かつてのポルトガル黄金時代の残影が色濃くみられる首都リスボン。18世紀なかばにはヨーロッパで未曾有の規模の大地震を経験し、不死鳥のごとく復活を果たした都市でもある。物価の安さや美味しい料理のために、観光地としても人気である。そんなリスボンの魅力を歴史の側面からお伝えしよう。
リスボンの歴史
ローマ帝国と民族大移動
リスボンの地域は紀元前205年からローマ帝国の支配下にあった。その後、民族大移動の影響で、409年には他民族の支配下に置かれた。民族間の奪い合いの結果、最終的には西ゴート族の支配下に置かれた。
イスラムの支配とレコンキスタ
8世紀には、中近東からイスラム教徒がアフリカに進出した。彼らはさらにイベリア半島に進出した。現在のスペインやポルトガルの一部を支配していった。その中に、リスボンも含まれた。イスラム王朝はリスボンの都市を整備し、城壁で囲った。城壁の外部にもアルファマ地区やリベイラ地区を整備した。
これにたいし、ヨーロッパ人はイベリア半島の再征服を開始した。いわゆるレコンキスタである。事態が大きく動いていったのは、12世紀のアフォンソ1世の時代である。そもそも、アフォンソ1世が生まれた頃、ポルトガルはまだ独立国ではなかった。
むしろ、アフォンソ1世が戦争を通して、1143年にカスティーリャ(スペイン)からポルトガルの独立を勝ち取った。当初の首都は現在のポルトガル中部の都市コインブラだった。同時に、アフォンソ1世はレコンキスタを大々的に推進した。1147年には、ついにリスボンをイスラム王朝から奪い取った。
1147年のポルトガル人によるリスボンの奪取
この頃から、リスボン大聖堂の建設が始まった。その後、ポルトガル人はイスラム勢力によるリスボン攻略を耐えしのいだ。イベリア半島でのレコンキスタを続けた。1249年、アフォンソ3世はポルトガルでのレコンキスタを完了させた。
1256年、首都をコインブラからリスボンに移した。1288年には、リスボン大学が創立された。ヨーロッパ最古の大学創立は11世紀のボローニャ大学であるので、その2世紀ほど後のことである。
大航海時代の始まり:ポルトガルの黄金時代へ
1415年、ポルトガルはアフリカ北部の都市セウタを陥落させた。ここから、いわゆる大航海時代が始まるとされる。
ポルトガルによるセウタの攻略
その後、主にポルトガルとスペインが競い合って、アフリカ大陸の西海岸を南下していく。エンリケ航海王子がポルトガル本国での拠点をリスボンに定めた。その結果、リスボンがポルトガルによる大西洋貿易の本拠地として発展していく。
スペインはコロンブスが大西洋をわたってアメリカを「発見」した。それにたいし、ポルトガルはアフリカ南端の希望峰に達した。15世紀末に、ついにヴァスコ・ダ・ガマがリスボンを出発し、インドへ向かった。
インドへと出発するヴァスコ・ダ・ガマ
ガマは東インド航路を開拓し、念願のインドでの香辛料貿易を開始した。マヌエル1世はガマを、王宮として使用していたサン・ジョルジェ城で迎えた。これ以降、その莫大な利益により、ポルトガルは黄金時代を迎える。1500年には、ブラジルを「発見」した。
ポルトガル人によるブラジルの発見
当初、ポルトガルが入手した東洋の香辛料やアフリカの金はリスボンでヨーロッパ人に売却された。そのため、リスボンにはドイツやイギリス、フランスやイタリア、低地地方などから多くの商人がやってきた。また、ポルトガルはアフリカで奴隷貿易を盛んに行った。よって、アフリカ人奴隷がリスボンに多数みられるようになった。
ポルトガルは東アジアやアフリカおよびブラジルで海洋帝国を築いていった。国王マヌエル1世はその莫大な利益を用いて、この黄金時代の象徴となる建築物をつくらせた。代表的なものは、ベレンの塔とジェロニモス修道院である。
ベレンの塔は1515年に砦として建築された。ジェロニモス修道院は1502年に着工され、20世紀末にようやく完成した。マヌエルの時代の独特な様式でつくられたため、これらはマヌエル様式の代表的な建造物でもある。
16世紀後半のベレン地区(左奥にジェロニモス修道院)
マヌエルの時代、リスボンは海洋貿易の恩恵により、都市として大いに発展した。主にテージョ川沿いのエリアに、リベイラ宮殿などの豪華な建物が新たにつくられた。16世紀前半には、リスボンの住民は6万人を超えるようになった。1531年、リスボンは大地震の被害を受けた。それでも、リスボンは順調に発展を続けた。
ジョアン3世の時代:日本との南蛮貿易
マヌエル1世の死後、ジョアン3世がポルトガル王に即位した。
ジョアン3世の時期のリスボンの全景
ジョアンは篤い信仰心を抱いたことで知られ、敬虔王とも呼ばれた。東アジアやブラジルでキリスト教を広めようとして、宣教師を派遣した。その中に、イエズス会という修道会のフランシスコ・ザビエルが含まれた。
当初、ザビエルはインドや東南アジアで宣教活動をした。そののち、1549年、日本に到来した。キリスト教会を初めて日本に樹立した。そこから、ポルトガルは日本との南蛮貿易を開始することになる。
当初、ポルトガルは東アジアの海域において、独占貿易を実現させようとしていた。たしかに、ゴアやマラッカのような重要な拠点を奪うのに成功した。
ポルトガルによるマラッカの征服
だが、ポルトガルが独占を行うには、あまりにも資源が少なすぎた。たとえば、単純に、海外に派遣できる人員の数が少なすぎた。さらに、海洋貿易のあり方をめぐる内部対立が激しくなってきた。次第に、海洋帝国の維持が難しくなった。そのため、ポルトガルは独占貿易を諦め、この海域の参入者の一つという位置づけに収まった。
16世紀後半から、ポルトガルは日本と中国での貿易を本格化させた。中国では、マカオに貿易の拠点を築くのに成功した。日本では、寂れた漁村だった長崎を主な貿易港として選んだ。
その結果、長崎は日本でも随一の貿易都市として発展することになる。主に長崎とマカオの間で南蛮貿易が本格化した。主な貿易品は中国の絹と日本の銀だった。南蛮貿易は莫大な利益をあげた。ポルトガルの海洋貿易の中でも、南蛮貿易が最も利益をあげた。
日本に到来したポルトガル人(南蛮屏風)
ポルトガルと日本は相互の交流をもつようになった。当然ながら、ポルトガル人が日本に到来した。彼らはアフリカの奴隷を引き連れていた。織田信長は黒人奴隷を見て、肌に炭をすり込んでいると勘違いしたというエピソードが知られている。
ポルトガルの文物が日本へもたらされ、南蛮文化を発展させた。反対に、日本の文物がポルトガルにもたらされた。1580年代には、日本から天正遣欧使節がリスボンなどを訪れた。かくして、リスボンは極東アジアとつながった。
南蛮貿易の交易品
だが、ジョアン3世の宗教的熱意はポルトガルにとって不利益ももたらした。たとえば、ユダヤ人の追放である。ジョアンは異端審問を導入し、ユダヤ人の取り締まりを厳しくしたのである。多くのユダヤ人が迫害を回避すべくアフリカや低地地方などに移住した。これがポルトガルに大きな経済的損失をもたらしたといわれる。
なぜなら、ユダヤ人は金融業者や職人として、カネや技術、ノウハウや世界的ネットワークをもっていたためである。これらのビジネス上の資源がポルトガルから外部へ流出した。当然ながら、リスボンも同様の損失を受けた。
スペインによるポルトガルの併合と再独立
1578年、ポルトガル王セバスティアンは跡取りがいないまま没した。後継者争いの中で、1580年スペイン王フェリペ2世が名乗りをあげ
た。リスボンを急襲し、他の後継者候補のドン・アントニオと戦った。
1580年のフェリペ2世とドン・アントニオの戦い
フェリペ2世側が勝利し、リスボンを支配下においた。他の後継者に勝利し、ポルトガル王にも即位した。
17世紀前半のリスボン
その結果、ポルトガルはスペインの一部とみなされた。当時のスペインはヨーロッパでも最大の強国だった。イギリスや低地地方(のちのオランダ)などと戦っていた。そのため、ポルトガルはこれらの攻撃対象になった。
17世紀初頭から、東アジアでのポルトガルの拠点はオランダなどによって次々と奪われていった。ブラジル植民地も攻撃された。ポルトガルは海洋帝国として明らかに衰退していった。
17世紀のブラジルでの植民地
ポルトガル人はいつまでもスペイン人に支配されているつもりではなかった。リスボンはスペインの海洋貿易の拠点の一つになったため、利益を受けることもあった。それでも、ポルトガル人は再独立を望んだ。
1630年代、ヨーロッパでは30年戦争が激しくなっていた。フランスの参戦により、スペインが劣勢に立たされていった。ポルトガルはこれをチャンスとみて、スペインからの再独立の戦いを始めた。1640年、再独立に成功した。
1640年のリスボン再独立の戦い
これは歴史的には王政復古と呼ばれている。リスボンのロシオ広場の北には、これを記念した「王政復古広場」がある。
この頃には、東アジアでのポルトガルの海洋帝国は明らかに弱体化していた。ブラジルもまたオランダに占領された。だが、ポルトガルはブラジルの奪還には成功した。そのため、ブラジルとの貿易はリスボンに砂糖や金などをもたらすことになる。
17世紀のブラジルでの砂糖生産
ポルトガルは再独立に際して、イギリスの様々な支援を受けていた。イギリスはこの関係を利用して、リスボンでイギリス商人に有利な市場を開拓した。さらに、ポルトガル王室からカタリナをイギリス王チャールズ2世に嫁がせるなど、政略結婚を行わせた。
イギリスへ向けてリスボンを発つカタリナの船団(左が王宮)
かくして、イギリスはポルトガルにたいして大きな影響力をもつようになる。同時に、ブラジルからリスボンを経てイギリス王室に砂糖の文化が到達し、紅茶に砂糖を入れて飲む風習がイギリス文化に定着することにもなる。
18世紀:リスボン大地震と都市の近代化
17世紀後半から18世紀前半にかけて、ポルトガルはスペインとともに、ヨーロッパでは遅れた国とみなされるようになった。イギリスがフランスとの覇権争いを制して、世界的な海洋帝国を築いていった。
その頃、リスボンはブラジル植民地からの金やダイヤなどで経済的には潤っていた。新たな教会や水道橋も建造され、都市としても賑わいがあった。リスボンはポルトガル海洋貿易の大部分を担っていた。
18世紀前半のリスボンの王宮(リベイラ宮殿)
しかし、1755年11月1日、リスボンは予想もしなかった大きな危機に見舞われる。リスボン大地震が起こったのだ。これはヨーロッパ史上で最大級の地震である。
リスボン大地震の被害の様子
地震によって多くの建物が甚大な被害を受けた。6メートルほどの津波が街を襲った。大規模な火災が何日も続いた。その結果、6万人ほどの住民が亡くなり、街の大部分が破壊された。この大震災で被害を受けた建物はほとんど現存していない。
倒壊したオペラ劇場
その中で、カルモ修道院だけは現在も残されている。中は考古学博物館として利用されており、観光スポットになっている。
ポンバル侯による都市の近代化
不幸中の幸いとして、当時のポルトガル宰相のポンバル侯は優れた人物だった。彼は地震発生からまもなく、災害復興チームを編成した。迅速に復興と街の再建を開始した。その結果、都市リスボンは近代化することになる。
たとえば、中世に建造されたテージョ川沿いの宮殿は破壊された。バイシャ地区は全面的に再建された。交通の便や今後の災害対策のために、50本ほどの新たな通りが碁盤目状に整備された。コメルシオ広場が整備された。
多くの建物が急ピッチで建設された。新たな地震に耐えられるよう、耐震性能を考慮されたものだった。この建築様式はポンバル様式と呼ばれている。
ポンバル侯は別の面でも、都市リスボンの改革を行った。彼はそれまでのポルトガルの伝統を刷新しようとしていた。その一環として、社会へのカトリック教会の影響力を弱めようとした。特に、イエズス会を標的とした。
というのも、長らく、イエズス会はポルトガル社会に大きな影響力をもっていたためだ。イエズス会の創設者の一人、あのフランシスコ・ザビエルの時代から影響力を持ち始めていた。そのため、ポンバル侯はイエズス会をポルトガルから追放し、その修道院などの財産を没収した。他の修道会をも追放した。
それらの修道会がもっていた建物を破壊して新たな建築物を建てたり、あるいは病院や官庁のために転用したりした。かくして、リスボンの宗教的な街並みの一部が大きく変わった。
19世紀:激動の時代における都市の拡大
19世紀前半はポルトガルにとっては至難の時期だった。1789年にフランス革命が起きた後、ナポレオン1世が周辺国と戦争した。その流れで、1807年ナポレオンはポルトガルに進軍した。ポルトガル王室はリスボンを脱出し、ブラジルのリオデジャネイロに逃れた。
1821年まで、リオデジャネイロがポルトガルの首都になった。その間に、ナポレオンはワーテルローの戦いで敗北して失脚した。だが、1820年に自由主義勢力がポルトガル本国で革命を起こし、ポルトガルは立憲王政となった。自由主義勢力と絶対王政の勢力が1830年年代にも激しく対立した。19世紀なかばには政情が安定した。経済的にはイギリスに依存した。
そのような中で、都市リスボンは発展していった。都市の面積が拡張した。川の埋め立てや港湾の整備も勧められた。
リスボンの旧市街エリア(19世紀後半)
新たな市庁舎やアジュダ宮殿なども建てられた。さらに、1880年にはリベルダーデ通りが整備され、その北部エリアに都市を拡張していった。都市機能も近代化していき、水道が整備された。
20世紀以降
1910年、ポルトガル王マヌエル2世が退位した。ポルトガルは王制から共和制に移行した。アジュダ宮殿はもはや王宮として使われなくなった。その後、1932年から68年まで、サラザールの独裁政権がポルトガルを支配した。彼の死後、政情はクーデターなどで安定しなかった。1980年代後半あたりから、ECへの加入で状況は改善していった。
都市リスボンの近代化は進んだ。1901年から、路面電車が走るようになった。1902年には、サンタ・ジュスタのエレベーターが完成した。
サラザールの頃には、新たな産業が推進され、石油工場などが建てられた。だが、歴史的な地区が破壊される懸念もでて、調整が図られてきた。20世紀末には、リスボンで万博が開催された。これにより、都市はさらに再開発が進められた。
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おすすめ参考文献
マイケル・クロンドル『スパイス三都物語 : ヴェネツィア・リスボン・アムステルダムの興亡の歴史』木村高子, 田畑あや子, 稲垣みどり訳, 原書房, 2018
金七紀男『ポルトガル史』彩流社, 2022
Malcolm Jack, Lisbon : city of the sea : a history, I.B. Tauris, 2019