シモン・ボリバルはベネズエラの軍人で政治家(1783ー1830)。スペインからのラテンアメリカ植民地の独立の立役者の一人として知られる。コロンビア共和国の大統領(1819 ー1830 )でもあった。
ラテンアメリカの解放者とみなされる一方で、権威主義的な独裁者としても振る舞い、中南米の人民同士の戦いをも引き起こした。よって、ラテンアメリカのために命を賭けて戦った勇士として単純に描くことはできない人物である。
シモン・ボリバル(Simón Bolívar)の生涯
ボリバルはベネズエラのカラカスでクレオール貴族の家庭に生まれた。両親を早くになくし、叔父によって育てられた。家庭教師のもとで学んだ。その一人のシモン・ロドリゲスから大きな影響を受けることになる。
18世紀末、ボリバルはスペインに留学のために移った。3年間を費やし、妻を娶ってベネズエラに戻った。
フランス留学:ナポレオンの戴冠式
1804年、ボリバルは留学のためにパリに移った。そこで、上述のシモン・ロドリゲスのもとで再び学んだ。
このときに、ヨーロッパの様々な思想を、特に啓蒙思想を学んだ。たとえば、ジョン・ロックやトマス・ホッブズ、ダランベール、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソー、エルヴェティウスの著作に刺激を受けた。
この時期、フランスは1789年のフランス革命の流れにあった。周辺国がフランス革命を妨害すべくフランスと干渉戦争を始めた後、ナポレオンが軍人として頭角を現した。
ナポレオンは周辺国の軍隊を追い返すのみならず、周辺国への反転攻勢に成功した。かくして、フランスで人気を高めていった。
ボリバルの滞在した1804年は画期的な年だった。フランスでナポレオンが皇帝ナポレオン1世に即位し、フランスを共和制から帝政に移行させたのである。ナポレオンは皇帝としての箔をつけるために、戴冠式を行った。
わざわざ神聖ローマ帝国の慣例を模倣して、教皇を呼び寄せて行ったのである。この戴冠式は絵画にもなっている。ボリバルはこの戴冠式を実見した。
フンボルトとの出会い:独立への刺激
パリ滞在中、ボリバルはドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトとも会った。フンボルトは1799年から中南米で科学調査を行った後、パリに移っていた。フンボルトはスペインによる中南米植民地支配を不正だと考えていた。
そこで、フンボルトはベネズエラからきたボリバルにたいして、スペインからの中南米の独立の時が来たと述べたようだ。すなわち、ボリバルはフンボルトから中南米独立のための刺激をえた。
ベネズエラの独立革命へ
ナポレオンが上述の周辺国との戦争の一環として、スペインとの戦争を行っていた。そのため、中南米のスペイン植民地はこれを好機とみて、独立戦争を開始した。
ベネズエラでは、1810年、スペインから派遣されていた総督が追放され、独立戦争が始まった。ボリバルはイギリスの支援を求め、ロンドンに赴いた。だが、イギリスはフランスを封じ込めるためにスペインと協力関係にあったので、失敗した。
1811年、ベネズエラのカラカスで国民会議が開かれた。憲法が起草され、ベネズエラの独立が宣言された。
だが、スペインはこれを認めなかった。そのため、スペイン軍の攻撃にあい、ベネズエラの内部対立が生じた。ベネズエラの革命政府は休戦条約の締結に至った。
解放者ボリバル
しかし、ボリバル自身は戦争をやめるつもりがなかったので、ニュー・グラナダに逃れた。そこで、『カルタヘナ宣言』を公にした。
そこでは、アメリカの人民の結合が自分たちの運命の第一法則であるとした。スペインを中南米から追い出すために、革命勢力の結集を呼びかけた。
新たに生まれた自分たちの国の原則は正義と平等でなければならず、ともに団結して力強い国をつくろうと訴えた。
ボリバルはニュー・グラナダで義勇軍を組織し、ベネズエラ遠征を行った。どうにか勝利を重ね、1813年、カラカスを奪還した。そのため、「解放者」の称号を得た。
大コロンビア共和国の誕生へ:大統領
だが、ベネズエラで内戦が始まった。独立反対派が多かったためだ。そのような中で、ボリバルはスペイン軍に敗北し、再びニュー・グラナダに逃れた。さらにジャマイカに移った。
ボリバルはイギリスの支援を獲得しようとして、『ジャマイカからの手紙』を公にした。中南米の植民地をスペインから解放し、立憲主義の共和制を樹立するというビジョンを打ち出した。
その後、スペインとの戦いは一進一退だった。だが、ついに1819年、ボリバルが優勢に立ち、大コロンビア共和国の樹立を宣言した。これは現在のベネズエラとパナマ、コロンビア、エクアドルを結びつけた国だった。ボリバルは自ら初代大統領になった。
とはいえ、ベネズエラの多くの住民などはスペインの憲法と議会への服従を望んでおり、ボリバルの新国家の樹立を望んでいたとはいいがたかった。そのため、ボリバルは引き続きベネズエラなどの征服を続ける必要があった。
ベネズエラやエクアドルそしてペルーなどのスペインからの実際の解放は1822年になって完了した。新たな征服地域では、ボリバルは議会の同意なしに決定をくだす絶対君主のようにふるまった。
ボリビアの誕生
ペルーはまだスペインの植民地だった。そこで、1822年から、ボリバルはペルー解放を企てた。1824年、これに成功した。
さらに、残されたスペイン植民地の解放も終わらせた。1825年、この地は新たな国として誕生し、彼の名前にちなんでボリビアと名付けられた。
ボリバルはポピュリストとして人民の賛同を広く獲得する一方で、貧困層の政治参加を恐れた。貧困層には規律がないので、彼らが政治に参加すれば、混沌に巻き込まれてしまうと警告した。
解放後の混乱とボリバル主義
1826年、ボリバルはパナマ会議を開催した。いまやスペインから解放された国々の一致団結と共同防衛を図ろうとした。この際、北米のアメリカ合衆国をそこに桑用途はしなかった。
このようにアメリカ合衆国なしのアメリカ諸国の団結を推進する運動はボリバル主義と呼ばれている。
ボリバルの訴えにもかかわらず、それらの国々はすぐに仲違いを始め、戦争が起こるようになった。
他方で、ボリバルはそれらの国々で大統領や独裁者として統治しており、その権限を強化しようとしていた。リベラルな政体を求めるグループがこれに反対した。ボリバルへの暗殺を企てたが、失敗した。政情は混沌としていった。
最晩年の失意と死
この時期になると、ボリバルはかつて中南米の独立に抱いていた期待や希望をもはや失っていた。
そもそも、中南米は独立革命を開始した頃、自信に満ち溢れていた。当時の中南米の考えでは、宗主国のスペインがあるヨーロッパはもはや古い陋習にとらわれた時代遅れの地域とみなされた。
たしかに、かつてはヨーロッパはアメリカの教師だったが、いまや生徒が教師を追い越す。自由と愛国心とはなにかをアメリカ大陸がヨーロッパに教える番だ、と。
スペインは野蛮な奴隷制度を強要する古い国であり、中南米の新たな国は自由と共和制の象徴であると公言するようになった。
しかし、ボリバルは上述のような政治的混乱を経験した後、中南米を無政府状態と混沌そして腐敗とみなした。その新しい国々とその共和制の失敗に嫌悪感と絶望感を抱くようになった。
ボリバルからすれば、中南米はもはやヨーロッパを超えて近代に向かって前進しているのではなく、封建領主に支配された中世の時代に逆行していた。
このままでは中南米はさらに逆行し、原始的なカオスの状況に陥ってしまう。近代化によって世界の模範になるどころか、世界の笑いものになってしまう。
ボリバルはいう。中南米の 「革命に奉仕する者は海を耕すようなものである」。それほど、中南米の独立運動の展開には絶望した。この絶望感は中南米の知識人に共有されることになる。
このような状況で、大コロンビア共和国が解体した。ボリバルは失意のうちに病没した。
シモン・ボリバルの肖像画
おすすめ参考文献
永野善子編『植民地近代性の国際比較 : アジア・アフリカ・ラテンアメリカの歴史経験』御茶の水書房, 2013
John Lynch, Simón Bolívar : a life, Yale University Press, 2007
David Bushnell(ed.), Simón Bolívar : essays on the life and legacy of the liberator, Rowman & Littlefield Publishers, 2008