レオナルド・ブルーニはイタリアの人文学者で政治家(1370年頃ー1444)。イタリア・ルネサンスの主要な人文学者の一人として知られる。プラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャ作品をラテン語に翻訳し、ルネサンスの発展に寄与した。また、フィレンツェで活動するようになり、フィレンツェの政治に関する著作も残した。
ブルーニ(Leonardo Bruni)の生涯
ブルーニはイタリアのアレッツォで生まれた。
フィレンツェのルネサンス
1390年代、フィレンツェではルネサンスの発展で重要な契機が生じた。ビザンツ帝国の外交官クリソラスがフィレンツェに到来し、フィレンツェ人にヘレニズム文化への関心を惹起したのだ。
彼はサルターティらを刺激し、フィレンツェ大学にギリシア語教育のための講座を設立させた。
この時期に、ブルーニもまた大学で学んでいた。当初、法学を学んでいた。だが、クリソラスらの影響を受けて、ギリシャ語に転向した。プラトンやホメロスらに惹かれたためだ。
もちろん、ブルーノはラテン語も学んだ。このようにして、人文学者としての基礎を固めた。
1405年、師のサルターティの勧めで、ブルーニはプラトンの『 パイドロス』を翻訳した。
教皇庁でのキャリア
1405年、ローマに移った。当時の教皇インノケンティウス7世の秘書に登用された。
コンスタンツ公会議への参加
この時代、ローマ教皇庁はいわゆる教会大分裂の解消に取り組んでいた。教会大分裂というのは、教皇を自認する人物が同時に複数人存在する状態を指す。
教皇はカトリック教会の頭だとみなされていたので、教皇は同時に一人だけでなければならなかった。だが、教会内部の政争により、14世紀後半から教皇を自認する人物が同時に複数現れた。
その教会大分裂を解消すべく、1414年からスイスでコンスタンツ公会議が開かれた。教皇ヨハネス23世がこれに参加した。ブルーニも秘書として彼に同行した。
ブルーニは教会大分裂という教会の大混乱が収束していくのを目の当たりにした。同時に、宗教改革の先駆者ヤン・フスへの断罪や処刑が決定されるのもみた。
ブルーニは次の教皇マルティネス5世の秘書も引き続きつとめた。
フィレンツェへの帰国
1427年、ブルーニはフィレンツェに戻ってきた。そこでは、書記官長に任命された。最晩年には、コジモ・デ・メディチがフィレンツェの実権を握るようになり、フィレンツェは本格的にルネサンスの時期に入っていった。1444年、ブルーニはそのような時期に、フィレンツェで没した。
人文主義の活動:翻訳
以上のような職務をこなすかたわら、ブルーニは人文学者としても活動した。たとえば、プラトンの『パイドロス』やアリストテレスの『ニコマコス倫理学』などのギリシャ語文献をラテン語に翻訳し、紹介した。
ブルーニは翻訳者としての仕事の重要性を自負していた。その際に、ただ単にギリシャ語の意味を正確に理解してラテン語にするのでは不十分だと考えた。
絵画的な表現ではあるが、その著作の線や色彩を把握した上で、その効果をも伝えるのが翻訳だと考え、実践しようとした。
さらに、イタリア・ルネサンスの文豪のボッカチオやダンテ、ペトラルカの伝記をイタリア語で著した。
ちなみに、フィチーノがフィレンツェでプラトン・アカデミーを主催するのは、ブルーニの死後すごし経ってからである。
プラトンについての評価
ブルーニは古代ギリシャの代表的な哲学者プラトンについてこう称賛している。プラトンの著作以上に知恵をもち雄弁なものはないだろう。
ブルーニはプラトン著作を翻訳する前からプラトンを愛していたが、翻訳することでより深く理解し、愛が深まったという。そのため、その翻訳を依頼したサルターティには心から感謝しているほどだ。
プラトンは最高の論じ方をしており、最も深い繊細さを持っている。その実り豊かで神聖な感情が対話者へと驚くほど心地よく、並外れた言葉の力で伝えられる。 彼の言葉には、最も優れた能力と優美さがある。
まるで、言葉とその法則を自在に操ることのできる人間によって語られているかのようだ。プラトンは道徳についてただ教えるだけでなく、受け入れたくなるような魅力的な仕方で論じている。ブルーニはプラトンをこう絶賛していた。
フィレンツェにかんする政治理論:共和主義
他方で、ブルーニは政治にも深い関心を抱いていた。フィレンツェの共和主義を賛美するとともに、推進しようとした。
たとえば、1403年の『フィレンツェ市の賛美』である。本書において、ブルーニはフィレンツェ人についてこう論じている。
フィレンツェ人の先祖はローマ人である。ローマ人は全世界の支配者であり、征服者である。 全世界でローマ人ほど傑出し、強大で、あらゆる面で卓越した民族がいただろうか。否、いない。
そのローマの富や偉大さそして世界的な覇権がフィレンツェ人に相続された。
ここで重要なのは、ローマの最も偉大な時期が帝政ではなく共和制の時代だとされていることである。ローマがそれほどまでに発展したのは共和制の自由の時代だったとブルーニはいう。
中世においては、むしろカエサル以降の帝政の時代こそローマの絶頂だとする意見が優勢だった。そのため、ブルーニはこの流れに反して、ローマの共和制を賛美した。
ブルーニはいう。自由こそがローマを発展させた。自由が美徳を可能にし、よって栄光を可能にした。よって、自由の終わりこそ、ローマの衰退の始まりだった。ローマ共和国が一人の頭に服従するようになり、没落していった、と。
ブルーニは1420年代以降も同様のテーマを論じた。正しい国の制度とはなにか。それは、自由がたしかにあり、法的平等がすべての市民に等しく与えられ、美徳が追求されるような制度である。それは共和制のもとでしかありえない。
ブルーニは自分たちのフィレンツェがそのような制度を実現しているという。たとえば、フィレンツェの制度のもとでは、多数派が判断の誤りを正し、短い任期が横暴を抑制するようになっている。
ちなみに、今日では、このような共和制の理論は政治的人文主義と呼ばれている。
ブルーニと縁のある人物
●マルシリオ・フィチーノ:イタリアの哲学者。イタリア・ルネサンスの代表者の一人。フィレンツェでメディチ家に支えられながら、プラトンなどの古典古代の著作の翻訳と研究を行った。プラトン・アカデミーで知られる。
●ピーコ・デラ・ミランドラ:イタリアの哲学者。フィレンツェで活躍したイタリア・ルネサンス代表的な人文学者。代表作には『人間の尊厳について』がある。
●コジモ・デ・メディチ:15世紀イタリアの政治家で銀行家。当時のフィレンツェでメディチ家を大いに発展させた。アメリゴがそもそもスペインの支店に派遣されるには、メディチ家の発展が必要だった。コジモのメディチ家はどれほど栄華を極めていたのか。
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ブルーニの肖像画
おすすめ参考文献
池上俊一監修『原典イタリア・ルネサンス人文主義』 名古屋大学出版会, 2010
Christopher S. Celenza, The intellectual world of the Italian Renaissance : language, philosophy, and the search for meaning, Cambridge University Press, 2018
James Hankins(ed.), The Cambridge companion to Renaissance philosophy, Cambridge University Press, 2007