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バルザック:人間喜劇

 オノレ・ド・バルザックはフランスの小説家(1799―1850)。20代までは、作家としても他の事業においても失敗を重ね、破産に至った。だが30代から作家として成功していく。独自の手法により、19世紀前半のフランス社会の全体像を一群の小説によってリアルに描き出した。この記事では、バルザックの生涯と功績を説明する。

バルザック(Honoré de Balzac)の生涯

 バルザックはフランスのトゥールで公務員の家庭に生まれた。バンドームのオラトリオ会系の寄宿学校で学んだ。

 この頃、フランスは革命の嵐の渦中にあった。1814年には、ナポレオンがついに失脚した。このタイミングで、バルザック一家はパリに移った。
 バルザックはパリ大学に入り、法学を学んだ。哲学者になることを望んでいた時期もあった。機械論的な唯物論の影響を受けた。弁護士の事務所で書紀もつとめた。

 初期の失敗

 1810年代末には、バルザックは作家として身を立てようと志した。家族は彼を公証人にしたかった。だが、バルザックは作家として活動を開始した。悲劇や小説を制作したが、全て失敗した。
 1825年からは出版業や印刷業などに参入した。だが、これらも失敗したため、バルザックは破産した。印刷工や鋳物師として生計をたてようとしたが、これもうまくいかなかった。

 作家としての成功の始まり

 1828年から、バルザックに転機が訪れた。バルザックはフランス革命の歴史小説『ふくろう党』などで成功を収めた。少女たちに焦点を当てた私小説のシリーズも一定の評価をえた。
 バルザックはパリのサロンに出入りするようになった。社交界で成功しようと欲した。当時のフランスの社交界を渡り歩いた人たちと同様に、名誉や金そして愛を欲した。サロンでは、話し上手な評判の人物となった。
 これらの経験を糧にして、時代のニーズにあわせてジャンルを調整しながら、様々な作風の小説を次々と世に送り出していった。

 7月革命とバルザックの「転向」

 この頃、1830年、フランスでは7月革命が起こった。これにより、国王ルイ10世を自由主義的なブルジョワが打倒した。
 それまで、バルザックは自由主義に敵対的だった。サン・シモン主義の影響を受けた左派的立場に立っていた。7月革命においても、共和主義の理想を信用できなかった。
 むしろ、バルザックは7月革命後の新たな王権への支持に移った。そこで、貴族たちとの人脈を積極的に築いた。1832年には、ハンスカ夫人と出会い、恋仲になっていく。

 1830年代はバルザックの最も多産な時期となる。この時期には、哲学的な小説もみられた。だが、最も注目すべきは代表作『ゴリオ爺さん』である。

 バルザックの独自な手法:『ゴリオ爺さん』

 1834年、バルザックは『ゴリオ爺さん』を執筆した。これがバルザックの大きな転機となる。
 この作品は、ゴリオ爺さんが二人の娘への盲目的な愛ゆえに全てを犠牲にした挙げ句に、彼女たちに捨てられてしまうという悲劇的な物語である。
 同時に、ラスティニャックという地方出身の若者がパリで成り上がろうとする物語でもある。後者がバルザック作品にはよくみられるモチーフであるといえる。
 この作品において初めて、バルザックは同一の登場人物を別の作品に再登場させるという手法(人物再現)を編み出した。これがバルザック文学の大きな特徴となる。また、本作品はフランスのリアリズム文学に多大な貢献をしたと評されている。 
 1835年の『谷間の百合』も同様の名作とされている。

 1836年、バルザックは創刊されたばかりの新聞『ラ・プレス』で小説の連載を担当することになった。新聞での連載小説は当時新しかった。この方式がバルザックの小説に影響を与える。上述の人物再現の方法にまさに適した方式だったのである。

 『人間喜劇』の構想:その特徴

 1842年、バルザックは『人間喜劇』の出版事業を開始した。それまで公刊したほぼすべての作品に『人間喜劇』という総題をつけた。
 これらの作品を一つの有機体としてまとめあげ、それら全体を通して19世紀前半のフランス社会の全体像を小説というかたちで描きあげようとした。彼の優れた洞察力や記憶力、経験の賜物である。

 その手法として特徴的なのは、『ゴリオ爺さん』で行ったように、同一の登場人物が複数の作品にまたがって登場することだった。
 そうすることで、登場人物がそれぞれの作品を結びつける有機的な糸として機能した。このシリーズの一部として組み込むために、過去に出版した小説を多かれ少なかれ修正した。

 1846年の『貧しい両親』は特徴的で野心的な試みの作品だった。物語上の時間がバルザックの執筆している時間と一致した作品だったのである。バルザックはこのような新たな試みをおこなった。

 また、バルザック作品の特徴として、登場人物が好奇心や完璧主義などの圧倒的な情熱に駆り立てられて、エネルギーを使い果たし、ピークを迎えるという筋立てが指摘されている。

 『人間喜劇』の諸作品は1842−48年まで執筆された。140作品ほどを公刊する予定だったが、実際に公刊されたのは90作品ほどだった。名前のある登場人物の総数は2400人ほどだった。

 バルザック自身は著述活動と同時に製材業などの事業経営を試み、あるいは代議士として立候補などした。そのような経験や知見により、バルザックは当時のフランス社会の様々な職種や身分の人々を題材とすることができた。
 ただし、軍事や産業社会の下層階級などについては不十分だという指摘もある。

 かくして、フランス社会の優れた記述を残すことができた。彼のリアリズム文学はロシアの代表的な小説家ドストエフスキーらに大きな影響を与えることになる。

 1850年に、過労の末に没した。結局、財産よりも負債のほうが多かった。

 バルザックと縁のある人物

ヴィクトル・ユゴー:バルザックの友人。同時代のフランスの著名な文学者で、『レ・ミゼラブル』などで知られる。バルザックの葬式で弔事をよむほどの仲だった。

バルザックの肖像写真

バルザック 利用条件はウェブサイトで確認

バルザックの代表的な作品・著作

『ふくろう党』(1829)
『結婚生理学』(1829)
『私生活情景』(1830)
『ルイ・ランベール』(1832)
『田舎医者』(1833)
『ウージェニー・グランデ』(1833)
『ゴリオ爺さん』(1835)
『谷間の百合』(1836)
『幻滅』(1837ー43)
『浮かれ女盛衰記』(1838ー47)
『従妹ベット』(1846)

おすすめ参考文献

柏木隆雄『バルザック詳説 : 『人間喜劇』解読のすすめ』水声社, 2020

東辰之介『バルザックの文学とジェンダー』春風社, 2017

André Vanoncini, Balzac, roman, histoire, philosophie, Honoré Champion, 2019

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