エイブラハム・リンカーンは第16代アメリカ合衆国大統領(1809ー1865)。南北戦争という内戦が生じる中でアメリカ合衆国を維持し、奴隷解放宣言で国内の奴隷解放を実現した。その生涯と功績を説明する。さらに、奴隷解放宣言の和訳も載せる。
リンカーン(Abraham Lincoln)の生涯
リンカーンはケンタッキー州の貧しい農家で生まれた。当時のケンタッキー州は開拓地であったので、リンカーン一家は開拓農民だった。幼少期、リンカーンはしっかりした教育を受けられなかった。
学校には少しずつ通ったようだ。父親の農業を手伝いながら、読書を好んだ。その中には、『ロビンソン・クルーソー』や『イソップ寓話』のような子供向けの本や、初代大統領ワシントンの伝記も含まれた。
様々な仕事の経験:大統領に就任する前の半生
20代に入った頃、一家はイリノイ州に移った。リンカーンは、この頃には、身長188センチメートルの大柄で筋肉質の大人に育っていた。一人暮らしを始め、様々な職業を試した。郵便局員や測量技師などになった。
戦争が起これば兵士として志願した。ホイッグ党から州議会で出馬し、当選したこともあった。最終的には、弁護士の道を選んだ。独学の結果、 1836年、司法試験に合格し、弁護士となった。
リンカーンは弁護士として懸命に働き、徐々に評判を上げていった。この時期、アメリカでは鉄道が全土に敷設されていった。この新たなインフラの普及は社会に様々な問題を起こすことにもなった。
リンカーンはイリノイ・セントラル鉄道会社の正規の弁護士になり、様々な仕事を請け負った。ほかにも、銀行や商社などの訴訟も担当した。 民事だけでなく刑事の裁判でも活躍し、名声を高めた。
リンカーンの性格
リンカーンは気立てのよい人物であり、話し上手だった。文学を好み、よく本を読んだ。特にシェイクスピアがお気に入りだった。好んで原文を暗唱したり引用したりし、その演劇の解釈をめぐって友人と論じあった。
そのほかの大衆向けの演劇も好んで観にいった。詩も好んだ。また、リンカーンは聖書を読むのも好きだった。
社会的に成功するとともに、信心深くなっていったようだ。のちに大統領として活躍した頃には、自身が神の摂理のなかで神の道具として働いていると感じるようになった。
弁護士としては、暗記力や洞察力に優れていた。社会的に成功し、名声を高めていった後でも、公平さと正直さを保った。
政治家として
上述のように、リンカーンは弁護士になる前から政治に関心を抱き、州議会で議員としても活動した。1840年までに、州議会の議員として4回当選していた。
リンカーンは当時のイリノイ州の経済発展にはアメリカ連邦政府の経済支援が必要だと考えた。
そのため、議員として、この地域の鉄道や運河などのインフラ整備を大々的に推進した。だが、当時の不景気による財政不足などで、大部分が失敗した。
リンカーンはリベラルな立場の議員だった。リベラリズムの古典として知られるジョン・スチュワード・ミルの『自由論』を好んで読んだ。では、奴隷制について、当初のリンカーンの立場はどのようなものだったか。
共和党の結成:奴隷制をめぐる問題
40代なかばにして、リンカーンは新たな志で共和党を結成した。その背景として、アメリカは奴隷問題で国内が大きく割れていた。アメリカ南部は大規模な農業経営において大量の奴隷を労働者として利用していた。
だが、北部は資本主義経済が中心的であり、奴隷の労働力は不要だった。北部では奴隷制廃止論者が一定の影響力を誇っていた。彼らは奴隷制がアメリカ経済の発展を阻害し、道徳的にも間違っていると主張していた。
1854年、カンザス・ネブラスカ法が可決された。これはミズーリ州以西の地域をカンザス州とネブラスカ準州としてアメリカ合衆国に組み込んだ法である。同時に、これらの州で奴隷制を認めるかどうかはその住民が決めるべきとした。
これはそれまでの奴隷制をめぐる交渉に反対するものであり、奴隷制反対論者にとって不利であり危険視された。この法は南部の人々には支持されたが、北部では大きな反発をうんだ。
カンザス・ネブラスカ法は奴隷制反対者を結束させることになった。同年から、奴隷制が新たな領土に拡大するのを阻止するというモットーを掲げながら、共和党が結成された。その指導者の一人がリンカーンだった。
共和党の躍進
奴隷制をめぐる争いは武力衝突に発展した。まだ南北戦争が始まったわけではない。だが、1856年の大統領選挙の頃にはすでに奴隷制をめぐる南北対立は激しくなっており、カンザスでは紛争が起こっていた。
この時期の選挙で、アメリカ北部では、共和党が人気を高めていった。勝利はできなかったが、民主党のライバルへと成長していく。
大統領には民主党のジェームズブキャナンが就任した。ブキャナンが奴隷制の受け入れをカンザス州に強制しようとした。
これが北部では民主党にとって大きな逆風となり、共和党にとっては追い風となった。奴隷制をめぐって、民主党は大きく分裂した。
リンカーンの大統領就任
1860年、大統領選挙が行われた。リンカーンは共和党の大統領候補として出馬した。民主党は分裂していたので、大統領候補を二人出した。北部の民主党から一人、南部の民主党から一人である。
この選挙戦で、リンカーンは奴隷制反対を表明した。上述のような経済的理由や道徳的理由を提示した。リンカーンは北部で多くの票を獲得して、選挙に勝利した。
だが、すぐさま一部の南部の州はこの結果の受け入れを拒否した。他の南部州では、リンカーンから奴隷制にかんする妥協を引き出せればそれでよいと考えられた。
これにたいし、リンカーンはまず奴隷制の新たな領土への拡大を阻止することから始めようとした。しかし、このような阻止がなされれば、南部の州は分離独立するつもりだった。
結局、両者の間で妥協はなされなかった。そのため、リンカーンが大統領に就任する前に、南部の7州がアメリカ合衆国から分離独立した。
リンカーンはこれを反乱とみなし、鎮圧するための兵を募集した。南部ではさらに4州が分離して南部連合国に加わった。
南北戦争
1861年、南北戦争が開始された。北部では、リンカーンの共和党は常に民主党から挑戦を受け続けた。民主党は北部で少数派であり続けた。だが、一定の得票数を保持した。
とはいえ、民主党は、分離独立反対で戦争賛成のグループと、戦争反対で奴隷制支持のグループに分かれていた。後者は戦争をすぐに終わらせ、南部連合に有利な条件での講和を結ぶよう訴えていた。共和党もまた穏健派と急進派の分裂に苦しんだ。
一般的に、リンカーンは党内の急進派と距離を保ち、穏健派に属して現実主義的だったと評されている。ただし、奴隷解放問題についてはより複雑なスタンスだったともいわれる。次第に民主党が選挙で勢力を拡大していった。
リンカーンは内閣総辞職や再編成の圧力を受けながらも、どうにかこれに耐えた。それでも、民主党からも閣僚を採用するようになった。ちなみに、南部連合では、政党政治自体は後退していった。
1863年、リンカーンは有名な奴隷解放宣言を公にした。ここに、その訳文を載せよう。ちなみに、原文はなかなかの悪文で読みにくい。
奴隷解放宣言の本文(和訳)
「奴隷解放宣言」
エイブラハム・リンカーン
アメリカ合衆国大統領による
宣言
西暦1862年9月22日、アメリカ合衆国大統領により、特に以下の内容を含む宣言が公布された。
西暦1863年1月1日、人民がその時点で合衆国に対して反乱を起こしているいずれかの州または州の指定された部分内において奴隷として扱われているすべての者は、その時点で、今後永遠に自由の身となる。
陸海軍を含む合衆国の行政府は、そのような人々の自由を承認し、維持する。さらに、そのような人々が彼らの自由を実際に得ようと努力する際に、行政府は彼らやそのうちの一人にたいしてであれ抑圧するような行為を全く行わない。
行政府は、前述の1月1日において、宣言により、その時点でその人民が合衆国に対して反乱を起こしている州および州の一部(もしあれば)を指定する。その際に、州の有資格の投票者の過半数が参加した合衆国議会のための選挙によって選ばれたメンバーを、州や人民が代表者として合衆国議会に誠実に送り出しているという事実は、これに対立する強力な証拠がない限り、そのような州や人民がその時点で合衆国にたいして反乱を起こしていないということの決定的な根拠とみなされる。
それゆえ、合衆国大統領である私エイブラハム・リンカーンは、ここに、合衆国の権威と政府に対する現在の武力的反乱の際に陸海軍の最高司令官としての私に委ねられた権限により、上述の反乱を鎮圧する適切で必要な戦争の措置として、この1863年1月1日の時点において、人民がそれぞれこの時点で合衆国に反乱を起こしている州やその一部を指定し命じる。この日から100日間の全期間にわたって公的に宣言されていた私のこの目的に合致するような仕方でそうするのである。
アーカンソー、テキサス、ルイジアナ(セントバーナード、プラークミンズ、ジェファソン、セントジョン、セントチャールズ、セントジェームズ、アセンシオン、アサンプション、テレボーン、ラフルシュ、セントメアリー、セントマーチン、ニューオーリンズ市を含むオーリンズの各教会区を除く)、ミシシッピ、アラバマ、フロリダ、ジョージア、サウスカロライナ、ノースカロライナ、バージニア(ウェストバージニアと指定された48の郡と、バークレー、アッコマック、モーザンプトン、エリザベスシティ、ヨーク、プリンセスアン、ノーフォークおよびポーツマス両市を含むノーフォークの各郡を除く)。例外とされた地域は、さしあたり、まさにこの宣言が発せられていなかったかのような状態に置かれる。
上記の指定された州およびその一部において奴隷として扱われている全ての者がこれ以降に自由の身であることを、私は上述の権限と目的により、まさに宣言し、そう命じる。陸海軍を含めた合衆国の行政政府はそれらの人々の自由を承認し、維持する。
このように自由の身であると宣言された人々に対して、必要な自衛の場合を除いては一切の暴力を慎むよう、私はここで要請する。さらに、可能なあらゆる場合において合理的な賃金で誠実に働くよう、私は彼らに勧める。
さらに、そのような人々の中で適切な条件を備えた者が要塞や陣地ならびに駐屯地などを守り、あらゆる種類の軍事的な船舶に乗り組むというかたちで、合衆国の軍務に受け入れられることを、私は宣言し、周知する。
そして、この行為が、軍事的必要性に基づいて憲法によって正当化された正義の行為であると心から信じ、私は、人類の思いやりに満ちた判断と、全能の神の恵み深い恩寵を呼び起こす。
軍事的な必要性に基づき憲法によって裏付けられ、正義にかなうと心から信じられているこの行為について、私は人類の熟慮ある判断に訴え、全能なる神の慈悲深いご好意を祈念する。
北部軍の勝利へ
北部軍の勝利が明らかになってきたので、リンカーンは戦後の再建計画を考えるようになった。戦争中に行われた1764年の大統領選挙で、再選を果たした。
イタリア統一の戦いで名声を得ていたガリバルディの助力を得ようとしたが、これは失敗した。1865年、南北戦争には勝利した。だが、リンカーン自身は同年、激情で暗殺された。
アメリカの二大政党制の始まり?
上述のように、リンカーンは共和党の創設時のメンバーの一人だった。現在のアメリカは共和党と民主党の二大政党制である。
とはいえ、この二大政党制はリンカーンの時期から確立していたわけではない。そもそも、共和党がその後長く存続すると予期されていたわけでもない。
むしろ、当時、政党は特定の問題を解決するために結成され、そのような問題が消え去るとともに、その政党は解散するか、まったく別のものに姿を変えるだろうと思われていた。
実際、多くの政党が誕生しては消えていった。よって、この二大政党制がリンカーンの時期に確立したとみることは適切ではない。
リンカーンの肖像画
おすすめ参考文献
井出義光『リンカン : 南北分裂の危機に生きて』清水書院, 2019
Paula Baker and Donald T. Critchlow(ed.), The Oxford handbook of American political history, Oxford University Press, 2020
Shirley Samuels(ed.), The Cambridge companion to Abraham Lincoln, Cambridge University Press, 2012