ヘンリー8世はイギリス(イングランド)の国王(1491ー1547)。子供ができないことを理由に王妃と離婚しようとした。だが教皇の許可がえられなかった。離婚問題により、イギリスの宗教改革を引き起こした。この記事では、ヘンリー8世の宗教改革の性質や重要性についてもみていく。
ヘンリー8世(Henry VIII)の生涯
ヘンリー8世はヘンリー7世の二男として生まれた。兄のアーサーが夭折した。1509年、父も没したので、ヘンリー8世として即位した。亡き兄は、フランスとの敵対関係の中で、イギリスとスペインの友好関係のために、アラゴンのキャサリンと結婚していた。ヘンリー8世はこのキャサリンと結婚した。
若い頃から、ルネサンスに興味をいだいていた。そのため、たとえば、オランダの著名な人文主義者エラスムスと交流をもった。
ヘンリー8世の治世
ヘンリー8世は国家的威信を高めようとして、大陸に関与した。1513年にはフランスに進軍したが、結果的にはうまくいかなかった。1522年から、再びフランスに攻め込んだが、これも失敗した。これらの戦争がイギリス財政の重荷になった。
政治的な実務をトマス・ウルジに任せていた。ウルジは平民出身の司祭だった。彼を大法官にまで引き上げて重用した。
離婚問題
その頃、ヘンリー8世は後継者問題に悩むようになった。上述の王妃キャサリンとの間には、(のちの)メアリー1世などが生まれた。だが、すべて女子だった。当時の王位継承の観点からすれば、男子の誕生が求められた。
そこで、ヘンリーはキャサリンと離婚して、アン・ブーリンと結婚しようとした。そのための許可をローマ教皇から得ようとした。当時のカトリックの教義では、結婚は重要な宗教儀式でもあった。
それゆえ、離婚には、教皇の許可が必要だとされていた。だが、教皇クレメンス7世は当時の国際情勢を考慮して、ヘンリーの離婚の要望を拒否した。この失敗により、ウルジーは罷免された。『ユートピア』の作者として有名なトマス・モアが大法官に任命された。
ブーリンとの結婚は1533年に断行された(後のエリザベス1世が生まれた)。離婚と新たな結婚の弁明では、聖職者のクランマーが活躍し、カンタベリー大主教に任命されるほど出世した。
上からの宗教改革
この離婚問題が引き金となって、ヘンリーはイギリス(イングランド)をカトリック教会から離脱させ、英国教会を樹立することになる。1533年、イギリスで行われた裁判結果について教皇に上訴するのを禁止する上告禁止法が制定された。
1534年、イギリス国王をトップとする英国教会を打ち立てる国王至上法などを制定させた。かくして、宗教改革を上から断行した。これは隣国のスコットランドでの下からの宗教改革と対比されることになる。
当時のイングランドの修道院は800以上あり、イングランドの土地の1/4ほどを所有していた。その年間収益は当時の国家の経常収入に匹敵した。39年にすべての修道院を解散し、その貴金属も売却した。修道院解散に反対して民衆蜂起が起こることもあった。
だが、ヘンリはこれを断行した。ヘンリの治世末期には、その土地の2/3がすでに貴族やジェントリに売却されるなどして移転されていた。これがジェントリの台頭の経済的基盤となっていく。
カトリック的な性格の残存
ヘンリーの宗教改革は教会の外的側面に関するものが主だった。結果的には、多くの部分がカトリックと大差ない状態だった。たとえば、ヘンリーは1539年に六ヶ条法を制定した。そこでは、カトリックの化体説にもとづくミサや告解が指示されていた。
化体説とは、ミサの儀式でパンがキリストの肉に、ワインがキリストの血に化けるという説である。これはルターやカルヴァンらのプロテスタントの標的となった。プロテスタントでこの教義を受け入れる宗派は例外的といえるほど、槍玉に挙げられていた。だが、ヘンリーはそれを否定せず、カトリック的なミサを続けさせたのである。
ただし、 1536年と38年の国王宗教指令は、カトリックから離脱するような内容も含んでいた。たとえば、教区教会に英訳聖書を設置した。さらに、聖画像と巡礼を迷信として非難した。
聖画像や巡礼は中世カトリック教会の中核的要素の一つだった。どちらも聖人崇拝と結びついていた。聖人崇拝はキリストのような神以外のキリスト教の重要な人物を聖人として称え、魂の救済において聖人の助力をえようとする宗教的な伝統だった。聖母マリア崇拝がその最大の例である。今日の関連では、バレンタインデーの聖バレンタインも聖人の一人である。
聖人を崇拝するために絵画や彫像などが中世には盛んに制作された。聖人の遺物(聖遺物)からご利益を得よう(病気の治癒など)として、巡礼が盛んになった。ルターやカルヴァンなどのプロテスタントはこの聖人崇拝を主要な批判対象にした。ヘンリーの英国教会もこの点で軌を一にしたといえる。
ヘンリーの宗教改革には反発が生じた。たとえば、トマス・モアはこれに反対した。その結果、処刑された。イギリス北部では反乱が生じたが、鎮圧された。
その他の展開
モアの処刑後、平民出身のトマス・クロムウェルが重用されるようになった。その頃、政治構造で重要な変化が生じた。枢密院が国王評議会から分離して、独自の組織になった。枢密院が政策決定の中核を占めることになる。その中の星室裁判所が騒擾や国王布告違反などを対象にした。
対外的には、ヘンリーはウェールズとの合同を開始した。スコットランドがイングランドに進軍してきたが大敗し、フランスとの結びつきを強めて対抗することになっていく。たとえば、スコットランドのメアリー・スチュワートがフランスの王子と結婚する。これに対抗する中で、イギリスは財政が悪化した。
ヘンリー8世の娘エリザベス1世の時代に、スコットランドでは宗教改革が起こり、メアリー・スチュワートがイギリスに亡命するなどして、両国の状況は複雑にからみ合うことになる。その下地はヘンリーの時代に形成されていた。
ヘンリー8世の重要性:イギリス史の転換点
ヘンリーの宗教改革により、イギリスはカトリックではなくなった。教区教会には英訳の聖書を設置し、聖画像や巡礼を迷信として非難するなどの改革を行った。それでも、ヘンリーはイギリスの宗教の内実の多くをカトリックに近いままに残した。
たとえば、ルターやカルヴァンなどに批判されていたカトリックの化体説は維持された。そのため、カトリック的性格をより一層除去しようとするピューリタンの改革運動が生じてくる。
ヘンリー以後のイギリスはこのカトリックとピューリタンの要素に大きく左右されることになる。1500年代後半には、強国スペインがイギリスのカトリック化を目指して無敵艦隊アルマダを派遣し、戦争を仕掛けてくる。イギリスはこの危機を乗り切る。
だが、1600年代前半には、ピューリタンの活動が活発になり、政治的影響をもつようになる。これが一因となって、同世紀なかばにピューリタン革命が起こり、イギリス王が処刑される。だがその10年後には、新たなイギリス王が君臨し、イギリスでカトリックの復活を推進する。
イギリスの再カトリック化の恐怖が一因となって、同世紀末には名誉革命が起こる。結果的にみれば、ヘンリー8世の宗教改革がイギリス市民革命の根本的な原因をつくり、イギリスの命運に深甚な影響を与えることになる。
さらに、通説的には、イギリス市民革命はイギリスの近代化や世界帝国への発展の原因となる。ヘンリーはこのような長期的な道筋の起点にあったといえる。
ヘンリー8世と縁のある人物
☆トマス・モア:ヘンリー8世のもとで要職をつとめた。また、この時代の代表的な人文学者で、『ユートピア』の作者。よって、ユートピア文学の生みの親。
●エリザベス1世:ヘンリーの娘。16世紀後半にイギリス女王となる。ヘンリーの宗教政策の多くを受け継ぎ、イギリス宗教改革を確立しようと試みるが・・・・。
ヘンリー8世の肖像画
おすすめ参考文献
指昭博編『ヘンリ8世の迷宮 : イギリスのルネサンス君主』昭和堂, 2012
川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020
Mark Rankin(ed.), Henry VIII and his afterlives : literature, politics, and art, Cambridge University Press, 2012