フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュールは現ハイチの政治家(1743 年頃ー1803 ) 。当時フランスの植民地だったサン・ドマングでハイチ革命を主導した。自由や平等といったフランス革命のジャコバン派の理念に突き動かされ、奴隷制廃止のために戦った。ハイチの建国の父として知られる。
トゥサン(Toussaint Louverture)の生涯
トゥサンはサン・ドマング(現ハイチ)で奴隷の家庭に生まれた。当時、サン・ドマングはフランスの植民地だった。フランス人の大地主たちは奴隷を用いて、主に綿花や砂糖、コーヒーを栽培していた。
トゥサンは奴隷として、家畜の世話などを行った。勤勉であり、出世していった。1776年、奴隷の身分から解放された。カトリックの信仰に篤く、禁欲的な人物だった。
ハイチ革命へ:フランス革命の影響のもとで
1789年、フランス革命が始まった。フランス本国で王権と革命議会が対立した。国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットがオーストリアに救援を求めた。
その結果、革命は外国との戦争を伴うことになった。かくして、フランス本国は危機的な状況に陥っていく。そのような状況だったので、サン・ドマング植民地へのフランス本国の統制は弱まった。
1791年、サン・ドマングの北部で黒人が反乱を開始した。トゥサンは当初この反乱にたいして消極的だった。だが、かつての自身の主人の逃亡を手伝った後で、この反乱に加わった。彼らの指導者として頭角を現し始めた。
1793年、スペインがフランス革命への干渉戦争を開始した。サン・ドマングでは、黒人反乱軍はスペイン軍と共闘することになった。トゥサンはゲリラ戦を駆使するなどして、将軍として優れた軍事的才能を発揮した。
イギリスもフランス革命への干渉戦争を開始していたため、この地でフランスと戦った。かくして、トゥサンはイギリスやスペインと協力した。なお、この頃、トゥサンは自身の名前に「ルーベルチュール」を付け加えた。
黒いジャコバン:革命の理念を武器に
1794年、転機が訪れた。フランスでは、国民公会が奴隷制の廃止を決定したのだ。サン・ドマングの白人の大地主たちはこれに猛烈に反発した。スペインとイギリスもまたこの決定を受け入れなかった。
そこで、サン・ドマングの白人の大地主たちはサン・ドマングをフランスから独立させようと試み始めた。そのために、イギリス軍の助力を求めた。
トゥサンは国民公会の黒人奴隷解放に感銘を受け、国民公会に忠誠を誓った。
黒人奴隷解放を主導したのはジャコバン派だった。彼らはフランス革命の自由や平等の理念を急進的に推し進める共和主義者だった。
黒人奴隷解放は黒人にも自由と平等を与える運動としてトゥサンを、さらにサン・ドマングの黒人たちを鼓舞した。
かくして、トゥサンは自由と平等の精神のために、黒人反乱軍を統率し、フランス軍に協力した。スペイン軍を追い出し、イギリス軍を窮地に追いやった。
この奴隷制が根強く存在していた時代に、自由と平等のスローガンを戦争の武器として効果的に利用したのである。そのため、トゥサンは黒いジャコバンの代表的人物だった。
総督として:黒人やクリオーリョからの支持
トゥサンはサン・ドマングの再建を進めた。人種間の対立を緩和させながらも、元々の奴隷たちには労働を強いた。とはいえ、彼らもまた平等と自由を享受できるようになった。プランテーションでの利益をみなで分かち合うようになった。
また、トゥサンはかつての大地主の帰還も許した。イギリスを1799年の条約で完全に撤退させた。英米とは、砂糖と武器などの貿易を開始した。トゥサンは総督となった。このような仕方で、サン・ドマングでは秩序が回復し、経済も再生された。
エスパニョーラ島の制圧:本国とのズレ
サン・ドマングの秩序回復を図っていた1797年頃、フランスの国民公会では、奴隷制を復活させようとする反動的な動きがみられてきた。トゥサンはこの動きに怒りを隠せなかった。
かつての奴隷たちが再び奴隷の地位に引き戻されるのを黙ってみているとでもいうのだろうか。
トゥサンは公報のなかで同胞たちにこう呼びかけた。「われわれが勝ち取った自由の聖なる炎が、われわれのすべての行動を導くようにしよう. 私たちは自由の樹を植え、奴隷制という恥ずべき軛のもとで囚われの身となっている同胞の鎖を断ち切ろう」。奴隷制廃止を認めないだけでなく、奴隷制廃止をさらに推し進めていく。
18世紀も終わる頃、トゥサンはいまやサン・ドマング全体を掌握していた。隣のサント・ドミンゴはスペインの植民地であり、奴隷制を維持していた。
そこで、1801年、トゥサンはナポレオンの命令を無視して、サント・ドミンゴを攻撃した。これを制圧するのに成功し、この地の奴隷を解放した。
ナポレオンとの対決へ
同年、トゥサンはエスパニョーラ島全体を掌握したので、憲法を制定し、その終身総督となった。カトリックを国教とした。とはいえ、トゥサンは自身をフランス人だと宣言し、ナポレオンへの忠誠を示した。
同時に、トゥサンはナポレオンがサン・ドマングの脅威になると考えた。そのため、戦争の準備も欠かさなかった。他方で、ナポレオンはトゥサンがサン・ドマングの植民地経営の妨げになると考えた。
1802年、ナポレオンはシャルル・ルクレール将軍のもとで2万の軍隊をサン・ドマングに派遣し、反乱の鎮圧を本格化させた。激しい戦闘が開始された。数カ月後、奴隷制を復活させないという条件のもと、
トゥサンは和睦に同意した。だが、トゥサンは奸計にかけられ、その後逮捕された。
獄死へ
トゥサンは獄中からナポレオンに手紙を送り、恩赦を求めた。だが、認められなかった。トゥサンは体調を崩したが、治療を受けられなかった。そのまま獄死した。毒殺説もある。だが、検死の結果では、脳溢血と肺炎が原因だとされている。
トゥサンと縁のある人物や事物
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トゥサンの肖像画
おすすめ参考文献
浜忠雄『ハイチ革命の世界史 : 奴隷たちがきりひらいた近代』岩波書店, 2023
Charles Forsdick, Toussaint Louverture: A Black Jacobin in the Age of Revolutions, Pluto Press, 2017
Philippe R. Girard, The slaves who defeated Napoléon : Toussaint Louverture and the Haitian War of Independence, 1801-1804, University of Alabama Press, 2011