アンリ・ファーブル:昆虫の英雄譚をつむぐ

 アンリ・ファーブルはフランスの生物学者で博物学者(1823―1915)。苦学して身を立て、中学校の教師となった。そのかたわら、昆虫研究を進め、世界的に有名な『昆虫記』を完成させた。その研究生活は苦しい時期も長かった。この記事では、『昆虫記』の特徴や意義も説明する。

ファーブル(Henri Fabre)の生涯


 ファーブルはフランス南部のサン・レオンで農家の家庭に生まれた。少年期は自然に囲まれて過ごした。貧しいなかで苦学しながら独学で勉学を続けた。アビニョンの師範学校に合格した。小学校で教師となった。

 そのかたわら、独学でバカロレア試験に合格した。中学校で物理学の教師を務めた。1853年にはアヴィニョンの中学校に移った。同時に、大学に通い、数学や物理学の学士となった。1854年には博士号をとった。

 昆虫学者としての開花:レジオン・ドヌール勲章

 30代に入った頃、ファーブルは昆虫学者のレオン・デュフールの論文に感銘をうけた。それまでにも、すでに昆虫には一定の関心を抱き続けていた。
 だが、デュフールの論文がきっかけとなって、ファーブルは本格的に昆虫の研究を開始した。よって、昆虫学者ファーブルは30代に入ってから誕生したといえる。

 ファーブルは研究を進めた。論文を博物学の研究雑誌などに公刊し始めた。最初はスズメバチがいかに獲物を捕食するかについて論文で発表した。次第に成果が認められ、アビニョンの博物館の館長に任命されるほどになった。

 さらに、1868年には、ナポレオン3世からレジオン・ドヌール勲章を授与された。これはその約半世紀前にナポレオン1世が設立した勲章制度である。フランス社会に多大な貢献を行った人に授与されるものだった。

 逆風の中での研究の継続

 だが、ファーブルの学究生活は順風満帆というわけではなかった。そもそも、ファーブルは大家族を養っていたので、経済的に苦しかった。
 ファーブルは卓越した学歴をもっていたわけではなかった。そのため、優れた研究成果を出していた分だけ、妬みや非難の的にもなった。その強い風当たりのために、ファーブルはいったん表舞台から身を引くことにした。

 それでも、ファーブルの支持者は存在し続けた。たとえば、当時のイギリスの著名な哲学者で政治家のJ.S.ミルがファーブルを支えた。
 ミルは最愛の妻との旅行でフランスを訪れた際に、妻がそこで亡くなった。墓をこの地にたてたため、この地に住んでいた。晩年のミルはファーブルと交流をもっていたのである。

 ファーブルは経済的困難に立ち向かうために、一般向けに講義を行ったり、著作を公刊したりした。あるいは、教科書を制作するようにもなった。

『ファーブル昆虫記』:その特徴と意義

 1878年、ファーブルはフランス南部のセリニャンに移った。小さな土地を買って、そこに住んだ。その庭を拠点にして、昆虫研究に再び打ち込んだ。
 1879年から1910年にかけて、主著の『昆虫記』全10巻を執筆していった。昆虫世界の魅力を語るファーブルは「昆虫のホメロス」と呼ばれた。ホメロスは古代ギリシャの代表的な詩人であり、壮大な英雄譚『イリアス』や『オデュッセイア』で知られる。

 ファーブルの特徴としては、昆虫の観察に実験を導入した点にある。実験をするには、そもそも、昆虫が死んでいては都合が悪いことが多い。ファーブルのほかの特徴はまさにこの点にある。

 当時の昆虫学者は死んだ昆虫(の標本など)を研究対象にする傾向にあった。だが、ファーブルは生きた昆虫を、昆虫の生息するまさにその場所で観察した。そのうえで、実験も加えた。方法においては、このような独自性をもっていた。

 実のところ、本書が完成するまでの30年間も、生活は苦しかった。そのためベルクソンらの著名な学者や文人らがファーブルを支えようとして社会に働きかけた。その結果、フランス政府から彼のために年金を獲得するのに成功した。

 『昆虫記』は完成後、ベストセラーとなった。本書は優れた文体で書かれており、読み物としても優れていた。そのため、1912年には、バーナード・ショーらの作品とともに、ノーベル文学賞の候補にもあがった。ただし、受賞はできなかった。

 ファーブルは1915年に没した。ファーブルは『昆虫記』によって、昆虫学の基礎を築いた。そのため、現代の昆虫学の父として知られる。
 『昆虫記』はすぐに日本で大杉栄が和訳して出版し、のちに詩人の三好達治も和訳した。

 ダーウィンの進化論との関係

 1859年、イギリスの博物学者ダーウィンは代表作『種の起源』を公刊した。没するまでに、第六版まで改訂することになる。本書はダーウィンの進化論や自然淘汰説ですぐさま有名になった。同時に、多くの批判を惹起した。
 その中で、ダーウィンはファーブルを「比類なき観察者」と呼んで称賛している。さらに、自身の自然淘汰説を立証するために、ファーブルの昆虫観察の成果を利用している。
 他方で、ファーブルはダーウィンの進化論を批判した。進化論では、たとえば猿が長い時間をかけて人間に進化したとされる。だが、ファーブルはそのような進化を証明するための確固たる証拠が足りていないと論じた。進化の途中の段階の化石などがまだまだ見つかっていない。
 さらに、ファーブルはそれぞれの種がそれぞれの種として創造されたのだと論じた。たとえば、猿は太古の時代から猿として神に創造された。猿は現在も猿であり、未来においても猿であろう。猿が人間に変わるということはない。

 猿は猿という固有の種として神にデザインされ、創造されたのだから、人間という別の種にはならない、と。それぞれの昆虫がそれぞれ独自のデザインのもとで創造されたように。

おすすめ参考文献

ジャン=アンリ・ファーブル『昆虫記すばらしきフンコロガシ : ファーブルショートセレクション』奥本大三郎訳, 理論社, 2021

G. V. Legros, Fabre; poet of science, Horizon Press, 1971

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