宮沢賢治は大正と昭和初期の童話作家で詩人(1896―1933)。早くから文学に興味をもった。仏教や化学にものめり込んだ。童話や詩を制作し、雑誌や新聞で発表した。地域住民のために農業指導や文化活動を行いながら、作品の発表を続けた。だが、生前にはあまり高く評価されず、37歳で病没した。以下では、代表作のあらすじを交えつつ、その生涯をみていく。
宮沢賢治(みやざわけんじ)の生涯
宮沢賢治は岩手県の花巻で商人の家庭に生まれた。幼少期から、浄土真宗に親しんだ。また、自然を愛し、植物や鉱物の採集に熱中した。盛岡中学校に入り、哲学書や仏教書を読んだ。また、短歌を制作するようになった。
1914年に卒業した。この頃、島地大等(しまじたいとう)の『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』に感銘を受けた。その結果、熱烈な法華信者になった。
農学と化学と仏教と
1915年、宮沢は盛岡高等農林学校の農学科に入った。片山正夫の『化学本論』を読み、熱中した。特待生となるほど成績はよかった。また、学内の同人誌などに短歌を発表し、童話もつくった。
1918年、卒業した。同年、研究生となった。そのかたわら『双子(ふたご)の星』や『蜘蛛(くも)となめくじと狸(たぬき)などの童話をつくった。
1920年、田中智学(たなかちがく)の主宰する国柱会(こくちゅうかい)に入った。父親にも日蓮宗への改宗を迫ったが、失敗した。
1921年、無断で東京に移った。布教活動にいそしみながら、童話や短歌をつくった。妹が病気と知り、帰郷した。稗貫農学校の教員となった。
詩人や童話作家としての活躍
宮沢は教員として教えるかたわら、口語詩の制作を始めた。また、『岩手毎日新聞』や様々な雑誌に童話や詩を発表した。1923年頃には、「風の又三郎」をつくった。この作品のなかで、人里離れた山奥の小学校に転校生の高田三郎がやってきた。
同級生の子どもたちは彼を風の神の子供の「風の又三郎」なのかと疑い、恐れた。普段の授業や放課後、野原を駆け回り冒険する中で、子どもたちは三郎のことを風の又三郎だと結論づけるのか。
『注文の多い料理店』
1924年には、宮沢は童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』を自費出版した。『注文の多い料理店』のあらすじとして、山奥に二人の紳士が猟をしにやってきた。お腹をすかせた二人は、たまたま西洋料理店を見つける。
入ってみたところ、店側から次々と不思議な注文を出される。ついには、二人が山猫に食われそうになる、という物語。
「銀河鉄道の夜」
さらに、宮沢はこの時期に「銀河鉄道の夜」を一通り完成させた。実に実りの多い時期だった。ただし、没するまでに四回ほど改稿する。この作品のあらすじとして、星祭りの夜、貧しい少年ジョバンニは病床の母のために町へ牛乳を取りに行った。だが同級生に笑い者にされる。
天気輪の丘にいき、ふとうたた寝をする。そこから、銀河鉄道を親友のカムパネルラと旅する幻想の物語が始まる。しかし、最後にはカムパネルラを見失ったところで、夢から覚める。丘を下ってみると、カムパネルラが川で級友を救おうとして水死してしまったことを知る。
独自の地域活動へ
1926年、宮沢は教員を辞した。独居生活を始め、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を設立した。そこで地域の人々たちを相手に、農業指導(肥料改良など)などを行った。同時に、レコード鑑賞や合奏の練習、童話の読み聞かせなどの文芸活動も開始した。同年には、上京して、チェロやオルガンを習った。
帰郷後、上述の活動を続けた。詩や童話の制作も続け様々な雑誌や新聞で作品を発表した。だが、羅須地人協会の活動が官憲に疑いを持たれ、活動縮小を余儀なくされることもあった。また、1928年頃から、病で苦しむようになった。
1931年頃には病状がいくらか回復した。東北砕石工場で技師となり、販売に従事した。だが、無理をして、病状が悪化した。病床で日々を送ることになった。そのような苦境の中で、同年、「雨ニモマケズ」の手記を書いた。
その後は詩や童話などの制作や修正を行いつつ、雑誌などで発表を続けた。1933年に病没した。
1934年から『宮沢賢治全集』が公刊された。高村光太郎らのおかげで、宮沢賢治の作品は世に知られるようになっていった。
宮沢賢治の名作紹介
『注文の多い料理店』の冒頭部分
二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいておりました。
「ぜんたい、ここらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」
「鹿の黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞もうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」
それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
それに、あんまり山が物凄いので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく吠って、それから泡を吐いて死んでしまいました。
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。
はじめの紳士は、すこし顔いろを悪くして、じっと、もひとりの紳士の、顔つきを見ながら云いました。
「ぼくはもう戻ろうとおもう。」
「さあ、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうとおもう。」
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『セロ弾きのゴーシュ』の冒頭部分
ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしていました。
トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
ゴーシュも口をりんと結んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。
にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額に汗を出しながらやっといま云われたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっと拍ちました。
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『銀河鉄道の夜』の冒頭部分
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。
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「雨ニモマケズ」の全文
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
詩集『春と修羅』より、詩「春と修羅」
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路めぢをかぎり
れいろうの天の海には
聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろと光素エーテルを吸ひ
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに
(かげろふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす
(気層いよいよすみわたり
ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ
宮沢賢治と縁のある人物
●石川啄木:宮沢賢治の同郷の先輩。啄木も岩手県生まれで、盛岡中学校に通った。宮沢賢治より11期先輩である。自然や日常生活を主題とした多くの作品を残した。
宮沢賢治の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
おすすめ参考文献と青空文庫
倉橋健一『宮澤賢治 : 二度生まれの子』未來社, 2023
※宮沢賢治の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person81.html)