与謝野晶子のヨーロッパ滞在(1912年):当時の写真とともに

 1911年、与謝野晶子の夫の与謝野鉄幹が海路であこがれの国フランスへ向けて出発した。1912年、晶子はフランスへの興味と、なにより夫に会いたいがために、ロシアから陸路でパリへ向かった。
 同年5月、夫婦はパリで再会した。晶子はヨーロッパ滞在の記録を『巴里より』で公刊している。この記事ではそれをもとに、晶子のヨーロッパ滞在をみていく。当時のヨーロッパの画像も添える。

ヨーロッパ滞在

パリ滞在

 晶子はパリに着いた後も、日本に置いてきた子どもたちが心配になってきた。そのため、なかなかパリ生活が楽しめなかった。たとえば、その胸中を次の歌に詠んでいる。

子を捨てて 君に来きたりし その日より 物狂ほしく なりにけるかな

 晶子はパリ生活で和服に白足袋の装いで外出することがあった。そうすると、いつも周囲の視線を浴びて困惑した。だが、洋服とくにコルセットとは相性が悪かった。
 それでも、大きな帽子をかぶるという長年の憧れを達成できたのは喜びだった。宿はモンマルトル近辺にとっていた。

当時のパリ(中央を横切るのはセーヌ川)

 7月14日、晶子はパリのお祭りにでかけた。1789年7月14日はフランス革命の始まりの日である。よって、この日は建国記念祭が現在でも例年開催されている。晶子もまたこれを前日から楽しみにしていた。

 当日の午後から、晶子と夫は街中に繰り出した。最も賑やかと思われるレピュブリック広場に地下鉄で向かった。そこでは移動式遊園地が設営されており、大勢の客で賑わっていた。ルーブル宮殿へ向かい、チュイルリ公園で休んだ。コンコルド広場に移動した。

 

当時のコンコルド広場(フランス革命でルイ16世の処刑が行われた場所)

そこには、フランス各州を代表する彫像が建てられていた。1870年の普仏戦争で失われたかつてのアルザス州とロレーヌ州の彫像には喪章がつけられているのをみた。
 その後、リュクサンブール公園の近くで夕飯をすませた。セーヌ川沿いの道を歩き、花火があがるのを待った。開始時間が近づくとともに、見物客が増えてきた。晶子はこの光景が東京の両国の川開きの花火と似ていると思った。

 パリの花火は東京のそれより技巧が拙いように思われた。だが、花火が一時間ほど間断なく打ち上げられるのはパリの特徴であり、これは壮観だと思った。楽しくも儚い光景だった。自動車や馬車の運賃が通常の四倍だったので、歩いて宿に帰った。

 同月、晶子はパリの地下墓地(カタコンベ)にも行った。晶子自身は骨董趣味もないので、不気味で気乗りがしなかった。だが、夫の誘いで行くことにした。

当時のカタコンベ

実際に地下墓地で骸骨が積まれているのを見ると、案外不気味でないと感じた。手足の骨がきれいに積み上げられていたので、日本での薪屋の前を通るのと大差なく感じられた。
 死への厳粛な観念も生じなかった。地下墓地ツアーを終えて地上に出たときには、これは愉快な経験だとも思うほどだった。

ロンドン

 7月、晶子たちはロンドンに旅した。到着する前に、観光の入念な準備をしていた。ちょうど少し前にロンドン観光を終えた日本人からロンドン観光の情報や地図をもらっていた。
 晶子たちはロンドンに着いた頃には通りとバスの経路を暗記していた。そのため、特に問題なく一通りの博物館や教会などの名所を見学することができた。

当時のロンドン

 晶子たちはウェスト・ミンスター寺院を訪れ、日曜の宗教儀式を見学できた。ウェスト・ミンスター寺院は英国教会の主要な大聖堂である。
 ロンドンのナショナル・ギャラリーではイタリアやスペインの巨匠の名画を鑑賞した。とくにパリで見れなかったミケランジェロの作品を見れたことに感激した。テート美術館ではターナーなどのイギリスの巨匠の作品を見れたことに喜びを感じた。
 ロンドン塔をも訪れた。ロンドン塔はかつて牢獄として使われていた塔である。晶子たちが訪れた頃には博物館として利用されていた。古代の武器や国王の戴冠式の宝冠などが展示されていた。
 塔の牢獄エリアを見学したときには、いまでもこの塔のどこかから囚人の怨念や嗚咽の声が聞こえてくるようで寒気がした。
 晶子たちはロンドンで劇団のマネージャーを勤めている人物の邸宅を訪れた。日本贔屓の人であり、客室には歌川広重らの版画を飾っていた。そこには音楽家のヤング氏も同席した。

 ヤング氏は日本に半年間滞在したことがあり、流暢に日本語を話すことができた。日本の音楽と俗謡を学び、それらを自ら英訳した。自らそれらのために作曲もした。オスカー・ワイルドの友人であり、『サロメ』の和訳が存在することを喜んだ。

 晶子たちはロンドンでシェイクスピアの演劇を観たいと彼に相談した。だが、すでに時期を過ぎていると教えられた。晶子たちはそのかわりにバーナード・ショーの劇を観たいと相談し、チケットの手配を頼んだ。
 その夜、晶子たちはヤング氏らの紹介で、オープンしたばかりのキャバレー・テアトル・クラブに行った。内装はキュビズムの図案を用いた前衛的なところだった。
 そこではイギリスやフランス、ノルウェーやデンマーク、スペインの人々がそれぞれの歌や踊りを披露していた。ヤング氏が英訳した日本の俗謡もそこで披露されていた。

ミュンヘン

 9月、晶子たちはドイツに旅した。まずはミュンヘンを訪れた。この頃、晶子はホームシックがひどくなり、日本に置いてきた子供のことを考えては泣く日々だった。その気分転換にドイツ・オーストリア・オランダへの旅行に出ることにした。
 ミュンヘンにかんする晶子の第一印象は、衛生上の設備が行き届いて市街の清潔なことの著しい都である。
 その背景として、ヨーロッパの諸都市は19世紀に入ってから公衆衛生のために上下水道をしっかりと整備するようになった。それ以前は下水道がいわば上水道のように地上を流れていた。よって、不衛生であり、臭いがひどかった。流行病にも悩まされた。
 かつてはミュンヘンも同様であり、たとえばチフスに苦しめられていた。だが、晶子が訪ねた頃には衛生上の問題が大幅に解決されていた。この点に晶子は感嘆した。

当時のミュンヘン

 

 晶子はミュンヘンで音楽会には顔を出さなかったが、美術館を訪れた。イタリアのラファエロやティツィアーノ、スペインのベラスケスやムリーリョ、ベルギーのルーベンス、オランダのファン・ダイク、ドイツのベックリンらの傑作を見ることができて喜んだ。

 特にムリーリョの子供を描いた風俗画から目を離せなかった。ドイツ近代絵画には理想主義を見出した。それを見ていると、中国の李白の詩を読んだときのように、遠い世界に引き入れられるように感じた。
 街中を歩き、晶子は次の歌を詠んだ。

 イザル川白き濁りに渡したる長き橋より仰ぐ夕ぐれ
 うら寒く錫のやうなる雨降りぬイザルの川の秋の切崖

当時のミュンヘンのイザール川

 晶子らは夜にミュンヘンの王立醸造場に行った。これはバイエルン王の王立ビール醸造場である。生ビールを提供していて、5千人ほどが入れるほど広かった。劇場を思わせるような壮観である。

 晶子はその夜の光景が気に入った。夜10時にはほぼ満席となり、労働者も上流階級の人々も楽しく一夜を過ごす。ビールをただ苦い飲料とみていた晶子もここのビールは好きになれた。この王立の酒場はミュンヘンだけにある世界唯一の名物だと思った。
 晶子はミュンヘンの街並みにドイツらしさを感じた。このドイツらしさはステレオタイプに属するといえるだろうが、「建築を初め何事にもどつしりとした趣に富んで居る」ことである。

 カフェの椅子も頑丈である。毎年恒例の祭りの見世物小屋さえがっしりと建てられている。花はフランスのものなら華奢だが、ドイツの花は「 意志の華」と呼ぶべきほどに力強い鮮やかな色をしている。晶子はこの重苦しい趣味が中国のそれと似ていると思った。

ウィーン

 晶子らは汽車でオーストリアの首都ウィーンに移った。

当時のウィーン

たまたまキリスト教の聖体の宗教行列の時期と重なったため、宿を見つけるのに苦労した。2・3日の滞在での印象としては、ウィーンの街並みは予想していたよりは優雅さを欠いていると感じられた。

 聖体の祝日のために、どこでも黄色の旗(ハプスブルク家の旗)が掲げられていた。キリスト教の宗教行列の練り歩きがみられた(仏教や神道の練り歩きと似たような儀式)。教会は荘厳で、参拝者と聖職者で溢れかえった。この光景はチベットやインドを想起させるものだった。

当時のウィーン

街はミュンヘンと比べると衛生的に問題があると晶子には思われた。それでも、王宮や大学などのある市の中央部は小パリと呼ばれるにふさわしい立派なものだった。
 晶子は郊外のシェーンブルン宮殿に感銘を受け、「欧洲の覇者であつた昔が追憶ばれた」。

ベルリン

  次に、晶子たちはドイツのベルリンに移った。そこでは5日間滞在した。短期間の滞在で受けたベルリンの印象はよくなかった。これは皮相な印象にすぎず、3ヶ月も滞在すればベルリンの内部の面白さがわかるだろうと晶子は述べている。
 晶子はベルリンが中国のように重苦しく、そして田舎風だと感じた。市街の家屋は高さ制限が加えられていたため、晶子はそれを窮屈で単調だと感じた。ベルリンの人々は大柄である。

 建物も家具も道路も堂々としていて堅牢であり、統一性がある。そこから、晶子は威圧感を受けた。晶子はフランスの軽快さと洗練の美を好むためベルリンの雰囲気にすぐには馴染めないと感じた。

当時のベルリン

だが衛生思想が何事にも行き届いていることには感嘆した。物価がパリよりも3割ほど安かったので、羽布団を買って帰った。

 その後、オランダのアムステルダムを寄ってパリに戻った。

フランスとイギリスそして日本の女性をめぐって

 晶子はパリ生活を通して、フランス人の印象についてこう語る。男女ともに「きやしやな體をして其姿の意氣」であり、あっさりとして雅でもある。 そのうえで、晶子はフランス人女性の特徴について語る。

 上流階級の女性は「睡蓮の精とも云ひたい樣な、細りとした肉附の豐かな、肌に光があつて、物ごしの生生とした、氣韻の高い美人」だという。上流階級の女性の趣味が中流階級以下の女性にも見受けられる。
 なぜフランス女性は「意氣で美しい」のか。晶子は、ルーブル美術館に展示されているような古代やルネサンスの美術の影響を彼女たちが吸収しているからだろう、と結論付けている。
 晶子はフランス人女性のほかの長所も挙げる。それは「流行を追ひながら而も流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲從して居ない事である」。流行に敏感でありながらも流行に流されず、自分に合った服装を選ぶのである。
 これと関連する長所として、「身に過ぎた華奢を欲しない儉素な性質」を挙げる。具体的には、見た目の美しさを維持しながら、できる限り安く仕上げることである。これは京都の女性に似ているという。絹ではなく木綿でも見た目の美しさが大差ないなら、木綿を使うのだ。
 晶子はそれまでの日本人の女性のあり方に深い関心を抱いていた。そのため、フランス人女性の考察を通して、日本人女性についての考察も行う。「歐洲の女は何うしても活動的であり、東洋の女は靜止的である。靜止的の美も結構であるけれど、何うも現代の時勢には適しない美である」。
 とはいえ、晶子は日本人女性がヨーロッパ人女性の外面や容貌をそっくりそのまま模倣すべきだとはいわない。
 そもそも、当時のパリにおいても、金髪と青い目の女性だけでなく黒髪で黒い目の女性が多く存在していた。しかし、晶子からすれば、日本人女性は黒髪で黒い目のパリ女性にも外見で勝てない。

 その理由は内面にある。日本人女性の「内心が依頼主義であつて、自ら進んで生活し、其生活を富まし且つ樂まうとする心掛を缺いて居る所から、作り花の樣に生氣を失つて居る事と、もう一つは、美に對する趣味の低いため」である。
 日本人女性は他律的ではなく自律的となり、活動的になって、美意識を高めてほしいと晶子は考えた。

 晶子はロンドンの女性やその教育についても考察を加える。晶子が見たところでは、ロンドンの「若い娘の多くが活発な姿勢で自由に外出して居る」。この点でパリとは異なる。

 パリの教育方針では、若い娘たちは家の中に閉じ込められて育ち、そのため生白い顔をしている。これにたいし、ロンドンの若い娘たちは外で伸び伸びと育てられており、開放的に教育されているようだ。これを促進するのがロンドンの公園事情である。

 ロンドンでは街中に大きな公園がいくつもあるので、気軽に自然の中に入ってのびのびと過ごすことができる。パリの公園は正統な詩のように整然としているので窮屈さを感じるが、ロンドンの公園は散文のようにできているので開放的である。
 晶子はイギリスの女性の特徴をさらにこう説明する。外面にかんしては、男性のような顔をしている。そこには「真面目と怜悧」の内面が透けて見える。パリの女性は粋な美をもちながら軽佻かつ無知で執着がなさそうなのに対し、イギリスの女性は粋な美に乏しいが愛と知恵に富んでいそうである。

 イギリスでは女子教育が普及しており、女性も男性と同等の独立した生活を送っている。そのため、イギリスでは内面的に思索する女性が多く、容姿が男性に似てきたのだろう。

 男性との対等さを求める思潮は女性の参政権問題に見てとれる。「或階級の婦人が男子と対等の資格を要求するのには拒み難い真理がある」ので、イギリスで女性が参政権を求めるのも至極当然である。だがそれが実現するにはまだ時間がかかりそうだ。

 晶子はこのようにヨーロッパ滞在を通して、女性問題への見識を深めていった。

おすすめ参考文献

入江春行『晶子の周辺』洋々社、1984

福田清人『与謝野晶子』清水書院, 2017

松村由利子『ジャーナリスト与謝野晶子 』短歌研究社, 2022

※与謝野晶子の多くの作品は、青空文庫にて無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person885.html_。

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