ダンテ・アリギエリ

 ダンテ・アリギエリは13世紀後半から活躍したイタリアの哲学者や詩人(1265 ー1321 )。博学であり、多様なジャンルで著作を残した。主著には、『神曲』などがある。当時のヨーロッパではラテン語で著述するのが一般的だったが、『神曲』はイタリア語で書かれた。それゆえ、ダンテは俗語文学への貢献も広く知られている。ボッカチオやペトラルカとともに、イタリア・ルネサンス文学の代表的人物の一人として知られる。

ダンテ(Dante Alighieri)の生涯

 ダンテはイタリアのフィレンツェで貴族の家庭に生まれた。父は同時に金融業も営んでいたが、裕福とは言えなかった。幼少期から修辞学と古典文法を学んだ。ブルネット・ラティーニに師事した。ダンテが成人した頃に父が没したため、その財産を相続した。

 文人としての成長:ベアトリーチェとの出会い

 ダンテは幼少の頃にベアトリーチェ・ポルティナーリと出会った。1283年に再開し、恋をした。だが、ベアトリーチェは1290年に没した。これがきっかけとなって、ダンテは『新生』を執筆した。本書は清新体派の代表的著作とみなされた。ダンテは清新体派の文人らと交流をもった。キケロなどの古典古代の文学に親しんだ。

 ダンテはイタリア語という俗語で叙事詩を制作する新たな流れに属し、その代表者となた。その始まりは1230年から1250年頃にかけての神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世のシチリア宮廷における詩人たちにみられた。

 次に、これは1250年代から1260年代にかけて、トスカーナの宮廷でギットーネ・ダレッツォを中心に発展した。さらに、1270年代から、ダンテらがこれをさらに発展させたのである。

 なお、ダンテ自身は父の定めた婚約者ジェンマと1285年に結婚した。

 フィレンツェ政治の舞台へ

 その頃から、ダンテはフィレンツェの政治に本格的に関わるようになっていった。13世紀後半、イタリアは統一国家ではなく、多くの都市国家が存在していた。フィレンツェはイタリアの都市国家の中でも最たるものだった。裕福で強力な国を自負していた。

 11世紀以来、それらの都市国家は神聖ローマ皇帝派たるギベリンとローマ教皇派のゲルフに分かれていた。それぞれの都市国家は規模が小さく、常に同盟者を必要としていたのである。教皇か皇帝を同盟者としながら、それらは相互に戦いを繰り広げていた。

 フィレンツェは13世紀後半には教皇派のゲルフ党になった。だが、この時代のフィレンツェが内政が不安定だった。この教皇派の中でも、対立が生じるようになったのだ。すなわち、フィレンツェの自律を求める白党と教皇との連携強化を求める黒党が対立していた。これに、フィレンツェ名門貴族同士の対立が連動していた。だが、白党が一時的に勝利し、黒党を追放した。

ダンテの政治キャリア

 1295年、ダンテは貴族として政治に参加すべく、医薬ギルドに入った。さらに元老や、百人評議会のメンバーなどの要職に選ばれた。かくして、フィレンツェの公的生活に積極的に参加した。

 その頃、1294年、ボニファティウス8世が教皇に即位した。この頃、教皇は世俗的な領土をもつ世俗君主でもあった。ボニファティウスは領土拡張主義の方針を秘めていた。

 フィレンツェへの影響力を強めようともした。1300年、ダンテは使節としてサン・ジミニャーノに派遣された。教皇の野心に対抗すべく、教皇派の諸都市を同盟させるためだった。

 だが、教皇はフランスのシャルル・ド・ヴァロワと結託し、フィレンツェの内政に干渉した。ダンテは教皇のもとに特使として派遣されることになった。このタイミングで、教皇はダンテを拘束した。その頃、シャルルの軍がフィレンツェへの入国に成功した。追放されていた教皇派の黒党がフィレンツェに帰還した。黒党がフィレンツェの実権を握るに至る。

 1302年、ダンテはこれらの陰謀により、その職務を追われた。欠席裁判のまま、逮捕されれば火刑に処されることが決定された。

 晩年:知的な成熟期

 これ以降、ダンテは放浪生活を強いられた。帰国を試みたが、失敗した。それでも、この時期はダンテにおいて学問的な成熟期だった。たとえば、『饗宴』や『俗語論』のような優れた著作を執筆した。ただし、これらは未完成である。

 『俗語論』では、文学作品をラテン語ではなくイタリア語のような俗語で制作すべきと論じた。ダンテは当時のラテン語が人工的な言語となっていたので永続的で不変なのにたいして、俗語は常に慣習によって変化し、改善されると述べた。

 そのうえで、俗語を文学作品に使用できるレベルに改良するよう訴えた。これらの著作はイタリア語による俗語での文学や学識の発展に貢献した。

 他方で、ダンテは『帝政論』を公刊した。これは上述の神聖ローマ皇帝と教皇の対立を背景としていた。同時に、かつて教皇派だったダンテが教皇に裏切られた苦い経験をも背景としていた。

 本書は神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに進出したのをきっかけとした。そこでは、皇帝の権力が神意や摂理にそうものであり、ローマ教皇の権威に由来も依存もしない自律的なものであると論じた。同時に、教皇が本来の自身の職権を超えた行動にでているとして、教皇を批判した。

『神曲』

 最晩年には、ダンテは代表作の『神曲』を完成させた。本書は抒情詩であり、100の歌で構成されている。ダンテが地獄と煉獄および天国を遍歴する物語になっており、地獄編と煉獄編および天国編の三部構成である。

 各編が33歌で構成されており、冒頭に1つの歌が挿入されているので、全部で100の歌となる。均整の取れた構成をもつため、この作品自体が大聖堂に例えられてきた。関連する分野は文学や哲学、神学など多岐にわたっており、中世の百科全書のような書といえる。

 物語としては、ダンテ自身が復活祭の日に地獄へと迷い込むことから始まる。古代ローマの著名な詩人ウェルギリウスに地獄を案内される(当時、ウェルギリウスの『アエネアス』はラテン語の文法や詩の模範的な書物と考えられていた。ウェルギリウスを案内人に選ぶことで、ダンテは自身が古典的作品を生み出したことを自負した)。

 この作品では地獄編が特に有名である。ここでは、教皇や聖職者などが責め苦にあえぐ姿が描かれる。たとえば、上述の教皇ボニファティウス8世もまた地獄に堕ちたものとして描かれている。ダンテは地球の中心までおりた後、煉獄の山に達する。

 そこから先は地上楽園である。ここからはベアトリーチェが案内人となり、天国の至高天まで導かれる。その先は中世の著名な修道士の聖ベルナールが案内人となる。最後は天上の純白の薔薇をみる。ここに、カトリックの三位一体の神秘をみて、魂が浄化される。

 1321年、病没した。

 ダンテと縁のある人物

ペトラルカ:ダンテとともにイタリア・ルネサンス文学を代表する詩人。ダンテより一世代ほど後に生まれ、14世紀に活躍した。

ボニファティウス8世:ダンテを逮捕し亡命生活を余儀なくさせた教皇。中世のローマ教皇の中でも有名な人物の一人。その壮絶な最期もまたよく知られている。

ダンテの肖像画

ダンテ 利用条件はウェブサイトで確認

ダンテの主な著作・作品

『新生』 (1293)
『饗宴』 (1304ー7)
『俗語論』 (1304ー7)
『帝政論』(1310)
『神曲』(1321完)

おすすめ参考文献

原基晶『ダンテ論 : 『神曲』と「個人」の出現』青土社, 2021

野上素一『ダンテ』清水書院, 2016

Manuele Gragnolati(ed.), The Oxford handbook of Dante, Oxford University Press, 2021

Christopher S. Celenza, The intellectual world of the Italian Renaissance : language, philosophy, and the search for meaning, Cambridge University Press, 2018

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