ヤン・ホイヘン・ファン・リンスホーテンはオランダの冒険家(1563ー1611)。若くしてポルトガル領のインドのゴアに滞在した。帰国して、その頃の知見を利用して、『東方案内記』を著した。当時、このようなヨーロッパ人の旅行記や海外情報はもはや珍しいものではなかった。だが、イギリスやオランダの本格的な海外拡張で非常に重要な役割を担った。なぜか?その理由をみていこう。
リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten)の生涯
リンスホーテンはオランダのハールレムで富裕な商人の家庭に生まれた。なお、当時オランダはまだ独立しておらず、ネーデルラント地域の一部としてスペイン王フェリペ2世に支配されていた。
リンスホーテンはグラマー・スクールでラテン語や数学などを学んだ。その頃の商人の慣行に従い、16歳の頃にスペインのセビーリャに移って、商人としての修行を始めた。
1580年、フェリペ2世はポルトガルの王に即位し、ポルトガルを併合した。そこで、リンスホーテンはリスボンに移った。15世紀末から、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマによって東インド航路を開拓し、インドのゴアに主な拠点を築いた。
その後、ポルトガルは東アジア海域で交易ネットワークを確立した。リンスホーテンはゴア大司教のフォンセカに仕えることになり、彼とともにゴアへと出発した。
インド滞在
1583年から1588年まで、リンスホーテンは上述のゴアで上述の大司教に仕えた。その期間に、リンスホーテンは東アジア海域でのポルトガル海洋帝国の実情や、この海域での交易のあり方、航海の情報、東アジアの先住民たちの情報などを得た。
また、リンスホーテンは天正遣欧少年使節をゴアで目撃した。日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に到来し、キリスト教を弘め始めた。ヨーロッパから次々と宣教師が派遣され、キリスト教の宣教に徐々に成功していった。
1580年、日本のキリスト教会は天正遣欧少年使節を企画した。日本宣教の成功をローマ教皇にアピールするためのものである。この使節は大友宗麟や大村純忠らのキリシタン大名の協力で実現された。九州とローマを往復する一大事業だった。
使節は日本から東アジアの海を通ってローマへ向かうことになった。その途中で、ゴアに立ち寄った。その際に、リンスホーテンはこの大事業を目撃したのである。
1588年、上述のゴア大司教が没した。そのため、リンスホーテンは帰国の途についた。だが、途中で船が難破したため、帰国したのは1592年になった。
北方航路の探検
1594年、リンスホテーンはヴァレンツの北東航路探索に参加した。当時、ポルトガルは東インド航路によってヨーロッパと東アジアを往復していた。これはアフリカ大陸南端を通る南方の航路だった。
これにたいし、オランダやイギリスなどはヨーロッパの北方から中国に至る航路を開拓しようと試みた。ポルトガルと同じ南方ルートでは、ポルトガルに航行を妨害される可能性が高かったためである。リンスホーテンはこの一連の探索航海に参加したことになる。
当時は正確な世界地図がつくられていなかった。まだまだヨーロッパの北方の地理がよくわかっていなかった。そのため、ヨーロッパ人はそのような北方航路が存在するのではないかと考えた。だが、今日からすれば、そのような都合のよい北方航路など存在しないことがわかる。
そのため、もちろん、リンスホーテンらの探検航海は失敗した。リンスホーテンはこの航海に関する『北方航海』をのちに公刊した。そこでは、船から見える海岸線の景色など、今後この探検航海に挑む人々にとって実用的な情報が記載されていた。
『東方案内記』
1596年、リンスホーテンは『東方案内記』を公刊した。この本はリンスホーテンの経験や見聞などをもとに、東アジア海域の様々な情報を載せていた。この地域の国々の情報は一般読者の興味をひいただろう。ちなみに、リンスホーテンは出版社の要請でアフリカやアメリカに関する本も書いたが、彼自身はそれらについて素人と大差なかった。
『東方案内記』はオランダやイギリスの東アジア進出の重要な道具となった。というのも、東アジア海域での交易や航海の貴重な情報を載せていたためだ。ポルトガルは東アジアで海洋帝国を構築し始めた頃から、航海や貿易に関する情報を収集し、記録した。
当初から排外的な独占貿易を狙っていたので、これらの情報が他国に流出しないよう国家機密に指定し、手段を講じた。特に、海図などは遠洋航海で非常に重要だったので、流出を防ぐべき情報だった。
もっとも、これらの情報は完全に流出を免れていたわけではなかった。たとえば、16世紀なかばには、イタリア人のラムージオがポルトガル人の報告書の部分的なコピーを入手し、『航海と旅行について』に掲載して公刊した。
だが、ポルトガルの東アジア貿易と航海の情報を決定的な仕方で流出させたのは『東方案内記』だった。海図やゴアの地図などを掲載した。
貴重な地図情報
1595年にオランダのハウトマンが東アジア航海に旅立つ際に、これらの情報がさっそく利用された。本書のおかげで、オランダ人は東アジアのどこでどのような香辛料が取引されるかを知ることができた。
さらに、そこにいくにはどのようなのルートをいつ取ればよいのかを知ることができた。当時は帆船が主流であり、季節風を利用して移動していたので、いつどの方向に風が吹くかという情報もまた必須だったのである。
もともと、リンスホーテン自身は海図のような情報の提供を渋ったようである。先述のゴア大司教に恩義を感じていたためだ。だが、出版社に説得されて、その情報も掲載することになった。
この出版社が地図情報を載せるよう彼に催促した理由はまず商業的なものだった。本書が出版された時期、オランダがスペインやポルトガルのように東アジア進出に成功できるかは不明瞭だった。まさにこれから試すべき段階だった。
このような状況で、出版社は本書の出版によってオランダの東アジア航海と貿易の成功を後押ししようとした。オランダ商人に東アジアで新たに価値のある貿易ルートを開拓させ、利潤を得させる。その結果、この新しい海外貿易事業への投資が増える。この貿易事業がさらに発展する。出版社はこのような目論見をもっていた。
ほかにも、リンスホーテンと出版社は人文主義的な目的で本書を出版した。これは当時の他の旅行書に共通する目的だったといえる。すなわち、新たな地域や海域の新知識を本国で周知するというものである。
同時に、オランダ人が本書によって東アジアの新たな地域や海域に到達することで、それらの新たな知識を獲得し、本国にこれを普及させることも期待された。
『東方案内記』はすぐに仏語や英語などに翻訳され、ベストセラーとなった。本書はオランダとイギリスの大航海時代を開始させた。オランダ船が日本に初めて到達するのは1600年のことである。
リンスホーテンと縁のある人物や事物
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リンスホーテンの肖像画
リンスホーテンの主な著作・作品
『東方案内記』(1596)
『北方航海』(1601)
おすすめ参考文献
羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社, 2017
Inger Leemans(ed.), Early modern knowledge societies as affective economies, Routledge, 2020
Femme S. Gaastra, The Dutch East India Company : expansion and decline, Walburg Pers, 2003
Harm Stevens, Dutch enterprise and the VOC, 1602-1799, Walburg Pers, 1998