石川啄木は明治時代の歌人で詩人(1886―1912)。少年期から文学を志したが、なかなか成功しなかった。苦しい生活の中で、生活に根ざした短歌や詩を制作するようになり、『一握の砂』や『悲しき玩具』で生活詩人として文名を高めた。だが経済状況はあまり改善しなかった。最晩年には、これからみていくように、社会主義思想に刺激を受け、社会批評をも行うようになった。この記事では、海外での啄木の評価も紹介する。
石川啄木(いしかわたくぼく)の生涯
石川啄木は岩手県盛岡で仏僧の家庭に生まれた。本名は一(はじめ)である。1887年、父が渋民(しぶたみ)の宝徳寺の住職となり、一家はそこに移った。終生、渋民村は啄木にとって懐かしい故郷となる。
1895年、啄木は盛岡高等小学校に入った。この頃、金田一京助と友人になった。1898年、啄木は盛岡中学校に入った。啄木は文学に熱中して学業に身が入らず、中学校を中退した。1902年、文人として身を立てるべく、東京に移った。だが失敗し、1903年に帰郷した。
詩人としての開花:不安定な生活の日々
啄木は歌人の与謝野鉄幹の新詩社に加わり、雑誌『明星』で作品を発表するようになった。1905年、最初の詩集『あこがれ』を公刊し、詩人として名を馳せた。
だが、生活は苦しくなった。前年に父が住職を罷免され、啄木自身は結婚したためである。そこで、1906年に渋谷村に帰り、小学校の教員をつとめた。同時に、小説家として身を立てようとして、『面影』などを執筆した。だが失敗し、1907年に働き口を求めて北海道に渡った。だがこれも失敗した。妻が家出した。
1908年、啄木は希望を捨てず、再び文人として身を立てるべく、東京に移った。この頃、親友の金田一京助は学者としてのキャリアを開始しており、大学で講師をつとめていた。啄木は金田一のもとに下宿し、執筆活動に励んだ。『病院の窓』などの小説を執筆したが、失敗に終わった。生活はいよいよ苦しくなった。だが、金田一はその後も啄木を支え続ける。
詩人や歌人としての活躍:『一握の砂』
1909年、啄木は同郷人の助けを得て、東京朝日新聞社に入ることができた。短歌の制作にも打ち込んだ。歌人としての腕を見込まれて、「朝日歌壇」の選者になった。
1910年、ついに代表作として知られる最初の歌集『一握(いちあく)の砂』を公刊した。日常生活を本位とする短歌が大きな反響を呼び、啄木は歌人としての地位を確立した。1911年には詩集『呼子(よぶこ)と口笛』 を制作した。1912年には歌集『悲しき玩具(がんぐ)』を公刊した。
『一握の砂』の短歌
若くして
数人の父となりし友
子なきがごとく酔へばうたひき
さりげなき高き笑ひが
酒とともに
我が腸に沁みにけらしな
呻噛み
夜汽車の窓に別れたる
別れが今は物足らぬかな
雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間の町のともしびの色
雨つよく降る夜の汽車の
たえまなく雫流るる
窓硝子かな
社会主義の影響
その頃、1910年、大逆事件が起きた。日露戦争以降、政府に弾圧されてきた社会主義者らが明治天皇の暗殺計画を企てたとして、一斉に検挙され弾圧された事件である。社会主義者の幸徳秋水などが1911年に処刑された。
依然として生活の苦しかった啄木はこの事件に大きな衝撃を受けた。社会主義の影響を受け、幸徳秋水らの著作を熱心に読むようになり、現代日本社会に関する批判を評論の『時代閉塞(へいそく)の現状』で展開した。これは死後の1913年に公刊された。
1912年、啄木は27歳にして、貧窮のうちに病没した。民衆の生活に根ざした啄木の作品は「民衆の詩」と評されるようになった。
啄木の海外での評価
ここでは、啄木が海外でどのように評価されているかをみてみよう。啄木は近代日本の短歌の革新者として知られている。
啄木の詩は、人生の興奮と挫折の瞬間を切り取ったものである。それらが組み合わさって、ほろ苦い皮肉な感覚を生み出している。
たとえば、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」は啄木の代表作として知られている。この短歌にみられるように、啄木の特徴は、人生や生活についてなにか気づきを得る瞬間を切り取ることである。彼の短歌の中で、時間が止まっているように見えたり、無限に伸びているように見えたりすることである。
実際に、啄木は短歌を作る過程をこう説明している。ある日、外を歩いていて、犬が飛びかかってきて驚き、「しまった!」と声を上げたときの感覚である。 この何も考えずに、おもわず出てくるという時にこそ、短歌が誕生する。
短歌は、日常生活の中に現れては消え、現れては消えていく、つかの間の瞬間に愛着を感じる人がいれば、滅びることはない。そのような感覚をもつ人が短歌を刷新していくべきでもある。
『悲しき玩具』の短歌
遊びに出て子供かへらず、
取り出して
走らせて見る玩具の機関車。
本を買ひたし、本を買ひたしと、
あてつけのつもりではなけれど、
妻に言ひてみる。
旅を思ふ夫の心!
叱り、泣く、妻子の心!
朝の食卓!
家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
痛む歯をおさへつつ、
日が赤赤と、
冬の靄の中にのぼるを見たり。
いつまでも歩いてゐねばならぬごとき
思ひ湧き来ぬ、
深夜の町町。
なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに、顔にかかれり。
何となく、
今朝は少しく、わが心明るきごとし。
手の爪を切る。
うっとりと
本の挿絵に眺め入り、
煙草の煙吹きかけてみる。
途中にて乗換の電車なくなりしに、
泣かうかと思ひき。
雨も降りてゐき。
二晩おきに、
夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
勤めなればかな。
しっとりと
酒のかをりにひたりたる
脳の重みを感じて帰る。
石川啄木の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
石川啄木と縁のある人物
☆金田一京助:啄木と小学校時代からの親友。生活の苦しい啄木の文学活動を支えた。金田一自身は学者として成功し、国語辞書の編纂などを行った。ただし、もともとは国語学者というよりも、あの日本の民族にかんする専門家だった。
●宮沢賢治:石川啄木と同じ盛岡中学校の出身。『銀河鉄道の夜』など、多くの人気作品を残した。
石川啄木の代表的な作品
『あこがれ』(1905)
『一握の砂』(1910)
『呼子と口笛』(1911)
『悲しき玩具』(1912)
『時代閉塞の現状』(1913)
おすすめ参考文献と青空文庫
ルカ・カッポンチェッリ『日本近代詩の発展過程の研究 : 与謝野晶子、石川啄木、萩原朔太郎を中心に』翰林書房, 2018
Rachael Hutchinson, Routledge handbook of modern Japanese literature, Routledge, 2019
※石川啄木の作品は青空文庫で無料で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person153.html)