レオポルト1世は神聖ローマ帝国の皇帝(1640ー1705)。在位は長く、1658から1705年まで。この時期、フランスとオスマン帝国と厳しい闘いを強いられた。第二次ウィーン包囲を耐え、フランスを孤立させてどうにか乗り切った。他方、オーストリア・ハプスブルク家の所領で対抗宗教改革を敢行した。芸術の愛好家としても広く知られる。
レオポルト1世(Leopold I)の生涯
レオポルトはオーストリアのウィーンで神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の次男として生まれた。本来は兄のフェルディナント4世が皇帝になる予定であり、レオポルトにその予定はなかった。
そのため、レオポルトは当時の慣行にしたがい、聖職者の道を進んだ。
レオポルトは幼少期から英才教育を受けた。 歴史や文学、天文学や自然哲学などを学んだ。イタリア語やスペイン語、ラテン語も習得した。
芸術にも関心を深め、特に音楽に没頭した。もちろん、オーストリアのハプスブルク家として宗教教育も行われ、敬虔な人物として育った。
レオポルトの即位
1654年、兄フェルディナントが皇帝に即位した。だが、まもなく病で急死した。そこで、急遽レオポルトが即位する流れとなった。
レオポルトはオーストリア・ハプスブルク家の当主となり、所領を受け継いでいく。翌年、レオポルトはオーストリア大公になった。1656年、ハンガリーの王になった。
1657年に父が没した。レオポルトは神聖ローマ皇帝の選挙に出馬し、皇帝に即位した。
レオポルト1世の治世:オーストリア・ハプスブルクの強大化
レオポルトの時代に、オーストリアは強国となった。ハプスブルク家に確固たる政治的基盤を与えるほどだった。
それまではフェリペ2世などのスペイン・ハプスブルク家がオーストリア・ハプスブルク家に影響力を及ぼしていた。だが、その逆になるほどだった。
皇帝はドイツでのプロテスタント諸侯との戦争で勝利を重ねられるようになった。さらに、ハプスブルク家の所領の強大さゆえに、その後もハプスブルク家が神聖ローマ皇帝に選挙で選ばれ続けることになる。
とはいえ、帝国にせよハプスブルク家の所領にせよ、政治行政の面では中央集権化はレオポルトのもとでは、たいして進まなかった。
所領での対抗宗教改革:支配の確立へ
その代わりに、レオポルトは対抗宗教改革を推進することで、ハプスブルク家の所領での支配を確立していった。そもそも、16世紀のオーストリアやハンガリー、ボヘミアではプロテスタントが進出し、勢力を誇っていた。カトリックは劣勢だった。
だが、プロテスタント同士の対立やオスマン帝国の影響力もあり、プロテスタントの影響力には限界があった。また、カトリックもイエズス会を派遣するなどして、巻き返しを図った。
17世紀前半には、カトリックの対抗宗教改革が徐々に成果をあげ始めた。
これは宗教改革などによって弱められたカトリックの信仰や教会制度を復興し強化するための運動である。特に、30年戦争の前半は皇帝がプロテスタント諸侯に優位に立ったため、対抗宗教改革も軌道に乗り始めた。
17世紀後半になり、レオポルトは皇帝に即位すると、ハプスブルク家の領地での対抗宗教改革をさらに推進した。俗人による兄弟会の結成を促進し、司祭や修道士を積極的に派遣した。特に、イエズス会が学院の設立や民衆への説教で活躍した。
フランシスコ会やカプチン会なども活躍した。聖人崇拝が重要となり、特にマリア崇拝が重要となった。聖人崇拝は中世キリスト教の中核的要素の一つだったが、宗教改革で批判の的になっていた。そのため、対抗宗教改革では積極的に擁護されたのだった。
レオポルトは上述のように当初は聖職者の道に進んでいたので、自身の領地での教会統治権を掌握しようとした。高位聖職者の人事権を握り、修道会についても支援すればするほど介入もした。
そのため、教会統治権を普遍的に得ようとするローマ教皇庁としばしば対立し、緊張関係にあった。他方で、イエズス会のフィリップ・ミュラーやカプチン会のシネッリのように、レオポルトに様々な影響力を行使できた修道士もいた。
プロテスタントへの対策
レオポルトは他の手段も利用した。プロテスタントの教会を閉鎖し、罰金を科し、牧師を追放した。異端審問や魔女裁判も行われた。また、カトリックに改宗した者には公職への登用で優遇した。
全体的にみれば、これらは成功した。だが、限界もあった。とくに、カルヴァン主義が定着していたハンガリーでは抵抗が強かった。
特に、トランシルバニアが抵抗拠点となった。それでも、ほとんどのハンガリーの大領主はプロテスタントからカトリックへの改宗者となった。農村部でも、対抗宗教改革は不徹底に終わった。聖職者不足が一番の原因だった。
学芸のパトロン:バロック文化
レオポルトは学芸をもハプスブルク家への忠誠の確保に利用した。レオポルトの人柄は他国の大使によって、こう評されていた。知的で好奇心が強く、勤勉で敬虔である。
だが、臆病で優柔不断な面もある。学芸を愛好し、特に文学と音楽を愛している、と。実際、レオポルトはそれらのパトロンとなった。蔵書家であり、立派な宮廷図書館をもった。
音楽では自ら作曲するほどだった。イタリア趣味が強く、オペラが盛んになった。レオポルトの時代にウィーンは音楽などの芸術の都となった。祝祭や儀礼がその一環として盛んに行われた。バロック文化が華やいだ。
また、レオポルトは錬金術にも関心をもち、その実験にもたちあった。これらはハプスブルク家への忠誠を確保する手段でもあった。
皇帝としての戦争
レオポルトの時代、神聖ローマ帝国は主にオスマン帝国とフランスとの戦争が大きな問題だった。
オスマン帝国への勝利
1683年まで、オスマン帝国が神聖ローマ帝国にたいして優勢だった。1683年、オスマン帝国はウィーンを包囲するほど帝国の中心にまで迫った(第二次ウィーン包囲)。
だが、レオポルトは第二次ウィーン包囲を乗り切った。この後、レオポルトは教皇の助けをえながら、反転攻勢に成功していった。
1699年には、ついにハンガリーの全域をもオスマン帝国から解放するのに成功した。16世紀前半のスレイマン1世による第一次ウィーン包囲の頃から、ハンガリーはオスマン帝国の強い影響下にあった。レオポルトがそれをついに解放したのである。
フランスとの戦い:アウグスブルク同盟戦争
レオポルトはフランスとの間でも困難な戦いを強いられた。17世紀後半のフランスはルイ14世のもと、16世紀の宗教戦争による国力の落ち込みから完全に抜け出し、絶対王政の強国へと発展していた。
ルイ14世は対外拡張政策をとり、スペイン領ネーデルラントや神聖ローマ帝国と戦った。レオポルトはオスマン帝国との戦争にも苦しんでいたので、当面はフランスにたいして曖昧な政策をとった。
だが、第二次ウィーン包囲後には、レオポルトには多少の余裕が出てきた。また、フランスの拡張政策にたいして当時の強国オランダやイギリスが警戒心を強めた。
ついに1680年代には、レオポルトはオランダやイギリスとアウグスブルク同盟を結成し、フランスと戦争した。これに勝利し、フランスの対外拡張を頓挫させた。
スペイン継承戦争
1701年から、レオポルトやイギリスおよびオランダはフランスにたいしてスペイン継承戦争を行った。
背景として、スペイン王カルロス2世が跡取りを残さずに没した。その際に、カルロス2世はルイ14世の孫のフィリップをスペインの王位後継者として指名した。
そのため、フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位した。だが、スペインとフランスは当時のヨーロッパの列強国であったので、イギリスとオランダがスペインとフランスの結合を脅威とみなし、これに反対した。
さらに、レオポルトは別の理由でもスペインとフランスの結合に反対した。オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家の統合を目指していたためである。
そもそも、16世紀半ば、神聖ローマ皇帝カール5世の時代に、皇帝はスペイン王を兼ねていた。だが、カール5世は神聖ローマ帝国とオーストリア・ボヘミアなどを弟のフェルディナンド1世に譲り、スペインとネーデルラントなどを息子のフェリペ2世に譲った。
その結果、ハプスブルク家はフェルディナントのオーストリア・ハプスブルク家とフェリペのスペイン・ハプスブルク家の2つに分かれた。
レオポルト1世はこれら2つのハプスブルク家を統合しようと目論んでいた。ところが、上述のカルロス2世の遺言により、スペインはフランスと結びつく流れとなった。レオポルトはこれを阻止すべく、スペイン継承戦争に参加した。
ちなみに、レオポルトのもとで両ハプスブルク家の統一が見込まれたので、この時期に中欧からスペイン領の中南米植民地への移民が増えていた。
ユトレヒト条約へ
この戦争は1713年のユトレヒト条約で終結する。それ以前の1705年に、レオポルトは没した。ユトレヒト条約により、スペイン王は結局のところフェリペ5世が引き継いだ。スペインとフランスとの結合は禁止された。
このように、オーストリア・ハプスブルクはスペイン・ハプスブルクを取り込むことができなかった。とはいえ、このレオポルトの狙いは完全に失敗したわけではなかった。
オーストリア・ハプスブルクはスペイン領だった南部ネーデルラント(現在のベルギー)やナポリとミラノを入手するのに成功した。かくして、スペイン・ハプスブルク家の領地の一部を入手できた。
レオポルト1世と縁のある都市:ウィーン
彼のもとで、ウィーンは本格的に芸術の都として発展していった。
現在でも、ウィーンは音楽の都として有名だ。最も代表的なのは、ウィーン国立歌劇場だろう。創立から150年以上経っており、ウィーン音楽の中心地といえるだろう。他にも、たとえば、アン・デア・ウィーン劇場は由緒があり、歴史を感じさせてくれる。ベートーヴェンの唯一の歌劇『フィデリオ』が初演された劇場としても知られる。
ウィーンでは様々な音楽家が活躍した。ウィーン生まれのシューベルトの生家や、ハイドンが住んでいた家なども訪れることができる。このような音楽の都の基礎をつくった皇帝レオポルト1世を偲びながら、音楽の都を堪能してみるのも一興だろう。
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レオポルト1世と縁のある人物
●皇帝フェルディナント2世:17世紀前半の神聖ローマ皇帝。オーストリア・ハプスブルク家の支配を確立し、皇帝の権威を復活させた。その様々な影響がレオポルト1世の時代まで続いた。よって、レオポルトを理解するにはフェルディナンド2世についても理解するのが望ましい。
→フェルディナント2世の記事をよむ
●ルイ 14 世:フランス国王。太陽王と呼ばれた。幼少期は反乱に苦しんだ。その後フランスの絶対王政を体現するほど王権を伸長し確立したと評されてきた。「朕は国家なり」が有名である。17世紀のヨーロッパ政治を理解する際に欠かせない人物
→ルイ14世の記事をよむ
●ジュール・マザラン:フランスで活躍した政治家。宰相として、フランスの絶対王政の確立に貢献した。フィリップ5世がスペイン王に即位する原因をつくり、よっtスペイン継承戦争の原因をつくった。もともとはイタリア人として生まれたマザランは、どのようにしてフランスの宰相にまで昇りつめ、栄華を極めたのか。
→マザランの記事をよむ
レオポルト1世の肖像画
おすすめ参考文献
菊池良生『ウィーン包囲 : オスマン・トルコと神聖ローマ帝国の激闘』河出書房新社, 2019
R.J.W.エヴァンズ『バロックの王国』新井皓士訳, 慶應義塾大学出版会, 2013
Linda and Marsha Frey, A question of empire : Leopold I and the War of Spanish Succession, 1701-1705, Columbia University Press, 1983