西洋で魔女裁判や魔女狩りはなぜ終わったのか

 西洋において、魔女裁判はおおむね18世紀後半に終わりを告げた。魔女裁判や魔女狩りが終わった原因として、研究者たちはこれまでいくつかの選択肢を探ってきた。たとえば、ながらく、近代の科学や合理主義の進展が魔女裁判という無知蒙昧な迷信を打ち倒したと考えられてきた。だが、この通説は誤りだということが判明してきた。
 では、魔女裁判が終わった原因はなにか。この記事では、主だったものを説明していく。

魔女裁判が終わった理由とは

魔女裁判の衰退から終わりへ

 その前に、魔女裁判がどのようにして衰退し、終わりを迎えることになったのかを確認しよう。
 魔女裁判は17世紀から次第に衰退していった。魔術の罪による訴追と処刑は減っていった。 魔女を訴追することにますます消極的になった。裁判にかけられた多くの者が無罪となった。
 地方裁判所で魔女として有罪となっても、上訴で有罪判決が覆されるようになった。最終的には、訴追を許可していた法律が廃止されていった。1782年に、公認された最後の魔女処刑が行われた。その後も、人々は隣人を魔女と名指して、恐怖や不安を抱き続けたが。
 別の記事で述べたように、西洋の魔女裁判は地域差が大きい。よって、衰退のあり様も多様だった。衰退が始まった時期やそのペース、終わった時期について、地域差が大きかった。
 衰退が始まった時期は16世紀末頃の場合もあれば、18世紀の場合もあった。衰退のペースは数年で一気に進む場合もあれば、半世紀ほどかけてゆっくり進む場合もあった。
 同一の国の中でも、司法の管轄区域が異なれば、魔女裁判のあり様が大きく異なることもしばしばあった。
 ヨーロッパの多くの地域では、大規模な魔女狩りをきっかけに、訴追が先細りになり始めた。その理由は以下で明らかになる。
 主だったものとしては、 17世紀初頭のドイツのヴュルツブルクヤバンベルクでの大規模な魔女狩り、1609年から11年にかけてのスペインノバスク、1617年頃のデンマーク、1645-7年のイングランド、1661-2年のスコットランド、1669-70年のスウェーデン、1692年の北米植民地セーラムなどである。

魔女裁判はなぜ終わったか

1,理性や科学の勝利?

 近代の合理主義や科学の発展が、魔女狩りや魔女裁判という無知蒙昧の迷信を打ち倒した。自然界の事物は魔女の超自然的な魔術によって操られるようなものではなく、自然法則のもとで機械論的に動くものである。この科学的認識が人々に広がった結果、魔女裁判は終わりを告げた。
 このような理解が20世紀後半まで、歴史学の通説となっていた。もともとは18世紀の啓蒙主義の時代にうまれたものだ。理性の勝利を高らかに宣言する啓蒙主義者の考えであった。いまでも、この説明がネット上にみられる。
 しかし、これはいまや学術的には史実に合わないと批判され、通用しないものになっている。
 なぜか。魔女裁判の担当者たちがそのような近代合理主義の思想から影響を受けていたとしても、魔女の魔術が現実的にありうるものだと信じ続けていたためである。
 これらの裁判官などは魔女が魔術で悪いことをしているかもしれないと考えた。だが、魔女を訴追したり有罪判決をくだしたりすることを、控えるようになったのだ。その理由は後述する。
 また、そもそも、魔女裁判が下火になり始めた時期は、近代科学の影響が裁判官などのエリートに広まっていった時期よりも早かった。前者は17世紀初頭から前半だが、後者は17世紀後半や末頃だった。
 よって、近代科学や合理主義が彼らに影響を与えたとしても、それは魔女裁判が下火になったり、ほとんど中止されるようになったりしてから後のことだった。
 さらに、そもそもデカルト主義的な機械論は、悪魔が世界に介入する余地を残していた。すなわち、魔女が魔術を行えるという信念の余地を残していた。たとえば、科学革命の貢献で有名なロバート・ボイルなどがそうだった。

 では、エリート層ではなく民衆はどうか?民衆は近代科学の発展によって、魔女の信仰や告発をやめたのか?
 そうではない。魔女裁判がなくなった後も、民衆の魔女信仰は長く続いた。民衆は魔女への不安や恐怖を抱き続けた。科学革命や啓蒙主義の時代の後も、その状況が根本的に変わったわけではなかった。

2,キリスト教の信条や教義?

 西洋の魔女信仰は古代ギリシャの時代には存在していた。中世にはキリスト教の信仰と融合した。
 キリスト教の信者であれば誰でも魔女を信じ、魔女裁判を推進した。そう考えるなら、それは事実に反する偏見でしかない。
 キリスト教の聖職者や神学者なら誰でも魔女裁判を推進したと考える人もいるかもしれない。だが、それもまた事実に反する偏見でしかない。
 むしろ、教義や神学の変化が魔女裁判の衰退に貢献した。三点あげよう。
 第一に、聖書研究の結果、魔女の処刑が聖書に基づかないと考えられるようになった。
 たとえば、かつて、旧約聖書(原典はヘブライ語)の『出エジプト記』22章18節は、英語では「汝、魔女を生かすべからず」と訳されていた。これが魔女への処刑の根拠の一つとなっていた。
 だが、この翻訳に変更が加えられるようになっていく。背景として、ルネサンスと宗教改革によって、聖書を翻訳ではなく原典で読み、研究しようという流れがうみだされていった。
 『出エジプト記』の研究も進められた。その結果、22章18節の「魔女」は、原語のヘブライ語では、毒殺者やおそらく占い師を意味すると理解されるようになった。よって、魔女裁判の根拠が聖書には存在しないと考えられるようになった。
 第二に、悪魔の存在を信じる人たちの考えである。悪魔が人間に悪いことをしたり、魔女と契約して特別な力を与えたりする。この時代の大半の人たちはこのように信じた。
 その一部の人たちは、こう考えるようになった。悪魔は人間を欺く大ペテン師である。悪魔は魔女や悪魔崇拝者などの人間の口を通して、人間と会話することができるし、そうする。
 そのため、悪魔は悪魔崇拝者などの口を利用して、「あの女が魔女だ!」と言い、隣人を告発させることも可能である。悪魔は自身の敵が魔女として逮捕されるよう、悪魔崇拝者などの口を借りるのである、と。
 よって、近隣住民などの魔女告発は悪魔の仕業かもしれない。当時、民衆による告発は魔女裁判に必要不可欠だった。それゆえ、このような悪魔の仕業という考えが、魔女裁判の衰退や歯止めとして機能した。悪魔を信じるからこその理由であるのが興味深い。
  第三に、プロテスタントのルター主義の教義である。背景として、多くの魔女信仰においては、悪魔が超自然的な手段によって人間に害を与えるような力を魔女に与えると考えられた。そのために魔女は悪魔と契約する、と。
 だが、ルター主義において、神はそのようなことを悪魔に決して許さないと断じるようになった。よって、魔女が悪魔からそのような特別な力を得ることはないことになる。

3,魔女裁判や魔女狩りの原因の消失?

 そもそも、魔女裁判や魔女狩りの原因はなんであったか。この点は別の記事でより詳しく説明している。端的に述べれば、悪天候や凶作などによる社会不安や不満の高まりであった。

 魔女裁判が生じた原因がそうであるならば、この原因がなくなったことによって、魔女裁判や魔女狩りもなくなったのかもしれない。
 この点については、たしかに17世紀後半以降、ヨーロッパでは貧しい人々の置かれた境遇は改善されていった。彼らの不満はかつてよりも和らげられただろう。
 だが、このような境遇の改善が魔女裁判の原因を除去したとまでいえるかについては、確固たる結論はくだされていない。まだまだデータ不足という状況にある。

4,地方への中央政府の統制の強化?

背景

 魔女裁判が本格化した時期は、現代と異なり、中央政府が自国全体で確固たる権力を掌握していないことが多かった。
 そのため、地方は中央政府から比較的自由に行動することができた。それは政治的な面でも、司法にかんする面でも、同様である。
 この時期に、フランスなどは中央政府がこのような地方の自律を奪い、中央集権化を目指した。そのため、フランではこの時期が絶対王政の時代として知られている。
 だが、西洋のすべての国が絶対王政を目指したわけではなく、その樹立に成功したわけでもなかった。よって、地方の自律が長く続いた国も多かった。

中央政府の魔女裁判

 中央政府から自律した地域において、魔女裁判が増える傾向にあった。もっとも、中央政府が魔女裁判を行うこともあった。だが、これは地方が行った魔女裁判と比べれば、明らかに少数であり、例外的だった。
 さらに、 中央の法廷は地方の法廷よりも魔女をより慎重に扱う傾向があった。なぜなら、中央の裁判官は、魔女が裁かれる地方共同体の一員ではなかったからである。その共同体での利害関係や魔女パニックに巻き込まれにくかったのだ。
 他の理由として、中央の裁判官は、司法プロセスのルールをより厳格に適用したからである。このルールを厳格に適用するなら、魔女裁判での有罪判決は減ることになる。
 というのも、魔女裁判はそもそも物的証拠が存在しないことが多いためだ。たとえば、魔女が嵐を引き起こして農作物を破壊したという罪において、なにが確かな物的証拠になるのだろうか。
 実際に、中央の裁判官は魔女裁判において、刑事プロセスの規則をより厳格に強制した。地方での魔女裁判が行われ、死刑と判断された一件が、中央に上訴されることもあった。
 その場合には、中央は死刑を見直すよう主張し、確立された手続き規範に違反した地方役人を罰する傾向があった。

東欧諸国の例

 たとえば、ポーランドなどの東欧諸国がそうであった。それらの国では、長らく、中央政府が確固たる権力を確立していなかった。よって、地方は広範囲の自律を享受した。
 地方は魔女事件という問題においても、自らの手で正義をくだそうとした。裁判での司法手続きがおろそかになったとしても、中央から制裁を受けることはなかった。
 そのため、地方の裁判所は魔女裁判を長く続けることになった。民衆もまた中央の統制がなかったので、魔女への私的制裁(リンチ)を行った。18世紀後半の中央政府の監督強化まで、それらは続いた。

5,地方での司法プロセスの厳格化?

 多くの地方では、多数の人々が比較的短期間のうちに処刑される魔女パニックが生じた。その後、地方の裁判官などは、魔女パニックにおいて多くの無実の人たちが処刑されていたことに気づいた。
 そのため、地方の司法プロセスで根本的な改善がなされるようになっていった。それは拷問をより抑制し、より厳しい証拠基準を適用するようなものだった。

拷問や自白への批判

 長らく、魔女裁判の過程で、尋問中に拷問が使用されてきた。魔女でない人たちは、拷問の恐怖や苦しみによって、自分が魔女だと自白した。この拷問や自白が主な批判対象となっていく。
 これらの批判は16世紀にみられるようになった。17世紀に本格的に展開され、影響力をもつようになった。この批判は、拷問の頻度を減らすことに、最終的にはその廃止につながった。
 誰が拷問への批判で重要だったのか。宗教や教会から距離をとり、これらに批判的な人々だ。そう思うかもしれない。たしかにそのような人もいた。だが、事実はしばしば逆だった。
 たとえば、17世紀の拷問批判で最も影響力があったのは、ドイツ語圏のイエズス会士だった。イエズス会はカトリック教会の修道会であり、この時代のカトリック教会の主導的な役割を担っていた(日本ではフランシスコ・ザビエルが知られている)。
 その中で、フリードリッヒ・シュペー、アダム・タナー、パウル・レイマンらが拷問批判で影響力を講師した。プロテスタントでは、ルター派の教授ヨハン・メイファルトや、オランダのアルミニウス派の神学者ヨハン・グレーベが重要であった。
 より有名な学者としては、グレーベに依拠したトマジウスが挙げられる。トマジウスは、拷問が聖書に基づかず、ローマ教皇庁が異端や魔術という口実で敵を打ちのめすための手段にすぎないと批判した。

地方の司法プロセスの変化

 以上の批判の結果、地方の裁判所でも、裁判プロセスはより厳格なものになっていった。もっとも、17世紀前半はまだ反発も大きかった。社会を魔女から守らなければならないという考えが強かった。
 だが、17世紀後半には、拷問などの批判が根付いていった。地方の裁判官などは魔女裁判のプロセスにより慎重になっていった。
 たとえば、自白の取扱いがそうである。それまで、魔女裁判では自白が主要な証拠であった。だが、裁判官などはこれを有力な証拠として疑い、採用しなくなっていった。
 それは拷問による自白に限ったことではなかった。 彼らは魔女が自由に行ったとされる自白を額面通りに受け入れることに消極的になった。
 17世紀後半には、自白は次のような条件が満たされなければ、証拠として却下されるようになった。そのような自白が強要されたものでないこと。内容に不可能なことやあり得ないことが含まれていないこと。自白した人物が憂鬱症や自殺願望者でないことである。
 ほかにも、魔女の犯罪だと告発された事柄が別の原因に由来するのではないかという批判も広まっていった。魔女は魔術という超自然的な方法で悪事をはたらくと考えられた。たとえば、嵐を引き起こしたり、女性の不妊症を引き起こすとされた。
 これらは魔術ではなく自然的な因果関係の結果ではないかという批判が展開された。17世紀前半以降、スペインでは魔女裁判で、そのような調査を行うよう指示された。
 イタリアでは、ローマの異端審問を担当する役人が同様に主張するようになった。たとえば、魔術による嬰児殺しという告発の場合、医師が子供の死因を調べ、自然的な原因であったかを示すべきとされた。

影響

 以上の結果、地方の裁判所においても、魔女裁判はより多くの無罪判決をもたらすようになった。さらに、民衆からの魔女訴追の告発があっても、裁判所はその裁判プロセスを開始するのにますます消極的になっていった。

魔女裁判で無罪放免となるシーン

 ただし、これらの地方の裁判官たちは、ほとんどの場合、魔女が魔術で危害をもたらす可能性を否定しなかった。すなわち、魔女の存在を信じ続けた。
 だが、彼らは告発されるような魔女の犯罪がめったに実行されないと考えるようになった。かりにそのような犯罪がなされても、適切な司法プロセスでの立証はかなり困難だと考えた。少なくとも、告発された人のほとんどは無実だと考えた。
 魔女裁判がそのようにして衰退し、終わりを迎えていく。だが、その後も、民衆は魔女の存在を信じ、不安や恐怖を抱き続けた。
 それでも、民衆は隣人を魔女として裁判所に告発しなくなった。なぜなら、告発しても裁判が行われなかったり、無罪になったりすると容易に予想できたからだろう。

6,法律による魔女や魔術の非犯罪化?

 19世紀初頭までに、魔女裁判にかんする法律が廃止されたり、大幅に修正されたのは7つの国のみであった。
 1682年のフランス、1714年のプロイセン、1736年のイギリス、1766年のオーストリア・ハプスブルクの国、1770年のロシア、1776年のポーランド、そして1779年のスウェーデンである。 ポーランドとスウェーデンだけが、魔女裁判を完全に禁止する法律を制定した。
  たとえば、1736年のイギリスの法令は魔女訴追の包括的禁止の兆候のほとんどを示していた。だが、完全な禁止ではなかった。この法令は1951年まで廃止されなかった。
 魔術や魔女の非犯罪化は、すでに始まっていた魔女裁判の衰退にほとんど影響を与えなかった。というのも、魔女裁判が衰退した後に、魔女や魔術が国の法律によって非犯罪化されたからである。
 魔女裁判が事実としてあまり行われなくなった後に、法律によってそれを追認するような形となった。

魔女裁判から学ぶべきこと:教訓

 以上みてきたように、魔女裁判は司法プロセスが緩い時期に頻発し、実に多くの魔女の処刑をうみだしていた。
 魔女裁判は、裁判である。有罪だと疑わしい人物が告発される。その被告が本当に有罪かどうかを見極めるのが裁判所である。
 見極めるための司法手続きがゆるければ、有罪と判決される可能性があがってしまう。たとえば、拷問や自白が有力な方法になり続ければ、魔女裁判の犠牲者はさらに増え続けていただろう。
 よって、裁判所では、司法手続きを厳格にする必要がある。たとえ民衆がそれを緩くしようとして圧力をかけようとも、裁判所は司法手続きを簡素化したりゆるくすべきではない。
 裁判所には、その圧力に屈しないことが求められる。それに屈していた17世紀前半には、魔女裁判の犠牲者はまだまだ増え続けていた。
 実のところ、同様の教訓はフランス革命の恐怖政治からも引き出される。ロベスピエールで有名な恐怖政治である。恐怖政治の展開については、次の記事を参照。

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おすすめ参考文献

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Brian P. Levack(ed.), The Oxford handbook of witchcraft in early modern Europe and colonial America (Oxford, 2014)

池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』岩波書店, 2024

黒川正剛『図説魔女狩り』河出書房新社, 2024

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