マルコ・ポーロと『東方見聞録』

 『東方見聞録』はイタリア人のマルコ・ポーロが1271年から95年まで行った中央アジアから中国にいたる大旅行と滞在にかんする旅行記。日本がジパングとして初めてヨーロッパに紹介されたと考えられてきた。原題は『世界の記述』である。中世からコロンブスらの大航海時代にも大きな影響を与えた。
 この記事では、マルコ・ポーロと『東方見聞録』について説明する

謎多き人物マルコ・ポーロ(Marco Polo)


 マルコ・ポーロは中国旅行と『東方見聞録』で有名であるにもかかわらず、その生涯についてはいまだに不明な点が多い。適切な史料が存在していないか、少なくとも見つかっていないためである。

 たとえば、ポーロの一家に関する系図や記述などはほとんど残っていない。ポーロの祖父と父および娘と孫あたりまでならば辿ることができるが、14世紀以降については史料が残っていない。ポーロに関する訴訟や財産に関する文書は残っている。

 ポーロの一家はヴェネチア付近の出身である。マルコ・ポーロが生まれた13世紀、ヴェネチアは地中海で海洋帝国として発展していった。
 コンスタンティノープルやアレキサンドリアなどと交易を行っていた。ポーロの父もまた商人としてモンゴル人との貿易に従事していた。

中国への旅と滞在

 マルコ・ポーロは10代のときに、父や叔父とともに、東方へと旅立ち、中国へ至った。彼らの活動は中国語の史料で言及されていない。ただし、この無言及は当時一般的であった。
 ポーロはおそらく中国語を学んでいなかった。中国文化圏に長く住んでいた人なら誰でも名乗る中国名を名乗っていなかったようだ。

 ポーロはおそらく商人として活動した。しかしながら、中国でのポーロの詳細な活動は知られていない。クビライ・ハーンに20年以上仕えていたと長らくいわれてきた。少なくとも、 クブライ・ハンから「黄金の石版」を贈られた。

 マルコ・ポーロは各地を訪れて、それぞれの地域や人々について描写し、そのメモをとっていたようだ。しかし、ポーロがクビライ・ハン自身に仕えていた可能性は今日の研究ではほぼ否定されている。

 このポーロの壮大な旅に関して言及している同時代の史料はかなり少ない。ポーロ自身の旅については『東方見聞録』が参照されることになる。これについては後述する。
 ポーロの旅は同時代のヴェネチアなどで広く知られるようになった。ポーロはいわば伝説上の人物となっていった。

 現存するポーロのまとまったバイオグラフィーとしては、16世紀のイタリア人のラムージオが書いたものがある。多くのポーロ研究はこれに依拠してきた。
 ラムージオはポーロの伝承が残っている時代にこれを執筆した。だが、ラムージオの著作には多くの誤りがみられることも知られている。

 『東方見聞録』:その別名とは

 本書は1298年にポーロと作家ルスティケッロによって書かれたと言われている。だが、原書は失われた。原書のタイトルは『世界の記述』(Le devisement du monde)であった。
  その後フランス語で再販された際には、『大ハーンの書』(Le livre du grand caam)や『驚異の書』(Le livre des merveilles)と呼ばれた。
 イタリア語に翻訳された版は『イル・ミリオーネ』(Il milione)と呼ばれた。ほかにも、ラテン語などにもすぐに翻訳された。

 本書は単純な旅行記ではない。叙事詩や百科事典、地理誌や商人のためのマニュアルとしての側面も併せ持っている。また、構成や内容にはヨーロッパ以外にもアラブの伝統の影響が指摘されている。
 中世ヨーロッパの旅行記は作者の旅程に応じて構成されていた。
 だが、本書は最初の部分だけがポーロの旅そのものに割り当てられている。それ以外の部分では、旅先の名所や有名な人物、逸話、習俗や食べ物などが語られている。本書はポーロ自身の見聞記というより、様々な情報源に基づく書物というべきである。

ジパングは日本か?

 本書の内容の信憑性については疑問が呈されるようになってきた。たとえば、長らく、本書で言及されている「ジパング」は日本を指しているといわれてきた。
 だが、このジパングが本当に日本を指したのかも、今日の学術的な視点においては疑わしいと考えられている。少なくとも、一つの論争点となっている。

 その理由として、たとえば、本書でのジパングの記述がありふれた内容だということが挙げられる。ジパングは黄金の豊富な場所として描かれた。だが、黄金郷の伝説は中世にはよくみられたものだった。
 すなわち、本書のジパングはヨーロッパ中世の数多ある黄金郷伝説の一つに過ぎないのではないかという指摘である。

 より詳しく見てみると、ジパングは黄金がたくさんある島であり、食人種が住んでいる場所として描かれた。このような特徴の場所は中世のアラビア語の地理書や物語にしばしばみられた。
 ほかにも、ジパングは地理的には日本というより、中国の島の一つを指すというような指摘もなされている。

 『東方見聞録』の意義と影響

 もし本書が当時の事実を正確に伝えるものでなかったとしたら、その分だけ、本書の価値は下がってしまうだろう。
 だが、もしそうだったとしても、少なくとも本書は別の仕方で歴史的に重要であったといえる。中世や近世のヨーロッパ人への影響のためだ。本書は次のようにして、東アジアにかんする彼らの認識に一定の影響を与えた。

 まず、本書は中世ヨーロッパのベストセラーとなった。当時のヨーロッパでは、旅行記や聖人伝(キリスト教の聖人にかんする伝記。信仰心を高めるためによく読まれた)がよく売れるジャンルだった。『東方見聞録』は旅行記の中で特に人気が高かった。

大航海時代への影響

 さらに、本書は大航海時代のもとで一挙に重要性を高めた。15世紀初頭、ヨーロッパは大航海時代に突入した。ポルトガルとスペインがアフリカ大陸を西海岸沿いに南下していった。15世紀末、スペインはコロンブスがアフリカ大陸を西に移動してアメリカ大陸を「発見」した。

 ポルトガルはアフリカ大陸南端の喜望峰を周り、ヴァスコ・ダ・ガマがインドで香辛料貿易を実現した。ヨーロッパはアメリカやアフリカ、東アジアへ本格的に進出することになる。
 この大航海時代の文脈で、『東方見聞録』は東アジアにかんする貴重な情報源とみなされ、重宝された。そのことを可能にした条件として、印刷革命があった。

印刷革命

 15世紀後半、ヨーロッパではグーテンベルクなどによって活版印刷術が開発され、普及していった。これにより、大量印刷が可能になった。
 当時は同一の本を大量に印刷する習慣がなかった。そのため、大量に販売するための販路が構築されていなかった。その結果、この時代の新たな印刷業者は大量に印刷したが売れずに破産するケースも多かった。
 よって、印刷業者は確実に売れる本を活版印刷術で印刷した。その一つが旅行記だった。本書は1483年にラテン語版が『東方地域の慣習と条件』というタイトルで出版された。

大航海時代の古典


 上述のように、本書は大航海時代の需要に合致した。よって、本書はその後もポルトガル語やスペイン語、フランス語やオランダ語、ドイツ語やイタリア語などで次々と公刊された。コロンブスも本書を読んでいた。かくして、本書は大航海時代に海外の貴重な情報源の一つとして受容された。

 同時に、コロンブスのような冒険者もまた自身で旅行記や探検記を公刊した。これらの新たな旅行記によってポーロの『東方見聞録』が取って代わられたわけではなかった。むしろ、それらの新しい旅行記とともに、よく売れた。
 というのも、大航海時代において、中世や古代の旅行記や地図、地理誌などは同時代のものとともにセットで公刊されることも多かったからだ。

 読者は必ずしも原書の公刊された年代に注意を払わなかったのである。古くても新しくても、どちらも読んだ。
 旅行記や冒険記はワクワクする冒険譚として読まれた面もあるので、出版社は売れそうなものをセットで販売したといえる。
 そのような仕方で、『東方見聞録』は大航海時代においても代表的な旅行記の一つとして売れた。大航海時代植民地主義の展開により、旅行記は関連する様々な文学や哲学へと発展していく。本書はその古典作品の一つだったといえる。

 『東方見聞録』と縁のある人物

ヴァスコ・ダ・ガマ:大航海時代に東インド航路を開拓し、ポルトガルと東アジアの香辛料貿易をついに実現した人物。ポーロのような陸路での中国到来ではなく海路での到来への道筋を立てた。

リンスホーテン:16世紀末に『東方案内記』を公刊したオランダ人。本書によってオランダの海外拡張が加速した。その先に、日本との到来や日蘭貿易が待っていた。

『東方見聞録』の表紙

東方見聞録 利用条件はウェブサイトで確認

なお、画像はマルコ・ポーロの肖像が描かれた珍しいもの。

おすすめ参考文献

岸野久(1989)『西欧人の日本発見―ザビエル来日前日本情報の研究』吉川弘文館

Peter Hulme(ed.), The Cambridge companion to travel writing, Cambridge University Press, 2002

John Larner, Marco Polo and the discovery of the world, Yale University Press, 2001

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