オリバレス公はスペインの政治家(1587ー1645)。スペイン王フェリペ4世が1621年に即位した際に重用され、スペイン政治の実権を握った。スペインの黄金時代の再建を目指して、国内では諸改革を試みた。対外的にはオランダとの戦争や30年戦争を行った。だが、これからみていくように、オリバレスのスペインは2つの大きな出来事によって翻弄されることになる。オリバレスの生涯と功績を知ることで、スペイン黄金時代の主だった特徴を知ることができる。
オリバレス(Olivares)の生涯
オリバレスはスペインの名門貴族の出身で、ローマにて生まれた。当時、父がスペインの駐ローマ大使だったためだ。オリバレスの本名はガスパル・デ・グスマン・イ・ピメンテルである。幼少期は父とともにイタリアで過ごした。父はシチリアやナポリの総督をつとめていた。
1601年から、オリバレスは当時ヨーロッパでも有数の大学だったスペインのサラマンカ大学で、法学や神学などを学んだ。
オリバレスは長男ではなかった。よって、当時の貴族の慣習どおりに、当初は高位聖職者のキャリアを歩むはずだった。実際に、そのキャリアをスタートしていた。だが、兄が没したため、オリバレスが父の後継者に選ばれた。そこで、1604年、父がいたバリャドリードに移った。
1607年、オリバレスは父の後継者となった。さらに、1615年、当時は皇太子だったフェリペの侍従に選ばれた。この時点では、スペイン国王はフェリペ3世だった。寵臣のレルマ公が実権を握っていた。
フェリペ4世の宰相へ
1621年、フェリペ3世が没した。皇太子フェリペがフェリペ4世として16歳で即位した。オリバレスは彼のお気に入りになっており、厚い信頼を得ていた。フェリペから大公の称号もえた。さらに、宰相に選ばれ、実権を握ることになった。1625年には公爵に昇格した。これは亡き父の悲願だった。
国内の諸改革の試み
国内政策としては、オリバレスは諸改革を遂行していく。その背景として、17世紀以降、スペイン人はフェリペ2世の頃よりもスペインが衰退していると感じるようになった。
没落する祖国
次第に、スペインは古代ローマ帝国の発展と没落の歴史をスペインの歴史のモデルとみなすようになった。特に、古代ローマの歴史家サルスティウスの説明に惹かれた。サルスティウスは古代ローマ帝国が内的原因により衰退したと論じた。
すなわち、ローマは帝国として発展することで奢侈と怠惰に溺れるようになり、堕落し、その結果として従来の活力を失って衰退したのだ、と。もしかつての状態へ回帰すれば、復活するかもしれないという希望もあった。
オリバレスはスペイン帝国が古代ローマ帝国と同じ道をたどってしまうのでないかと危惧した。まさにスペインの衰退を感じていた。スペインの再起を図って、諸改革を試みた。
王権の強大化を目指して
その一つとして、オリバレスはスペイン全体に王権を伸長し確立しようと試みた。当時、スペイン王国の実態は複数の国の同君連合だった。それぞれ異なる自身の法律や議会と裁判所をもつ諸国にたまたま一人の王が君臨しているような状況だった。
オリバレスはスペイン王権がスペイン全域に等しく及び、それぞれの制度が統一されることを求めた。そうすることで、租税の確保や兵隊の動員などがスムーズになるよう望んだ。
また、フェリペ4世をフェリペ2世のような偉大な君主へと教育しようと試みた。その努力は途中から実り始めた。フェリペ4世は王としての執務に専念するになったのだ。王へのねぎらいのためもあり、1630年代にはブエン・レティーロ宮殿が建てられた。ここに宮廷が置かれ、ベラスケスが活躍するなど、スペイン黄金時代の文化が華やいだ。
そのために、1625年、まず戦争のための兵と資金を各地域から一定程度提供してもらう枠組みをつくろうとした。これは部分的にのみ成功した。
ほかにも、オリバレスは国内経済の発展を図った。それまで、スペインは国内の産業政策などを本格的に行えず、アメリカ植民地からの金銀に依存していた。オリバレスはこの状況を打開すべく、国内の産業育成を図った。
血の純潔にかんする法令を改正し、ユダヤ教からの改宗者(コンベルソ)にも経済的なチャンスを与えようとした。貿易の促進も図った。だが、一連の改革は貴族やブルジョワなどたちの反発により、失敗した。失敗の一因は、対外的な戦争の重すぎる戦費にあった。
対外政策:オランダとの戦争や30年戦争
対外政策としては、まずオランダと戦争を再開した。背景として、1568年に(のちの)オランダとの戦争開始の後、両国は1609年に12年間の休戦条約を結んだ。1621年、戦争が再開された。当初はスペインがブレダを陥落させるなど、有利な状況もあった。
このオランダとの戦争がヨーロッパとの30年戦争と結合していった。1618年から、30年戦争が開始された。オーストリア・ハプスブルクの神聖ローマ皇帝がプロテスタント勢力と戦った。スペインは皇帝を支援した。スウェーデンがプロテスタント側にたった。
スペインはどうにか戦争の費用と人員を確保できたため、戦争で有利にたった。だが、1630年代にフランスがスウェーデン側で参戦したことで、30年戦争は皇帝とスペインにとって不利となった。スペインは戦争の重荷に圧迫されていった。
カタルーニャ反乱とポルトガル再独立運動
このような状況で、1640年、スペインにおいてカタルーニャが反乱を起こした。その原因はオリバレスがカタルーニャに戦争のためのより多くの費用や兵を捻出するよう求めたことだった。カタルーニャは反乱を起こすと同時に、フランスに援軍を求めた。
カタルーニャの反乱はポルトガル(1580年にスペインに併合)との反乱をも惹起した。ポルトガルもまた、オリバレスから戦争の費用や人員を増やすよう圧力をかけられていた。これらの反乱に対処する必要がでたので、スペインは30年戦争などの余力がなくなった。
このように、スペインは国内的にも対外的にも危機を迎えた。オリバレスは周囲から憎悪の眼差しを向けられた。1643年、オリバレスはそれらの責任により、罷免された。というよりは、再三の辞任の申し出を許可された。1645年、失意の中で没した。
オリバレスと縁のある人物
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オリバレス公の肖像画
おすすめ参考文献
色摩力夫『黄昏のスペイン帝国 : オリバーレスとリシュリュー』中央公論社, 1996
立石博高編『スペイン帝国と複合君主政』昭和堂, 2018
J.H. Elliott, The Count-Duke of Olivares : the statesman in an age of decline, Yale University Press, 1986
Jonathan Brown and John H. Elliott, A palace for a king : the Buen Retiro and the court of Philip IV, Yale University Press, 2003