カール 1 世はフランク王国の王で神聖ローマ帝国の初代皇帝(747 ー814 )。5世紀に滅んでいた西ローマ帝国の復興を掲げ、西ヨーロッパ地域を制圧し、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる国を打ち立てた。皇帝がローマ教皇から戴冠されるという慣習がうまれた。カトリック教会の実質的なトップとして君臨した。
カールはヨーロッパ全体を支配したと評され、ヨーロッパの父と呼ばれる。カール大帝の生涯と功績を知ることで、中世ヨーロッパの根幹部分を知ることができる。
ちなみに、カールはシャルルマーニュと表記されることもある。カールはドイツ語での表記、シャルルマーニュはフランス語での表記であり、同一人物である。
カール大帝(Karl I)の生涯
カールはドイツのアーヘンでフランク王国の実質的な王ピピンの長男として生まれた。父ピピンはそもそも王権を不正に簒奪し、実質的な王となっていた。その簒奪行為を正当化するために、キリスト教会に依存した。よって、ローマ教皇庁と緊密な関係を築いていった。
768年、父が没した。当時の慣習に従い、カールと弟のカルロマンがその後継者となり、共同統治を開始した。769年には、父がやり残したアキテーヌの征服を完了させた。両者はすぐに不和を起こすようになった。だが、カルロマンがまもなく没した。771年、カールが単独の国王になった。
周辺の征服活動
カールはゲルマニアの征服を開始した。とくに、サクソン人は手強かったので、彼らとの戦いには30年ほどを要した。カールの軍事活動の多くは彼らとの戦いだった。772年から遠征を開始し、ドナウ川中流あたりまで征服するのに成功した。
フランクの伝統では、軍事的成功が王の資質として重要視されていたので、カールはフランク王としての地位を固めた。征服されたサクソン人はキリスト教に強制的に改宗させられた。
この頃、教皇ハドリアヌスの求めに応じて、カールはイタリア北部のランゴバルド王国との戦争を開始した。ランゴバルド王国が教皇領にとって脅威だったためである。また、カールは父ピピンの親カトリック政策を継承していたためでもある。
カールはヴェローナやパヴィアなどを攻略した。774年、この戦争に勝利し、ランゴバルド王国の王にもなった。当初は従来の統治制度をおおむね維持しようとした。だが、彼らは反乱を起こした。カールはこれを制圧し、彼らを屈服させた。また、父ピピンが教皇庁に与えていた教皇領をカールは承認した。
スペインへの進出と苦境
この時期、イスラム勢力が勃興し、アフリカ北部やイベリア半島に進出した。778年、カールはガリアの安全を確保するために、イベリア半島に遠征した。これは一時的に成功した。だが、サクソン人の反乱やイスラム勢力の巻き返しなどにより、最終的には成功しなかった。
それでも、カールはバルセロナやパンプローナなどを征服するのに成功し、これらの都市を自国に組み込んだ。780年代後半には、カールは新たな宗教的熱意をもって戦争を遂行したといわれている。すなわち、異教徒を改宗させるとか、キリスト教徒に与えた損害のために彼らを罰するという熱意である。
アヴァール人との戦い:防戦への転換?
カールはアヴァール人とも戦い、790年代に制圧した。これを契機に、カールの戦争は攻撃から防衛に転じた、と一般的に評されている。だが、これには批判もでている。
以上のようにして、カールは広大なフランク王国を構築した。とはいえ、カールは没するまで周辺地域との武力対立や交渉を繰り返した。たとえば、ブルターニュ人やノルマン人などは彼に服従しなかった。とはいえ、カールは周辺地域が自身に服従しない限り戦い続けたわけではなかった。外交手段や平和的な交渉で対立関係を終わらせることもあった。
領地経営
長らく、カールは旅する王だと認識されてきた。カールは宮廷全体とともに、帝国の各地を移動して支配を安定させてきた、と。だが、この理解は批判を受けている。
宮廷ごと移動しながら領地を遍歴して統治する方法は、中世ヨーロッパに多くみられることになる。宮廷とはまず君主の取り巻き集団を意味し、家族・親族・奉公人、役職者、高官である。
お抱えなどの学者や芸術家も含む人的集団である。君主が取り巻きや家畜、家具や食器、公文書や宝物などを携えて各地を巡歴した。カール大帝はこのような宮廷の巡歴の始まりと目されることがある。だが、厳密にはそうとはいいがたい。
たしかに、カールが旅をすることはあった。それは外交や遠征、巡礼、狩猟、会議のためである。しかし、帝国内での旅あるいは巡歴は帝国の統治制度の一つといえるほど体系化あるいは組織化されてはいなかった。
さらに、カールが旅をする際に、取り巻き全体を引き連れていくことはほとんどなかった。そのため、宮廷巡歴の始まりという点では、これは疑問視されている。
上述の征服活動で帝国の領土が拡大するにつれて、カールは領地経営で役人を多用するようになった。役人を各地に派遣し、彼らに統治を行わせた。勅令を出し、通信ネットワークを構築し、文書で彼らとやりとりした。あるいは、カール自身が地方に出向き、エリートや役人と会議を開くこともあった。
よって、カールの旅や巡歴が一定の重要性をもったとはいえるが、各地の役人による統治や彼らとのネットワークもまた重要であった。カールの帝国の支配では、後者は不可欠だった。
カールは広大な帝国の多種多様な臣民を支配する際に、キリスト教の宗教を利用した。慣習や民族などの背景が異なる人々が一つの国のもとに置かれれば、それぞれの利害のために国は分裂しかねない。彼ら全体を一つにまとめあげる精神的な結び目として、カールはキリスト教を利用した。
神聖ローマ帝国の皇帝へ:教皇からの戴冠
800年のクリスマスの日に、カールはローマのサン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世から西ローマ帝国の皇帝として戴冠された。
カールの戴冠
西ローマ帝国は事実として滅亡して久しかった。この帝国の復興が宣言され、カールは自らその後継者と称した。カールは古代ローマの初代皇帝アウグストゥスを自身のモデルとして仰いだ。812年には、東ローマ帝国の皇帝がカールの称号を認めた。
教皇からの戴冠により、カールは自身の支配の正統性をキリスト教にも基づけた。広大な領地を支配する上で、それが得策だと思われた。カール以降、神聖ローマ皇帝が教皇から戴冠される慣習がうまれた。
これはその後も長く続くことになる。カール大帝から1千年後に、神聖ローマ帝国を滅ぼすことになるフランス皇帝ナポレオン1世がわざわざ教皇からの戴冠式を模倣したほどだった。ただし、ナポレオンの時期には教皇の権威が弱まっていたので、従来とは異なるやり方ではあった。
皇帝と教会
カールの宮廷では、アウグスティヌス的な考えのもと、王は神の摂理を実現する道具とみなされた。また、旧約聖書に登場するメルキゼデクのように、カールもまた王かつ聖職者である、と考えられた。
王はキリストの代理人でもある。よって、王は世俗的な幸福のみならず、魂の幸福にも配慮することになった。カール自身もまた、臣民にたいする魂の救済や教義のような宗教的責任を自身の中心的問題に据えた。を。
実際に、カールは当時のキリスト教会で主導的地位を担った。公会議を主宰し、異端を断罪して正統な教義を守り、教会制度を整備し、キリスト教の儀礼を導入し、教会の建物を建築し、キリスト教教育を推進し、キリスト教の正典の普及に尽力し、聖職者の任命や規律に関わった。
ほかにも、聖遺物崇拝を宗教政策の中核に組み込んだ。どの教会にも祭壇には必ず聖遺物が必要ということになった。聖遺物と聖人の崇拝は中世キリスト教の中心的な特徴になっていく。教皇はこれらの大部分においてカールに従った。ただし、帝国全体において、儀式や制度などの統一性は貫徹されず、多様性は残った。
カールは「新たなコンスタンティヌス」(古代ローマ時代に、迫害されていたキリスト教を初めて公認したローマ皇帝)や「新たなダビデ」と呼ばれるようになった。
カロリング・ルネサンス
同時に、カールはアルクインらの優れた学者を招いて、文化政策も積極的に推進した。たとえば、カールはラテン語の使用を普及させようと尽力した。ラテン語はかつて古代ローマで使用されていたが、カールの時代には忘却されつつあった。
カールはラテン語の正式書法を定めるなどして、ラテン語の復活を推進した。政治や教会にかんする重要な書物をラテン語で制作させ、それを帝国全体に配布させた。そうすることで、書物や知識に基づいた帝国の支配を実現しようとした。
もちろん、役人がラテン語を読めなければならなかった。そのため、カールは自身の臣下の能力を引き上げるためである。具体的には、学校の新設や教育プログラムの刷新、図書館の設立や蔵書の増大などを進めた。これらの結果、カロリング・ルネサンスとよばれる文芸復興が起こった。
ここで、カールの修道院政策をみてみよう。修道院政策にカールの文芸および宗教の政策のあり方が端的にみてとれるためである。当時、西欧では聖ベネディクトがベネディクト修道会を創設するなどして、修道会の活動が活発になっていた。
カールは修道院を積極的に保護する政策をとる。ベネディクトが定めた『戒律』を修道院で採用するよう勅令を出した。
カールは修道院をカロリング・ルネサンスの主な拠点の一つとして利用した。まず、修道院では学問の活動を推進した。ラテン語の読み書きを教え、ラテン語の本を正確に書写する場でもある。さらに、ラテン語の書物のニーズが増えたことにより、速記法や文法も修道院で教えられた。その過程で、カロリング小文字が案出された。
カールの死後:ヨーロッパの父
806年、カールは自身の没後に領土を三人の息子に分割すると布告した。814年に没した。カールの領土はヨーロッパ全域に迫るほど拡大していた。そのため、カールは死後にしばしば「ヨーロッパの父」と呼ばれてきた。
しかし、これらの広大な領土が一人の君主によって支配されることは二度となかった。カールの領土はそれぞれ西フランク・欧フランク・東フランクに分かたれることになる。
それぞれの地域で戦争や反乱が生じる中、新たな支配者たちは自身をカール大帝の名声や血筋と関連付けることで、自身の支配を正当化しようとした。その顕著な例が、10世紀後半の東フランク王(ドイツ王)オットーによる皇帝即位であり、神聖ローマ帝国の設立である。
これはカール大帝の復活させた帝国の後継者を自認することで、自らの制度を正当化した(神聖ローマ帝国の厳密な始まりがいつなのかについては、議論が割れている。すなわち、カール大帝の時期なのか、オットーの時期なのか)。神聖ローマ帝国は19世紀初頭にナポレオン1世に滅ぼされるまで存続することになる。
カール大帝の肖像画
おすすめ参考文献
甚野尚志『疫病・終末・再生 : 中近世キリスト教世界に学ぶ』知泉書館, 2021
Rosamond McKitterick, Charlemagne : the formation of a European identity, Cambridge University Press, 2008
Janet L. Nelson, King and emperor : a new life of Charlemagne, University of California Press, 2019