若山牧水は明治と昭和初期の歌人(1885―1928)。早くから短歌に関心をもち、制作した。20代なかばで歌集『別離』が成功を収め、歌人としての地位を確立した。酒と旅を愛し、それらに関する多くの短歌をつくった。また、味わいのある紀行文を多く世に送り出した。そこには牧水の人柄がにじみ出ているので、そのいくつかをこの記事で紹介しよう。
若山牧水(わかやまぼくすい)の生涯
若山牧水は宮崎県で医者の家庭に生まれた。本名は繁である。早くから和歌に関心をもち、中学生の頃には短歌を制作し、牧水を名乗った。
歌人としての活躍:『別離』の成功
1904年、若山は東京に移り、早稲田大学の英文科に入った。すぐに歌人の尾上柴舟(おのえさいしゅう)に師事した。車前草社の同人となり、雑誌『新声』で作品を発表した。当時の自然主義文学の隆盛とともに、短編小説も書いた。また、北原白秋と同級生であり、交流をもった。
1908年、若山は大学を卒業した。同年、歌集『海の声』を公刊した。新聞記者をとして働きながら、短歌の制作に励んだ。1910年に、歌集『独り歌へる』 を公刊した。さらに、同年に歌集『別離』を公刊し、これが大きな成功を収めた。同門の前田夕暮(ゆうぐれ)も同時期に成功を収めた。そのため、この時期は歌壇において「牧水・夕暮時代」と呼ばれた。
同年、若山は短歌雑誌『創作』を創刊した。石川啄木や北原白秋などが自然や日常にかんする短歌を発表した。自然主義の雑誌として一定の成功を収めていく。
『別離』の短歌の一部を紹介
水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまぢれる深山の昼を
朝地震す空はかすかに嵐して一山白きやまざくらばな
母恋しかかるゆふべのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ
父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
旅の歌人として
若山自身も短歌の制作を生涯続けた。自然主義の影響を受けながらも、自己の苦悩や退廃的ムードを『死か芸術か』 や『みなかみ』などで表現した。1912年には太田喜志子と結婚した。
1920年、若山は静岡県の沼津に移った。また、芭蕉や西行のように、旅を好んだ。「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」のように、旅に関する短歌を多く詠み、『山桜の歌』などを公刊した。『山寺』や『みなかみ紀行』など多くの優れた紀行文も著した。
『山寺』:廃寺での老爺との酒と語らい
『山寺』は大正10年に、若山牧水が比叡山の廃寺寸前といえるほど寂れた寺に1週間ほど滞在した際の紀行文である。比叡山の中でも、特に奥の方にある寺だった。そこにはめったに人はこない。若山は峠茶屋の爺さんに勧められて、この寺までやってきた。
この寺には寺男の爺さんがいる。若山はこの木と鳥と雨に包まれた寺で、爺さんと愉しく酒をくみかわす。爺さんはもともと大の酒好きだった。だが、酒が原因で、家族生活も仕事も失敗してしまった。
年取ってから、この山寺で寺男をするようになった。それからは酒をあまり飲まなかった。だが、若山がきて、上等の酒が毎晩呑めて、さぞかし愉しかった。若山も愉しかった。
1週間ほどたった。寺男の爺さんは上等の酒をまた飲めるようになりたいと思うようになった。そのため、別の寺につとめることにしたという。若山が出立するとき、爺さんも別の寺に移る、と。
最後の晩、若山は峠茶屋の爺さんも呼んで、三人で酒盛りをした。二人の爺さんがさきに酔ってしまった。寺男の爺さんは酔いつぶれる。この最後の部分に若山の人柄がよく表れているので、引用しよう。
峠茶屋の爺さんは酔っているにもかかわらず、「剛情にも是非茶屋まで歸るといふのだが脚が利かぬので私はそれを肩にして送つて行つた。さうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだらうが、と言はれてたうとう私も泣いてしまつた。
翌日、早朝から轉居をする筈の孝太爺は私に別れかねてせめて麓までと八瀬村まで送つて來た。
其處で尚ほ別れかね、たうとう京都まで送つて來た。
京都での別れは一層つらかつた」。
「金毘羅参り」:少年時代の大冒険
牧水は少年向けの雑誌にも寄稿していた。たとえば、「金比羅参り」が挙げられる。これは牧水が12歳の頃の話である。牧水の人柄を表す大冒険の話だ。
当時、牧水は宮崎県の延岡で現在でいう小学6年生だった。試験期間に入っていた。親友と裏山で遊んでいた。遠くに、汽船が見える。当時、この地域には電車どころか汽車も開通していなかった。汽船も珍しかった。
牧水は先日、母から手紙を受け取ったことを親友に話す。母が義兄とともに、香川県の金毘羅参りにいくというのである。欲しいお土産を書いてよこせ、と牧水に手紙で尋ねた。牧水は返信をだした。
牧水はこのような話を親友にした。すると、親友はこう言って、牧水を驚かせた。土産物をもらうより、一緒に金毘羅参りにいったほうがいいじゃないか、と。牧水は、たしかにそうだ、と思った。だが、試験中だから無理だ、とこたえる。親友は、牧水の成績が常によいので、試験を受けなくても落第することがない、と答える。
そこで、二人はどうやって牧水を金毘羅参りに送るか話し合う。結局、牧水はこの計画を実行した。翌日、学校の先生には、牧水の家族の急病により試験を欠席する、と親友が伝えた。牧水は宮崎の港へと走り、母たちと合流した。
母は当然ながら、びっくり仰天した。怒り、呆れた。牧水を帰らせようとした。だが、義兄は牧水の大胆な行動に興味をひかれ、牧水に味方した。母をなだめるのに成功した。かくして、牧水は金毘羅参りに同行することができた。
帰ってきた後、学校では、順位が首席から4位に落ちただけで、特にお咎めはなかった。牧水は先生がよい先生で、見逃してくれたのだろうという。
『熊野奈智山』:人違いの珍道中と那智の大滝
和歌山県に、那智の大滝という名勝がある。現在も有名な観光名所だ。牧水はここに旅したことがある。
それは梅雨の時期だった。汽船に揺られながら、和歌山県の勝浦の港につく。雨が降り続いていた。山麓がぼんやりみえる。その奥の方に、滝が見える。
那智の大滝である。雨に濡れながら、遠くからではあるが、牧水はこの滝を、ありがたいものを見るような心持ちで、みていた。
牧水は勝浦港で下船した。立派な港だとおもった。傘をさしながら、先のことを考えず、とにかく海岸沿いを歩いてみることにした。漁師町である。カツオが大漁であった。
牧水は茶屋に入る。早速、鰹をさかなにして、酒を一杯飲み始めた。那智や新宮への道のりなどを店の主人に聞く。近くには、温泉がたくさんあることを知る。赤島という近くの島まで船を漕いでもらって、そこに行く。ぬるま湯の温泉で生きかえる。
牧水はこの温泉宿が気に入った。その日は、たくさんの鰹を食いながら、ただ一人、いかにも遠くの旅さきの温泉場に來ている靜かな心になつって、夜遲くまでちびちび盃を嘗めていた。
牧水はこの心持ちを歌に詠む。
・したたかに われに喰はせよ 名にし負ふ 熊野が浦は いま鰹時
・いまは早や とぼしき錢の ことも思はず 一心に喰へ これの鰹を
翌朝もよく降っている。牧水は疲れてもいたので、朝から酒をとりよせ、ゆっくり休むことにした。次の日も雨で、観光をやめて、また宿に滞在とした。午後に晴れて、釣りをたのしむ。
次の日も雨。だが、いよいよ牧水は宿を発つ。那智の大滝を見に行くことにする。鉄道で那智口に着く。土砂降りだったので、駅近くの宿屋へ。
そこで、牧水は昼食を頼んだ。すると、見知らぬ男に声をかけられる。どこから来たのか、どこに行っていたのか、などの質問を受ける。いろいろと聞かれ、周りの注目をあび、気味が悪くなってくる。
相手は牧水を別の人物と勘違いする。しきりに、牧水を宿の二階にあげようとする。牧水はついに、人違いだと断じて、土砂降りのなかを歩き始める。
勢いで出てきたものの、土砂降りで全身が濡れる。やっぱり大滝なんて見に来るのではなかった、宿にとどまっていればよかった、滝を見たからといってなんになるのだ、と泣き言を言いたくなる。心細く、泣きそうになりながら歩く。
すると、後ろから乗合馬車がやってきて、乗れという。那智の大滝行きだというので、牧水は乗る。他の乗客と会話が始まる。最近は那智の大滝に投身自殺する者が多くて困るという。
大滝は構造上、一度飛び込んでしまえば、死体は浮いてこないそうだ。とはいえ、死体を放って置くわけにはいかない。その対処が大変だという話である。この前は大坂の芸者と情夫が飛んだのだとか。牧水は気味が悪くなってくる。
馬車は進み、夏みかんの黄色い山がみえてくる。
馬車がとまり、牧水は降りる。大滝へ向かって歩き始める。馬車屋が道案内だといってついてくる。
大滝が見えた。なるほど、あれに飛んだら、木っ端微塵になる、と牧水は大声を出して笑う。滝の音が轟く。ここのところの雨で、滝の水量はましている。牧水は大滝の様子をこう描写する。
「時には岩を裂く樣に鋭く近く、時には遠く渡つてゆく風の樣なその響に包まれながら、茫然見て居れば次第に山全體が動き出しても來る樣で、言ひ難い冷氣が身に傅はつて來る」。
さらに、二人は滝壺を目指す。だが、滝壺に近づくにつれ、飛沫と風が強まる。滝に落ちそうな勢いだ。牧水は滝壺に到達するのをあきらめ、引き返す。
牧水は近くの寺のほうへ移動した。宿屋にいき、宿泊を頼んだ。だが、この時期は客が少ないので、宿泊を断っているといわれる。そこで、牧水はせめて酒をくれと頼む。
この女主人も急に、東京から来たのかと尋ねてきた。牧水はおやおや、と思った。そうだと答えると、二階にあがることになった。
二階の部屋から、大滝が正面にみえる。このくらい離れたほうが大滝はかえって美しくみえる。牧水はくつろいで、酒を飲む。牧水はここに一泊したくなった。そこで、再び宿泊を頼むと、了承された。
夕飯のとき、宿の嫁さんが笑いながら話しかけてきた。牧水の人違い騒動の詳細を教えてもらった。年齢や服装の似た洋酒屋の息子が東京から姿を消し、高野山から家に手紙をよこした。
これから紀州に向かうが、もう二度と会うことはないだろう、と。そこで、その若旦那の追跡が始まった。その人物には、当時にして50円という大金の懸賞金がつけられていたのである。
牧水は那智の大滝についても、次のような歌を読んだ。
・暮れゆけば 墨のいろなす 群山の 折り合へる奧に その瀧かかる
・起き出でて 見る朝山に しめやかに 小雨降りゐて 瀧の眞白さ
・朝凪の 五百重の山の 靜けきに かかりて響く 奈智の大瀧
晩秋の「木枯紀行」:旧友との暖かい語らいの旅
10月末、牧水は御殿場を出発した。旧友たちと会うために、旅に出たのだ。すでに非常に寒かった。曇り空の山道を、馬車を使ったり、歩いたりで進んでいった。だが、この頃の仕事疲れに、蕎麦屋での酒が加わり、眠くなる。
とうとう、あるところで、敷物をして眠ってしまった。すると、見知らぬ人に、風邪をひくよと起こされてしまった。彼とは途中まで一緒に歩いた。雨の中、河口湖近くの宿まで行き、そこに泊まった。
翌日、河口湖を船で渡った。紅葉が美しかった。この地域には井戸がなくて、水に困っているということも聞いた。
そのまま歩き、西湖に出た。近くに村があった。そこの店で酒と缶詰を買った。さらに、お店の人に、おむすびを握ってくれないかと頼んだ。承知してもらった。
そこから、牧水は青木ヶ原の樹海を歩いた。紅葉がところどころきれいだった。適当なところで、先程買った昼飯を食べた。晴れていたが、風が強い日だった。再び歩き始めて、森を出た。精進湖につき、モーターボートで湖を横切った。
翌日は峠を歩いた。紅葉の落ちた、じっとりした道だった。休憩しようと、ふと振り返る。すると、そこには富士山があった。すぐ近くまで来ていたのである。いかに高くそびえ、美しかったことか。
峠を降り、甲府駅についた。そこから汽車で小淵沢駅へ。そこに旧友が待っていた。一緒に宿屋にいき、盃を交わす。親しい友と久し振りに、しかも旅先で出逢って飲む酒ほどうまいものはない、と牧水はいう。牧水は「飲まぬ先から心は酔うてゐた」。
二人で飲んでいたところに、見知らぬ二人の来客がやってきた。地元の小学校の先生であり、宿帳をみて牧水の泊まっているのを知ったようだ。そこで、牧水らを訪ねてきた。四人で飲む。あまり盛り上がらなかったので、二人は帰っていった。
その日の夜中のことだ。牧水はぐっすり寝ていた。だが、宿の人に起こされた。連れの旧友が姿を消した、と。だが宿の施錠はされたままだった。みんなで彼を探す。
突然、階下で叫び声があがる。みな降りていった。すると、大きなランプ部屋で、さまざまなランプの吊り下げられた下に、旧友は泰然として坐り込んでいた。
翌朝、二人は出発した。しばらくして、牧水は爆笑して、旧友に理由を聞いた。だが、旧友はなぜそんなことをしたのか分からないとのことだった。
そのまま二人は八ヶ岳の野原を歩く。濃い雲が空を覆う。雨が振り始める。急ぎ足になる。だが、二人共ふかれていた。夕闇がみえ、深い霧がたちこめてくる。予定の宿まではまだ遠い。思わず、一軒の飲食店をみつける。そこに入る。
牧水たちは主人に宿泊を頼むと、承知してもらった。先客として、荷馬車ひきがいた。四人で囲爐裏の焚火を囲みながら、飯をくい、酒を飲んだ。
翌日、二人は出発する。昨日は濃霧で気づかなかったが、眼の前には富士山が堂々とした姿を現していた。
松原湖につき、近くの旅館に入る。そこに、数人の友人たちが合流する。夕方から凄まじい木枯らしが吹く。旅館の建物をも揺らす。だが、牧水らは歌や友などの話をして、寝た。
その心情を歌に詠んだ。
・無事なりき我にも事の無かりきと相逢ひて言ふその喜びを
・酒のみの我等がいのち露霜の消けやすきものを逢はでをられぬ
翌日も木枯らしだった。多くはキノコをとりにいった。牧水は一人だけ帰る友を見送りにいった。夜、友がキノコや芋などの戦利品をもちかえり、早速宴を始めた。その晩はなぜか笑いがたえなかった。笑いダケでも入っていたのか。
翌日も凄まじい木枯である。みんなで宿で歌を作る日となった。牧水は次のような歌を呼んだ。
・はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は
・ひと言を誰かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
翌々日、牧水はみなと別れ、千曲川の上流へ向かった。牧水はいう。「四五日賑かに過したあとの淋しさが、五体から浸み上つて来た」。「逢うてうれしや別れのつらさ逢うて別れがなけりやよい」。
翌日、牧水は千曲川に沿うて鹿の湯温泉にやってきた。そこで鯉の味噌焼を食べていた。急に裁判官や警察山林官の一行が押し込んで来た。そのため、牧水らは悪い部屋へと押し出されてしまった。その夜は温泉宿に泊まった。
その後も牧水は帰路を歩き続け、八ヶ嶽に戻ってきた。もう雪の季節になっていた。牧水は歌を読む。
・野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて来れば
・大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり
・わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し真白き野辺を
・昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ヶ嶽の山
とある居酒屋で、近隣の村に帰りがけの爺さんと一緒になった。この爺さんに案内を頼んで十文字峠を越えることになった。
その晩、ある宿に泊まった。そこはコタツがあったが、寒かった。夕飯の頃、台所でも夕食のようであり、賑やかである。牧水は一人での夕飯が寂しく感じられた。自分のお膳を持って、台所の明るい囲炉裏に行き、仲間に加えてもらった。
この宿では、馬を二頭飼っていた。しかも、厩でなく、馬を屋内の土間に飼っていた。牧水は愛らしい馬の眼を眺めながら、案外に楽しい夕飯を終えた。ここでも、歌を詠む。
・寒しとて囲炉裡の前に厩作り馬と飲み食ひすこの里人は
・まろく寝て眠れる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は
翌日、例の爺さんとともに、十文字峠を歩いた。そこには広大な森がひろがっていた。この森は国有だが、盗伐が後を絶たないという。その取り締まりのために、裁判官や警察らが最近やってきた。上述の一行がそれだった。
牧水は荒川の上流へ、そして秩父の三峰へとたどり着いた。その後、東京に戻っていった。こうして、旅は終わった。
酒の歌人
若山は酒を愛し、「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」などの短歌を詠んだ。また、『酒と歌』では次のように述べている。
「今まで自分のして來たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を作つて來た事だけの樣である。いま一つ、出鱈目に酒を飮んで來た事。
歌を作つて來たとはいふものゝ、いつか知ら作つて來たとでもいふべきで、どうも作る氣になつて作つて來たといふ氣がしない。全力を擧げて作つて來たといふ氣がしない。たゞ、作れるから作つた、作らすから作つたといふ風の氣持である。寢食を忘れてゐる樣な苦心ぶりを見聞きするごとにいつもうしろめたい氣がしたものである。
わたしは世にいふ大厄の今年が四十二歳であつた。それまでよく體が保てたものだと他もいひ自分でも考へる位ゐ無茶な酒の飮みかたをやつて來た。この頃ではさすがにその飮みぶりがいやになつた。いやになつたといつても、あの美味い、いひ難い微妙な力を持つ液體に對する愛着は寸毫も變らないが、此頃はその難有
液體の徳をけがす樣な飮み方をして居る樣に思はれてならないのである。
湯水の樣に飮むとかまたはくすりの代りに飮むとかいふ傾向を帶びて來てゐる。さういふ風に飮めばこの靈妙不可思議な液體はまた直にそれに應ずる態度でこちらに向つて來る樣である。これは酒に對しても自分自身に對しても實に相濟まぬ事とおもふ。
そこで無事に四十二歳まで生きて來た感謝としてわたしはこの昭和二年からもつと歌に對して熱心になりたいと思ふ。作ること、讀むこと、共に懸命にならうと思ふ。一身を捧じて進んで行けばまだわたしの世界は極く新鮮で、また、幽邃である樣に思はれる。
それと共に酒をも本來の酒として飮むことに心がけようと思ふ。さうすればこの廿年來の親友は必ず本氣になつてわたしのこの懸命の爲事を助けてくれるに相違ない」。
晩年
晩年は素朴で分かりやすい短歌を基調とした。そのため、広く人気を得た。現在も全国に数多くの歌碑が残っている。1928年に没した。
『別離』の短歌を紹介
春は来ぬ老いにし父の御ひとみに白ううつらむ山ざくら花
山脈や水あさぎなるあけぼのの空をながるる木の香かな
秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
別れ来て船にのぼれば旅人のひとりとなりぬはつ秋の海
秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の静けさに似て
秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人恋しけれ
若山牧水と縁のある人物
・ ・
若山牧水の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
若山牧水の紀行文『みなかみ紀行』の朗読の動画
若山牧水と縁のある人物
若山牧水の代表的な作品
『海の声』 (1908)
『独り歌へる』 (1910)
『別離』(1910)
『死か芸術か』 (1912)
『くろ土』 (1921)
『山桜の歌』 (1923)
おすすめ参考文献と青空文庫
島津忠夫『若山牧水ところどころ : 近代短歌史の視点から』和泉書院, 2013
見尾久美恵『若山牧水』笠間書院, 2011
※若山牧水の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person162.html)