フランシス・ベーコンはイギリスの哲学者で政治家(1561ー1626)。哲学者としては、『ノウム・オルガヌム』などを著して経験論の先駆者となり、科学革命を牽引する役割も担った。政治家としてはジェームズ1世のもとで大法官にまでのぼりつめるほど成功した。人智によって自然を支配しようとする文脈で、「知は力」の名言でも知られる。
以下では、まずベーコンの政治的キャリアを説明し、その後に学問的功績をみていく。
ベイコン(Francis Bacon)の生涯
ベーコンはイギリスのロンドンで政府高官の家庭に生まれた。父のニコラス・ベーコンは国璽尚書をつとめた。母の従兄弟には、イギリスの宮廷で要職を担ったロバート・セシル伯爵がいた。
ベーコンはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだ。同時に、のちにカンタベリー大主教になるジョン・ホイットギフトを家庭教師につけられた。
キケロやリウィウスなどの古典古代の著作を読んだ。その後、パリに渡った。だが、1579年、父が没したので、ロンドンに戻った。
公的活動
ベーコンが相続した遺産は多くなかった。そのため、経済的基盤を確立し、公職に進もうとして、法律の道に進んだ。
1584年から、下院議員として活動を開始した。ベーコンは1617年までこれを続けることになる。また、弁護士にもなり、1587年にはグレイズ・インに職をえた。そのかたわら、学問にも関心を深めていった。
当時のイギリスの宗教問題への関与
下院議員としては、当時のイギリス(イングランド)での宗教問題に対処しようとした。16世紀後半のイギリスは宗教的には不安定な時期にあった。
そもそも、イギリスは16世紀前半にヘンリ8世によってプロテスタントの国になった。次のメアリー1世がイギリスをカトリックの国に戻し、プロテスタントを迫害した。
その後、イギリスはプロテスタントに戻された。16世紀後半、エリザベス1世が即位し、イギリスをプロテスタントの国として確立していく。
エリザベスは当初、穏健的で中道的な宗教政策を推進した。1560年代、隣国のスコットランドもまたプロテスタントの国になり、カトリックのスコットランド女王メアリー・スチュワートと対立した。
メアリーはエリザベス1世の従姉妹である。メアリーはついにスコットランドのプロテスタント諸侯に敗北し、イングランドに亡命した。長らく、イングランドで幽閉された。
メアリー女王とイギリスのカトリック貴族がエリザベスへの反乱を企てた。これは鎮圧された。メアリーの処遇をめぐって、イギリス王権のもとでは議論が活発になされた。
最終的に、メアリーは処刑された。これが一因となって、スペインはイギリスと戦争を行った。いわゆるアルマダの海戦である。イギリスがこれに勝利し、どうにかこの危機を乗り越えた。
このようにイギリスでカトリックが宗教と政治の大きな問題になっている時期に、ベーコンはこの問題に積極的に関与した。たとえば、マリーの処刑を支持する立場として活動した。
失意のベーコン
だが、1590年代前半、ベーコンは王権への議会の補助金の問題で、エリザベスの不興を買った。この時期、エセックス公がベーコンの後見者だったが、王権に反乱を起こした。よって、ベーコンは重要な支持者をも失った。
かくして、ベーコンは政治的キャリアで頓挫した。政界を引退して学者になることも考えた。
ジェームズ1世の治世へ
1603年、エリザベス1世が没した。スコットランド王ジェームズ6世がイギリス王のジェームズ1世として即位した。これがベーコンの政治的キャリアの転機となった。
ベーコンはジェームズに重用してもらえるようアピールを開始した。これに成功した。1603年にはナイトに叙爵された。1604年には、法律顧問に任命され、議会に出席した。
ベーコンの政治的活躍
ジェームズ1世はイギリス(イングランド)とスコットランドの合同を目指した。カトリックとピューリタンにたいしても、中道的な宗教政策をとろうとした。ベーコンはこれらのために議会で尽力した。
ジェームズはイギリス王に即位したのち、しばしば議会と対立していた。王と議会やコモン・ローとの関係などが争点となっていた。ベーコンはこの対立にかんして、議会でジェームズのために尽力するようになった。
1613年には、司法長官に任命された。さらに、1617年には国璽尚書に任命された。かつての父と同じ地位になった。1618年には、ついに大法官にまでのぼり詰めた。かくして、ベーコンはジェームズの治世に政治家として大成した。
学者としての成功:『ノヴム・オルガヌム』
政治家として活躍するかたわら、ベーコンは研究活動も行っていた。1605年には、『学問の進歩』を著し、ジェームズに捧げた。旧来のアリストテレス理論を刷新するベーコンの試みの始まりだった。1609年には『古代人の知恵』を著し、人気を博した。
1620年、『ノヴム・オルガヌム』を公刊した。これは『学問の進歩』につぐ刷新のための著作であり、ベーコンの主著として知られる。ベーコンの批判対象は古典古代の学者と、彼らに従うルネサンスの学者である。
ただし、ベーコンは古代の学者のなかでも、デモクリトスは原子論にかんして高く評価している。そのため、ベーコンは古典古代の知識が古いから時代遅れだという批判を行っていたわけではない。
ベーコンは主にアリストテレスの演繹法を批判して、実験的方法と帰納法を提案した。また、本書は市場のイドラや劇場のイドラのようなイドラ論でも知られる。ベーコンはイギリス経験論の始まりとされる。
ベーコンの経験論
ベーコンは伝統的な学問の欠陥として、様々な具体的事例の収集を軽視し、あまりにも拙速に自然的現象の根本的原因にかんする一般法則をつくりだそうとすることを指摘した。少数の事例のみを根拠として、最も根源にある一般法則へと飛躍しようとしてきた、と。
ベーコンはこの伝統的な学問の問題を、多数の具体的事例を収集することで乗り越えようとした。すなわち、帰納法である。感覚的事実(見たり聞いたりできる事柄)を多く収集して、そこから少しずつ一般理論を導くのである。
その際に、どのような事例を集めればよいのか。
帰納法
ベーコンはありふれた些細な事例こそ収集すべきと論じる。反対に、特異で例外的な事例を収集すべきではないとは言わないまでも、そのような事例の収集には注意が必要だという。
特異な事例とは、たとえば、通常の肉体的あるいは知的能力の人間ではなく、天才的な知的能力や並外れた腕力の人間などの事例である。特異な事例は印象が強い。だが、そのような特異な事例に引きづられて自然にかんする一般法則を導いてはならない。
そのかわりに、自然界で定期的に生じ、当たり前のように観察される事例こそ収集すべきだとベーコンはいう。このようなありふれた事例を多く集めて、暫定的に一般的な法則を導く。その法則を念頭に置きながら、さらに具体的事例を集めていく。このようにして学問を発展していく。
帰納から演繹へ、そして帰納へ
実のところ、ベーコンは単純に演繹法を否定していたわけではない。上述のような仕方で、帰納法を通してより一般的な公理が導かれる。
より一般的な公理から、新しい予測が演繹的に導出される。この予測を確かめるための実験が行われる。かくして、再び帰納法が使用される。このようにして根本的な法則が経験的に確証されることで、その確実性が高まる。
実験主義
帰納法において、ベーコンは体系的な実験の重要性を訴えた。ただの観察ではなく、実験などの操作と適切な観察が重要だと論じた。この点もベーコンの重要な貢献の一つである。
単なる観察との違い
広い意味での帰納法は自然の事物をあるがままに観察し、観察データを集めるというやり方を含んでいる。たとえば、海を訪れて、そこに塩の個体ができているのを観察することだ。塩が海(の塩田)に自然と出来上がっているのを観察する。
ベーコンはこのように事物を自然にあるがままの状態でただ観察することを帰納法の手法として推奨していない。なぜか。
ベーコンの帰納法としての観察は、あくまで一般理論の構築やその確かさの検証の手段である。そのため、観察するにしても、一般理論に重要そうな部分を観察しなければならない。
実験:科学的操作と観察
そのために、ベーコンは実験という方法を提案した。自然的な事物を自然にあるがままの状態ではなく、因果関係の特定に役立つような状態に置く。そのために、自然的な事物を操作する。操作したうえで、観察を行う。
この一連の科学的な操作と観察は、端的にいえば実験である。今日の実験室での実験で行われていることである。科学的な操作の一例は、因果関係を特定するために、関係のなさそうな要素を排除することである。
このような手法は今日の実験科学では当たり前のものである。だが、帰納法を提唱し普及させようという段階においては、画期的な試みだった。
このように、ベーコンの経験論的なアプローチは事物を自然にあるがままの状態で観察することではない。実験や比較などを通して、個々の事例の重要そうなデータを特定して収集する。それらを積み重ねることで、一般的な公理を導出する。
その公理から新しい実験などを演繹的に導出する。実験などの帰納法で、一般的な公理を基本的な法則へと引き上げていく。このような一連のプロセスである。
生のデータと研究ノートの重要性
具体的事例の観察や実験のデータはメモをとるなどして管理されるべきだとベーコンは主張する。記憶力だけでは限界がある。もっとも、記憶術を改良するのも一つの手だろう。
だが、適切な表や目録、分類、適切な概念の創出などを利用しながらも、しっかりとノートに書くことが推奨されている。
ここでも、ベーコンは伝統的な学問の問題を指摘する。ベーコンによれば、伝統的な学者たちもまたノートをとって情報を収集していた。だが、それらの情報をもとにした研究成果を公刊した後、ノートやメモの詳細な記録を無価値だと考え、それらを公にしなかった。
ベーコンはこの生のデータにたいする伝統的な無関心を問題視した。
さらに、ベーコンは批判を続ける。彼らは拙速に導出した一般法則に反するような生のデータが現れても、自身のうみだした一般法則に固執した。
それゆえ、ベーコンからすれば、ノートは多数の具体的事例から一般法則を導出するために重要であるだけでなく、それを修正し更新するためにも重要である。
ここから理解されるように、ベーコンは生のデータや事実をただ集めて列挙することを目的にはしていなかった。あくまで、それらはより一般的な理論の構築の材料であった。
研究(者)の組織化
その他に、ベーコンは事実に関する経験的・実験的調査を単独ではなく学者たちが共同で行うことを推奨した。彼らが膨大なデータを収集する。それを体系的に利用して、帰納的に結論をくだす。
そうすることで、学術的な知識はより確かなものになっていき、学問は発展していく。
そのために、ノートの取り方などの形式を共通にする工夫が求められる。ノートは研究の成果を他人に伝えたり、あるいは別の事象に適用したりするためにも重要である、と。
また、研究者の組織化は科学を人類の役に立てるというベーコンの目的にとっても重要であった。
ベーコンによる共同の経験的研究の組織化の提言はほどなくしてイギリスで定着していく。
晩年
1621年、ベーコンは汚職事件により、罰金や公職の剥奪などの罰を受けた。これは政敵により仕組まれたものだった。かくして、権力の座から急落した。その後、著述活動に専念した。1626年に病没した。
ベーコンの名言
●「反論したり反駁したりするために読むのではない。信じたり当然視するためでもなく、話や談話を見つけるためでもない。吟味し考察するために読むのだ。」
“Read not to contradict and confute; nor to believe and take for granted; nor to find talk and discourse; but to weigh and consider.”
●「賢い人は、見つけた機会よりも多くの機会を作り出すものだ」
“A wise man will make more opportunities than he finds.”
●「今、やりたいことを始めなさい。私たちは永遠に生きているわけではない。私たちには今この瞬間しかない。私たちの手の中で星のように輝き、雪のように溶けていく、この瞬間だ。」
“Begin doing what you want to do now. We are not living in eternity. We have only this moment, sparkling like a star in our hand and melting like a snowflake.”
●「ある本は味わうべきものであり、ある本は飲み込むべきものであり、ある本は噛み砕いて消化すべきものである」
“Some books are to be tasted, others to be swallowed, and some few to be chewed and digested.”
●「お金は肥料のようなものであり、撒いてこそ価値がある。」
“Money is like manure, its only good if you spread it around.”
●「神が無神論を納得させる目的で奇蹟をもたらしたことはない。なぜなら、彼の通常の働きがそれを納得させるからである。たしかに、 人の心は哲学をかじったぐらいでは無神論に傾くものだが、哲学にどっぷりと浸かれば宗教に近づく」
“God never wrought miracle to convince atheism, because his ordinary works convince it. It is true, that a little philosophy inclineth man’s mind to atheism; but depth in philosophy bringeth men’s minds about to religion.”
ベーコンと縁のある人物や事物
●ロバート・ボイル:ボイルの法則で知られる科学者。イギリス経験論の発展で重要な役割を果たした。ベーコンの科学的な提言はどのように結実していったのか。
●エリザベス1世:イギリス女王。ボイルが人生の前半で仕えた女王。この時代、イギリスは国際的に難しい立場に立たされていた。ベーコンはどのような状況で政治家としての腕をみがいていたのか。
ベーコンの肖像画
ベーコンの主な著作・作品
『学問の進歩』 (1605)
『ノウム・オルガヌム 』(1620)
『新アトランティス』 (1627)
おすすめ参考文献
加賀裕郎, 新茂之編『経験論の多面的展開 : イギリス経験論から現代プラグマティズムへ』萌書房, 2021
石井栄一『ベーコン』清水書院, 2016
Anthony J. Funari, Francis Bacon and the seventeenth-century intellectual discourse, Springer, 2011
Richard Yeo, Notebooks, English virtuosi, and early modern science, The University of Chicago Press, 2014