芥川龍之介:近代文学の「古典」をつくる

 芥川龍之介は大正時代の代表的な小説家(1892―1927)。はやくも東京帝大時代に『羅生門』や『鼻』を発表し、夏目漱石に文才を認められて、小説家の道に進んだ。新聞社につとめながら次々と作品を発表し、小説家としての地位を確固たるものにした。だが健康の悪化などに伴い、厭世的な色合いが作品に強く反映されるようになった。これからみていくように、彼の死後に芥川賞を創設したのはあの著名な人物だった。

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の生涯

 芥川龍之介は東京で食品業者の家庭に生まれた。まもなく母が発狂したため、芥川は母の実家の芥川家の養子となった。少年期には文学や芸術に興味をいだいた。芥川は第一高等学校に入り、菊池寛と友人となり、卒業した。なお、菊池とは生涯の友人となる。

 小説家としての開花:『羅生門』

 1913年、芥川は東京帝国大学の英文科に入った。まもなく、執筆活動を開始した。1914年、第三次『新思潮』を刊行し、『老年』発表した。1915年には『羅生門』を発表した。これは『今昔物語集』に範を取った作品とされている。

 本書は荒廃した時代の京都を舞台にしている。貧困に窮した主人公が最初は窃盗に嫌悪を抱いていたのだが、羅生門での老婆との出会いで、生きるために悪をなすことに躊躇しなくなるようになる。このような心理の変化を巧みに描いた初期の名作である。

 1916年、芥川は『鼻』を発表し、夏目漱石に文才を認められた。同年、大学を卒業した。1917年、短編小説集の『羅生門』 を公刊した。そこに上述の諸作品や『芋粥』などが所収されている。かくして、芥川は早くからその才能を認められた。

 文豪としての活躍

 芥川は横須賀の海軍士官学校で英語教官となり、大阪毎日新聞社につとめた。文筆活動を続け、1918年に『地獄変』を発表した。

『地獄変』

 「地獄変」とは地獄変相の略である。これは死んで地獄に落ちた者が地獄でどのような恐ろしい責め苦を受けるかを絵図にしたものである。地獄図や地獄絵とも呼ばれる。このような地獄の光景を示すことで、民衆に勧善懲悪や正しい仏教の教えを示そうとした。
 芥川の『地獄変』は『宇治拾遺物語』に着想をえたとされる。主人公の絵師の良秀が地獄変の屛風の制作を任される。良秀はそのモデルとなるものを望んだ。その結果、自身の最愛の娘が炎の中で悶え死ぬことになる。

 良秀はその様子を最初は苦悶の表情で描き始めたが、次第に恍惚の中で描くようになった。傑作の地獄図が完成したが、良秀は自害した。本作は倫理より美が優先する芸術至上主義が示された作品と評されている。

 その後も、『奉教人の死』や『蜜柑』などを次々と発表した。かくして、早くも大正文学において確固たる地位を築いた。題材は『今昔物語集』のような歴史的なものや、明治の文明開化の時期に関するもの、あるいはより現代的なものもあった。

「真相は藪の中」

 1921年、芥川は大阪毎日新聞社のもとで中国へ視察に赴いた。帰国後、健康状態が悪化した。そのような中で、『藪の中』を公刊した。この作品では、藪の中で殺人事件が起こる。その捜査を行うために、目撃者などの関係者から事情聴取がなされた。

 しかし、それぞれの証言の内容はあまりにも食い違うものだった。そのため、結局真相は不明のまま物語は幕を閉じる。本作は一定の成功を収めた。その結果、「 真相は藪の中」という言い回しが定着するようになった。本作以後も、厭世的傾向が作品に色濃く反映されるようになった。

 この頃、日本の文学界では、志賀直哉らの私小説の影響が強かった。同時に、小林多喜二らのプロレタリア文学運動が本格化していった。芥川はそれらに影響を受けつつも、芸術主義の立場を維持しようとした。

 関東大震災にみる芥川の人柄と思考

 1923年9月1日の正午、関東大震災が起こった。規模はマグニチュード7.9で最大震度7の大地震であり、津波も発生した。火事が東京の街を襲い、9月3日の昼まで続いた。死者は9万人、被災者は340万人、全焼ないし全壊した家屋は45万ほどだった。

 被害額は当時の日本の一年間の国家予算の3倍以上だった。芥川はこの大地震について興味深いことを書いている。それらを通して、芥川の人柄や考えを見て取ることができる。
 芥川は「大正十二年九月一日の大震に際して」の中で、この大地震について述べている。地震の発生時、芥川は自宅で昼食の準備を手伝っていた。すぐさま子供たちを抱えて屋外にでた。

 幸い、芥川の家は倒壊しなかった。近所を歩いて近隣住民を見舞った。高いところから東京の街を見てみると、空が土埃や火事の色で染まっているのがみえた。

 その後、米やろうそく、缶詰などを買い集めた。夜になり、東京の火災はいっそう激しさを増した。その光景はあたかも「大いなる熔鉱炉を見るが如し」だった。電気とガスは通じなかった。一晩中、空は常に燃ゆるが如くだった。
 九月二日、芥川は友人と街中を歩いた。東京や横浜は全滅したという情報が流れてきた。友人や兄弟の安否が分からず、心配になった。芥川の居住地もまた延焼する可能性があった。そのため、芥川一家は最低限の荷物をもって避難することにした。その際に、芥川は「漱石先生の書一軸」を持っていくことにした。
 大地震の危機が去り、芥川はこの大きな出来事について原稿を依頼された。そこで彼はその思うところを書いた。被災した街を歩いたときの感想としては、こう述べている。

 平時と異なり、被災した人々は人懐しさを感じ出し、近所の人たちと親しそうに話し合い、タバコや食べ物を勧めあった。これがいたるところでみられた。「いつにない親しさの湧いてゐるのは兎角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる」。
 また、芥川は自身が東京にある種の愛郷心を抱いているのに気づいた。それまで、芥川は東京生まれでありながらも当時の東京に愛郷心を感じたことがないと自覚していた。彼が親しんだ頃の東京の景色が急速に失われていったのが一因だった。

 震災直前の東京は芥川にとっては「俗悪な東京」だった。この東京から、今回の震災で地方出身者が脱出し、帰郷し始めた。芥川の友人はその光景を見ながら、江戸っ子だけは最後まで東京に残ると言った。

 芥川はこれに心強さを感じ、自身に江戸っ子の感情が残っていると感じた。かつての俗悪な東京を追憶し、美化すらしているのに気づいた。
 関東大震災が小説家に与える影響についても述べている。まず、大震災はたしかに甚大な影響を与えたにせよ、人生観を一変させるような衝撃を与えることはないだろうと述べる。というのも、大地震は天災であり、人間の生み出したものではないからである。

 それでも、作風の変化は生じるかもしれない。芥川からすれば、震災前の小説では、私小説のジャンルでよくみられたように、デリケートな人間の心理が扱われてきた。だが、今回の大震災で、人々は大きな動揺や激しい愛憎などを経験した。そのため、これからは「もつと線の太い感情の曲線をゑがいたもの」が生まれてくるだろう、と。

 晩年

 1926年、昭和時代に入り、芥川は『蜃気楼(しんきろう)』や『河童』など、次々と小説を発表した。芥川はこの時期に詩人の萩原朔太郎と親しく交わった。『河童』は萩原に読んでほしかったと彼自身に伝えている。また、この頃、学生時代の堀辰雄と知り合い、小説の手ほどきをした。

『河童』

この作品は或る精神病患者の体験談という体裁がとられている。この主人公は河童の国に住んでいたことがあると言い、その体験を物語る。河童の国は人間社会とすべてが反対だとされている。

 例えば、赤ん坊はこの世に生まれるかどうかを自ら決定することができる。この作品では、当時の日本社会への機知に富んだ批判や警句が展開されている。同時に、芥川自身の実生活を反映した内容にもなっており、彼自身への批判にもなっている。

自殺

 1927年、芥川は睡眠薬の多量摂取による自殺を遂げた。自殺の理由として、芥川自身は遺書で「僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである」と述べている。この自殺は当時、センセーショナルな事件として社会に受け止められた。

芥川賞と菊池寛

 1935年、菊池寛が「芥川龍之介賞」を創設し、現在に至るまで権威的な文学賞となっている。

 なお、芥川は学生時代からの付き合いの菊池寛について、「兄貴のような心持」の中で語っている。芥川自身は菊池と一緒にいても気詰まりも退屈も感じない間柄だという。というのも、菊池は芥川に「兄貴と一しょにいるような心もち」を起こさせるためである。

 菊池を兄貴と感じる理由としては、菊池の卓越した学殖に一因がある。だが、一番の理由は「彼の人間の出来上っている結果」だという。できた人間になったのは菊池が苦労を重ねてきた人物だからだという。菊池は立派な苦労人であり、包容力のある人物となったからこそ、芥川に兄貴と慕われたようだ。

 また、芥川は「合理的、同時に多量の人間味」の中では、菊池が頭脳明晰であり、合理的といえる信念を全うする勇敢な人物と評している。同時に、人間味や人情が多量にある。そのため、尊敬もしている、と。その執筆活動にかんしては、人生のための芸術の人物に近いと評している。

 芥川の短歌

 芥川龍之介は短歌も嗜んでいた。その一部を紹介しよう。

片恋の わが世さみしく ヒヤシンス うすむらさきに にほひそめけり

なやましく 春は暮れゆく 踊り子の 金紗の裾に 春は暮れゆく

うかれ女の うすき恋より かきつばた うす紫に 匂ひそめけむ

病室の まどにかひたる 紅き鳥 しきりになきて君おもはする

其夜より 娼婦の如く なまめける 人となりしを いとふのみかは

ほのぐらき わがたましひの 黄昏を かすかにともる 黄蝋もあり

かりそめの 涙なれども よりそひて 泣けばぞ恋の 

ともしびも 雨にぬれたる 甃石も 君送る夜は あはれふかゝり

芥川龍之介の『羅生門』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)

芥川龍之介

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 芥川龍之介と縁のある人物

夏目漱石:芥川龍之介の学生時代の小説の師匠。卒業後も、漱石のもとに通った。漱石が没した後には、漱石を追想する作品も残している。漱石という文豪を芥川という文豪がどのように見ていたかを知ることができる。

菊池寛:芥川とは高校時代からの友人。執筆活動だけでなく普段の生活面でも芥川に頼りにされており、全幅の信頼を得ていた。菊池自身も著名な作家。

 芥川龍之介の代表的な作品

 
『羅生門』(1915)
『鼻』(1916)
『戯作三昧)』(1917
『地獄変』(1918)
『奉教人の死』(1918)
『蜜柑』(1919)
『舞踏会』(1920)
『藪の中』(1922)
『蜃気楼』(1927)
『河童』(1927)
『歯車』(1927)
『或阿呆(あるあほう)の一生』(1927)

おすすめ参考文献と青空文庫


早澤正人『芥川龍之介論 : 初期テクストの構造分析』鼎書房, 2018

庄司達也編『芥川龍之介ハンドブック 』鼎書房, 2015

宮坂覺編『芥川龍之介と切支丹物 : 多声・交差・越境』翰林書房, 2014

※芥川龍之介の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html)

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