トマス・ペイン:アメリカとフランスの革命の唱導

 トマス・ペインは18世紀アメリカの作家(1737ー1809) 。アメリカがまだイギリスの植民地だった頃に、ペインは1776年に『コモンセンス』を執筆し、イギリスからアメリカ植民地が独立するよう訴え、植民地社会に大きな影響を与えた。独立戦争中にも『危機』を著し、独立戦争を鼓舞した。ほかにも、ほぼ同時期だったフランス革命を擁護する『人間の権利』も執筆した。以下では、名言も紹介する。

ペイン(Thomas Paine)の生涯

 ペインはイギリスのノーフォークで職人の家庭に生まれた。グラマー・スクールで学んだ。13歳で父のもとで徒弟となった。その後、職を転々とし、一時は成功した。だが、私生活も含めうまくいかなくなった。そのような中でも、ニュートンの科学などには興味を抱くようになった。

 1774年、転機が訪れた。ペインは、当時科学者として成功していたベンジャミン・フランクリンとロンドンで知り合った。フランクリンはペインにアメリカでの職探しを勧め、紹介状も書いてやった。

アメリカ独立運動への貢献:『コモン・センス』

 同年末、ペインはイギリスの北米植民地のフィラデルフィアに到着した。そこでは、『ペンシルベニア・マガジン』の創刊を手伝い、編集者となった。さらに、北米植民地でのアフリカ人奴隷に反対する記事なども書いた。

 1775年、ペインは『コモン・センス』の執筆を開始した。ベンジャミン・フランクリンなどとの議論を重ねて理論を深めていった。1776年、『コモン・センス』を匿名で公刊した。

 本書の背景として、当時、北米植民地は宗主国イギリスと戦争状態に入っていた。1770年にはボストン虐殺事件が生じるなど、独立の気運も高まりつつあった。だが、多くの植民地住民は独立ではなくイギリスとの和解を望んでいた。彼らはイギリス政府が北米植民地への不公平な課税や法律を撤回すればそれでよいと考えていた。

 しかし、ペインは北米植民地が宗主国イギリスにたいしてただ反乱を起こしているのではなく、独立を目指すべきことを訴えた。ヨーロッパの腐敗した世襲君主制に従うのではなく、自由のために戦うよう訴えた。本書は50万部以上のベストセラーとなった。当時の独立をめぐるパンフレットとしては最も売れた。

 さらに、ペインは『危機』というパンフレットを1777年から83年まで公刊した。オピニオン・リーダーとして、独立戦争を後押し、兵士を鼓舞し続けた。ペインは知識人層に訴えるだけでなく、社会のあらゆる階層に向かって書いた。実際にペインの言葉が彼らに届き、ベストセラーとなった。彼のパンフレットは当時のカフェなどで読み上げられ、影響力を高めていった。

 また、ペイン自身もアメリカ独立戦争に兵士として参加した。同時に、他の仕方でもこれに貢献した。1777年には、大陸会議の外交委員に任命された。1779年には、ペンシルベニア州議会の書記に任命された。州議会では戦争推進のために邁進した。

 1783年、ついにアメリカ独立戦争が終わり、北米植民地はアメリカ合衆国として独立を果たした。

 フランス革命をめぐって

 アメリカの独立後、ペインは科学の研究と実用化に時間をついやした。1787年、ペインはフィラデルフィアの川に橋を建設する計画のために、イギリスへ渡った。だが、それが達成される前に、ペインは別の大きな問題に遭遇した。1789年のフランス革命の開始である。フランスで、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの統治にたいして革命が始まったのである。

 1790年、イギリスの保守政治家のエドマンド・バークはフランス革命に対して批判的な『フランス革命の省察』を公刊した。これに対し、1791年、ペインはフランス革命を擁護すべく、『人間の権利』を公刊した。これはよく売れ、世論の関心を惹起した。バークとペインはさらに批判の応酬を繰り広げた。

 『人間の権利』では、イギリスが君主制であるにもかかわらず、ペインは君主制を批判し、共和制を擁護した。アメリカ合衆国の共和制をヨーロッパに持ち込もうとした。たとえば、代議政体や法の支配の重要性を訴えた。さらに、当時の国民議会での討論を踏まえて、高齢者や貧困者への救済の必要性をも訴えた。

 本書はイギリス当局によって発禁処分となった。さらに、1792年、ペインは反逆罪にとわれた。ペインはこのころ、フランスの国民議会で議員に選出されたので、フランスへ移った。

 フランスは革命の混乱のさなかにあった。ルイ16世らは新政府に幽閉されていたが、まだ存命だった。ペインは当初、フランスで大いに歓迎された。だが、ペインは君主制の廃止に賛成だったものの、ルイ16世の処刑には反対だった。1792年末、フランス国民議会において、ルイの処刑ではなく追放ですむよう訴えた。だが、これは失敗した。

 1793年、ロベスピエールが革命政府の中で実権を握った。国民議会の有力者が恐怖政治のもとで次々とギロチンで処刑された。ペインは上述の試みが原因で、同年末に投獄された。ロベスピエールの失脚でどうにか命は助かり、釈放された。

 その後も、ペインはフランス国民議会の議員であり続けた。ただし、議員としての活動は活発ではなかった。憲法にかんする討議において、男子普通選挙の実施を求めたぐらいだった。

 晩年

 1803年、ペインは再びアメリカに移った。だが、彼の名はほとんど忘れられていた。最晩年は不遇の中で過ごした。

 トマス・ペインの名言

・ 自由の恩恵を享受したいと望む者は、人間と同じように、自由を支える苦労に耐えなければならない

・ あえて他人を攻撃しないようにする者は正直者にはなれない

・ 政府は、たとえ最善の状態であっても、必要悪に過ぎない。最悪の状態においては、耐え難い悪となる

・ 誰に対しても責任を負わない集団は、誰からも信頼されるべきではない

・ 私は常に、たとえそれが私の意見とどれほど違っていたとしても、すべての人が自分の意見を持つ権利を強く支持してきた。他人にこの権利を否定する者は、自分の現在の意見を変える権利を自ら排除しているため、その意見の奴隷となる

・ 自分の自由を守りたい者は、敵をも抑圧から守らなければならない。この義務に違反すれば、自分自身に影響を及ぼす前例を作ることになるからだ

・ 人間が幸福になるためには、精神的に自分自身に忠実であることが必要である。不誠実とは、信じることや信じないことではなく、信じていないことを信じていると公言することである

・ 人々が考える権利を放棄すると、自由の最後の影も地平線から消える

トマス・ペインの肖像画

トマス・ペイン 利用条件はウェブサイトで確認

トマス・ペインの主な著作・作品

『コモン・センス』 (1776)
『危機』 (1776ー83)
『人間の権利』(1791−92) 

おすすめ参考文献

ハーロー・ジャイルズ・アンガー『トマス・ペイン : 『コモン・センス』と革命家の生涯』森本奈理訳, 白水社, 2023

小松春雄『評伝トマス・ペイン』中央大学出版部, 1986

J.C.D. Clark, Thomas Paine : Britain, America, and France in the age of enlightenment and revolution, Oxford University Press, 2020

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