくして、共同生活は幕を閉じた。
この共同生活は長らく神話化されてきた。二人は袂を分かって闘う天才であり、悲劇的な結末を迎え、死後に正当化された。しかし、ここではより詳しく見てみよう。
具体的な事実として、ゴーギャンはゴッホとともに新たなスタイルを模索して、ともに絵を描き、論じ合い、刺激を与えあった。たとえば、10月には、二人は互いの肖像画を交換した。ゴッホは日本人の仏僧に扮した。
ゴーギャンはユゴーの『レ・ミゼラブル』を読み終えたところだったので、その主人公ジャン・バルジャンに扮した。 ほかにも、同一モデルのデッサンを行ったり、美術館に行ったりもした。
さらに、ゴッホはゴーギャンのスタイルを実験的に取り入れて絵画制作を行った。ゴッホはそれまで経験的手法を用いており、自ら見たものを描くリアリストだった。ゴーギャンは想像力を用いて描いた。ゴッホはこの手法を取り込もうとして、『小説を読む人』などを描いた。
だが、結局はこの手法を放棄した。それでも、両者は相互の芸術家としての発展において刺激を与えあった。ゴーギャンはゴッホの『ひまわり』や『星降る夜』の制作のきっかけにもなった。両者ともに、タチヒのようなアトリエの制作に関心を抱き、これについても話し合った。
ゴーギャンは春までアルルに滞在するつもりだった、だが、両者の関係は次第に険悪になった。その結果、ゴーギャンがゴッホをカミソリで襲い、ゴッホが自らの耳を切り落とした。このように長らく語られてきた。
だが、実際には、ゴーギャンが剣を用いてゴッホの耳を切り落としたというのが真相だという研究もでてきた。ゴーギャンはこの傷害事件でかばってもらったようだ。
アルル以後のやりとり
アルルでの共同生活は上述のような仕方で終わった。とはいえ、これで両者の関係が断絶したわけではない。両者は書簡でやり取りを続けた。その多くは失われたが、残っているものも多い。
ゴッホは南方のアトリエという新たな計画を立てており、それへのゴーギャンの参加を期待した。というのも、ゴーギャンはゴッホの英数崇拝の対象であり続けたためだった。だが、この計画は実現しなかった。ゴッホは1890年に自殺してしまう。
象徴主義詩人との交流
その後、ゴーギャンはパリとブルターニュを往復した。この頃、マラルメやランポーらの象徴主義の詩人たちと交流を持った。ゴーギャンの絵画は彼ら象徴主義の詩を絵画で表現したものと評されるようになった。
その一つがこの「黄色いキリスト」である。ルネサンス以降の遠近法を否定し、西洋中世の伝統を活かした作品である。そこに、当時の新中世主義(ロマン主義の影響で、中世に新たな光を投げかけた運動)の影響もみてとれるだろう。
タヒチへ:タヒチでの「妻」
1891年、ゴーギャンは文明を見限り、野性を求めて、タヒチに旅したと評されている。タヒチはフランスの植民地だった。ゴーギャンはパリなどの文明生活に嫌気が差したとはいえ、フランス政府の給費を得てこの旅にでた。
また、この旅立ちは、上述のように、ゴッホとのやり取りの結果でもあった。タヒチに新天地を見出した思いで、絵画の制作に勤しんだ。ゴーギャンは新しい芸術を開拓する洗礼者ヨハネの役割を自ら任じた。エキゾチックなプリミティブな絵画を制作した。また、現地の女性と不倫関係になった。
1893年にフランスに帰国し、それらの絵画を展示した。マラルメなどの友人たちからは好評だった。だが、思っていたような成功をえられなかた。『ノア・ノア』を著述した。これも思ったようにうまくいかなかった。
そのため、1895年に再びゴーギャンはタヒチに移った。『ネバ・モア』などの名画を次々とうんだ。だが、暮らしぶりは苦しかった。
1898年、娘の死のニュースを知り、自殺を試みて失敗した。アルコールに溺れるようになった。
1901年、それまで住んでいた地域に西洋の影響が広まっていくのを見て、ゴーギャンはマルケサス諸島のヒバ・オアのアトゥアナに移った。そこに土地と家を買った。この高床式の家を「喜びの家」と呼び、自らの芸術作品に仕上げていった。1903年にそこで没した。
こういう面白い解説もあります
美術評論家として人気の山田五郎さんがYoutube公式チャンネルにてお送りするゴーギャンの解説
ゴーギャンと縁のある人物
●ゴッホ:ともに印象派の影響を受けながら、そこから新たな道を開拓した画家。アルルで2ヶ月だけ共同生活をおくった。この共同生活はゴッホの視点からどのようにみえるのだろうか。
●セザンヌ:ゴーギャンに影響を与え、印象派の影響から抜け出るのを後押しした画家。セザンヌは生前にほとんど高い評価を得られなかった。死後に近代絵画の父と評された。
ゴーギャンの肖像画
ゴーギャンの代表的な作品
『ヤコブと天使の格闘』(1888)
『黄色いキリスト』(1889)
『マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)』(1892)
『ネバ・モア』(1897)
『われわれはどこから来るのか? われわれは何者なのか? われわれはどこへ行くのか?』(1897)
『ノア・ノア』(1897)
おすすめ参考文献
六人部昭典『もっと知りたいゴーガン : 生涯と作品』東京美術, 2020
Dario Gamboni, Paul Gauguin : the mysterious centre of thought, Reaktion Books, 2014
Douglas W. Druick, Van Gogh and Gauguin : the studio of the south, Thames & Hudson, 2001