アタワルパは南米ペルーのインカ帝国の最後の皇帝(1502頃―1533)。1520年代後半から、インカ帝国で兄との内戦に突入した。1532年に勝利し、皇帝となった。その直後、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服が始まる。アタワルパの運命はどうなったか・・・。
アタワルパ(Atahualpa)の生涯
アタワルパは現ペルーのクスコでインカ帝国の皇帝ワイナ・カパックとエクアドルの王女の次男として生まれた。キトーに移り住み、エクアドルの地域で勢力を形成した。
インカ帝国の内戦
1525年、父ワイナ・カパックが没した。インカ帝国は二分されて統治された。すなわち、アタワルパがキトを中心とした北部地域を、嫡子で兄のワスカルが首都クスコを中心とした地域を統治した。
だが、野心家だったアタワルパはすぐにワスカルと対立するようになり、両者の戦争が始まった。
戦争によって、インカの諸都市が破壊され、人口も減った。1532年、ついにアタワルパがワスカルに打ち勝った。かくして、アタワルパがインカ帝国の皇帝となった。だが、この内戦により、インカ帝国は大いに疲弊した。 アタワルパがワスカルに勝利した頃、スペイン人のピサロの軍勢がペルーに進出してきた。
スペインのアメリカ進出:探検と植民活動
そもそも、スペイン人が初めてアメリカに到来したのは、1492年のコロンブスの新世界「発見」以降である。コロンブスがスペイン王権の後ろ盾のもとでアメリカに到達したので、まずスペインがその征服や植民地化を本格化させた。
当初、スペイン人はアメリカ大陸にまで進出せず、カリブ諸島で探検と植民を行った。
だが、カリブ諸島の先住民が強制労働などによって急速に減少した。これが一因となって、1500年代から、スペイン人はアメリカの大陸に本格的に進出を開始した。
アステカ帝国の征服からインカ帝国の発見へ
スペイン人はアメリカ大陸で探検と征服を繰り返した。1519年には、エルナン・コルテスの一行がメキシコのアステカ帝国への征服を開始し、皇帝モクテスマを捕らえて利用した。
彼らはアステカ民族との激しい戦闘の末に、1521年にこれを滅ぼした。大量の金銀財宝を獲得した。
アステカ帝国の征服によって、アメリカには黄金郷があるという噂が現実化するかたちとなった。スペイン人の征服者・植民者たちはコルテスの成功に触発され、アメリカ大陸南部の探検や遠征を活発に行なった。ついに、1520年代には、上述のインカ帝国の存在を知った。
スペイン人が到来した頃のインカ帝国
スペイン人が到来したとき、インカ帝国は地球上で最大規模の帝国だった。帝国は四分割されていた。太陽神を国家宗教の中核に据えており、王が儀礼を行った。
王の生活は自身の私有地からあがる物資で支えられた。地方支配のために、総延長4万キロもの道路を整備した。各地に中継地点を設けた。これらの交通網では、飛脚を整備した。
インカの人々はキープという特殊なロープで情報伝達した。これは作物などの管理や徴税に役だった。
租税には、太陽神とインカの土地を耕すことや、道の整備や飛脚のような賦役も含まれた。奢侈品はクスコに送られ、王や貴族が利用した。間接統治を組み入れた帝国システムを構築していた。
インカ帝国の崩壊へ
フランシスコ・ピサロはスペイン国王カルロス1世(=神聖ローマ皇帝カール5世)と契約を結び、インカ帝国の征服へ出発した。そのタイミングが、まさにアタワルパがインカ帝国の内戦に勝利する直前だった。
1532年2月、アタワルパがワスカルをあと少しで打ち倒すというタイミングで、ピサロはインカ帝国に到着した。両者はピサロの到来を、当然ながら、予期していなかった。両者ともにピサロに使者を派遣した。
ピサロはアタワルパに会うと決めた。そのような交渉をしていた頃に、アタワルパがついにワスカルを打ち倒した。
アタワルパは内戦に勝利した後、クスコに凱旋して入るところだった。このタイミングで、ピサロはアタワルパに計略を仕掛けた。ピサロはアタワルパに内戦勝利の祝宴を開きたいと申し出て、アタワルパがこれに応じた。
アタワルパとピサロの接触
1532年11月15日、ピサロの使者とアタワルパはインカ帝国の軍隊の宿営地で面会した。ピサロの使者がインカ人から無礼な扱いを受けたとアタワルパに抗議し、アタワルパはこれを認めた。
そこで、今度はアタワルパが翌日、ピサロに会いに行くことになった。ピサロはアタワルパを生け捕りにする計画を練った。
11月16日、アタワルパは側近たちをつれて、駕籠に乗って約束の広場に到着した。そこに、ピサロではなく、スペイン人宣教師と通訳がやってきた。
宣教師はいわゆる勧告状(レケリミエント)をアタワルパにたいして読み上げた。これはアタワルパにたいして、キリスト教への改宗とスペイン王への服従を求める公文書である。
この一方的な要求にたいし、アタワルパは聖書を地面に叩きつけて応答した(あるいは、宣教師を突き飛ばした結果、もっていた聖書が地面に落ちた)。
これが合図となった。広場の陰に潜んでいたスペイン人が広場に躍り出て、アタワルパらに襲いかかった。インカ人はこれに負け、アタワルパは生け捕りにされた。
アタワルパの処遇
アタワルパはピサロに対して、釈放されるための身代金として、1部屋分の金銀財宝を提供すると申し出た。ピサロはこれを承諾した。インカ帝国の金銀財宝がピサロのもとへと集められた。
だが、アタワルパは解放されず、相変わらず捕虜のような生活を強いられた。ピサロはアタワルパという現地の支配者の権威を利用して、インカ帝国での支配を有利に展開しようと考えていた。
アタワルパは約束と違うと抗議した。これにたいし、ピサロは彼を釈放しない原因をアタワルパ自身に帰そうとした。特に、アタワルパが1533年にワスカルへの死刑を命じたという理由をその原因として挙げた。
アタワルパはスペイン人のもとで囚われの身だったが、外部の先住民と自由にやりとりできる状態だった。
インカ帝国の滅亡
1533年4月、スペイン人のアルマグロらがペルーに到来した。アルマグロはピサロと異なり、アタワルパを単なる邪魔者とみなした。アルマグロはピサロとアタワルパの身代金の約束とは無関係だったので、その分け前にありつけないのも一因だった。
このよな状況で、アタワルパへの裁判が行われ、ついに火刑が宣告された。キリスト教宣教師との交渉により、アタワルパはキリスト教の改宗を受け入れた。そのかわりに、火刑ではなく絞首刑が執行された。かくして、インカ帝国は滅んだ。
先住民の抵抗
ただし、インカの先住民がそのままスペイン人に素直に服従したわけではない。彼らはすぐに反乱を起こした。これは最終的に失敗した。だが、その後も彼らは山地に展開し、ゲリラ作戦を継続することになる。
スペインの植民地政府はこれを撃退するのになかなか成功しなかった。植民地政府がこれらの抵抗勢力を最終的に鎮定できたのは1570年代以降になる。
その頃から、ペルーのポトシ銀山などが本格的に銀をヨーロッパやアジアへと供給し始めることになる。ペルーの銀や日本の石見銀山の銀は初期のグローバル経済を成立させていく。
アタワルパと縁のある人物
●ピサロ:インカ帝国を滅ぼしたスペイン人の隊長。この征服をスペイン人側からみたら、どうなるだろうか。さらに、ペルー征服の「英雄」ピサロは驚くべき最期を迎える。
→ピサロの記事をみる
●エルナン・コルテス:インカ帝国の征服の10年ほど前、アステカ帝国を滅ぼしたスペイン人の隊長。インカ帝国が滅ぼされる前、アステカ帝国はどのようにして征服されたのか。
→コルテスの記事をよむ
●モクテスマ:アステカ帝国の最後の皇帝。スペインによるアステカの征服は、この皇帝の視点において、どのようにみえたのか。
→モクテスマの記事をみる
インカ皇帝アタワルパの肖像画
おすすめ参考文献
増田義郎『インカ帝国探検記 : ある文化の滅亡の歴史』中央公論新社, 2017
R. Alan Covey, Inca apocalypse : the Spanish conquest and the transformation of the Andean world, Oxford University Press, 2020
Justyna Olko(ed.), Dialogue with Europe, dialogue with the past, University Press of Colorado, 2018