ジェレミー・ベンサムはイギリスの哲学者(1748―1832)。「最大多数の最大幸福」をモットーとした功利主義の創始者として知られる。喜びや幸福感を促進するものは法や倫理にかんして善いものであり、反対に苦痛や苦しみを促進するものは悪いものだという判断基準を提示した。法律や政治などの諸制度の改革を目指した。
ベンサム(Jeremy Bentham)の生涯
ベンサムはイギリスのロンドンで弁護士の家庭に生まれた。ベンサム一家は裕福な中産階級に属した。ベンサムはウェストミンスター校やオックスフォード大学で学んだ。ベンサムはこれらの教育に不満を感じたため、のちに教育改革に打ち込むことになる。
1763年、ベンサムはリンカーン法学院に入り、当時の著名な法学者ブラックストンの講義を聞いた。 その後、弁護士として短期間だが活動した。
功利主義理論の形成
この頃、ベンサムは社会や法律などの改革への関心を深めていった。その際に、功利主義哲学を徐々に構築していった。特にイギリスの哲学者ヒュームやイタリアの刑法学者ベッカリーア、フランスの哲学者エルヴェティウスなどの影響を受けた。
たとえば、ベンサムの功利主義のモットーとしては「最大多数の最大幸福」が有名である。「最大多数の最大幸福」のフレーズはすでにベッカリーアの『罪と罰』の中で法律の良し悪しを判断する基準として登場していた。
1776年に、ベンサムは『政府論断片』を公刊し、ブラックストン批判を展開した。特に、ブラックストンの自然法論に問題を感じた。同時に、本書において、最大多数の最大幸福が善悪の基準であると論じ、自身の功利主義理論を初歩的な仕方で示した。
1785年、ベンサムはイタリアなどを訪れた。その後、ロシアで弟を訪ねた。弟はロシア軍の技師をつとめていた。ロシア滞在中に、ベンサムは『高利擁護論』を執筆し、1787年に公刊した。ここでは、アダム・スミスの法定利子論を、スミス流の自由主義経済の思想から批判した。
すなわち、スミスが経済の自由を主張しているにもかかわらず、利子の上限を法律で設定しようとすることの矛盾をついた。利子の設定についても自由にすることが経済の発展に資するとベンサムは論じた。本書はアメリカで大きな影響をもつことになった。
1788年、ベンサムはイギリスに戻り、政治家の道を志した。そこで、1789年、主著となる『道徳と立法の原理序説』を公刊した。本書において、功利主義理論を本格的に展開した。
快楽の増大と苦痛の減少を立法と道徳の基準にすべきとされ、最大多数の最大幸福がモットーだった。本書が成功を収め、ベンサムは名声を得た。功利主義はジョン・ミルやジョン・スチュワート・ミルなどに影響を与えた。
フランス革命との関係
同年、フランス革命が起こった。ベンサムはこれに大いに関心をひかれ、関与もした。たとえば、フランスでの法律制度のあり方に関する論考を執筆し、フランス国民議会に送った。
また、フランスで人権宣言が公にされたのにたいして、自然権批判を再び展開した。それでも、ベンサムはこれらの貢献を革命政府に感謝され、1792年には名誉市民権を与えられた。
また、国際関係にも関心を持った。国際法にかんする様々な論考を執筆した。なお、internationalという語はベンサムが創出した。
改革者としての試み:パノプティコン
ベンサムは実際の制度改革を試みようとした。法律や司法の改革や刑務所改革などである。刑務所改革にかんしては、少人数で受刑者を管理できるパノプティコンを創案した。パノプティコンで刑期を終えることによって、受刑者はよい行いをするような人間になるとベンサムは考えた。
さらに、ベンサムはイギリスでの刑務所の悲惨な状況を目の当たりにし、イギリス政府にパノプティコンを採用するよう求めた。私財を投じて、このプロジェクトが成功するよう試みた。
だが、結局失敗した。ただし、パノプティコンは他国で採用されることもあった。また、20世紀後半にフーコーによって取り上げられることで、有名となった。
後年の政治改革
1808年、ベンサムはジェームズ・ミルと知り合った。J.S.ミルの父である。ベンサムはジェームズ・ミルとともに、政治改革にも邁進することになる。当時のイギリスは普通選挙が実現されておらず、有権者はほんの一部の男性に限られていた。
ベンサムはイギリスの政治が一部の権力者によって歪められていると考えた。そこで、1810年代には、代議制民主主義をイギリスで実現すべく、自身の改革プランを公にした。
たとえば、選挙制度改革としての無記名投票である。当時は投票の際に名前を明記する必要があった。そのため、買収や報復などの可能性があり、実質的な自由投票を困難にしていた。そのため、無記名投票を導入するよう訴えた。
ほかにも、選挙権の拡大を重要な課題として捉えた。当時は女性の参政権や投票権が認められていなかった。上述のように、そもそも、男子普通選挙も実現されていなかった。ベンサムは女性の参政権を含んだ民主的な選挙改革を目指した。ただし、彼の生前に実現できたのは一部だった。
ほかにも、ベンサムは教育制度や英国教会の宗教制度についても改革を推進した。ベンサムは隠者を自称していたが、書簡などを通じて広範なネットワークを築いた。イギリス内外で功利主義に基づく諸改革を推進した。ベンサムのもとには優れた人物が多数集まってきた。
1832年、ベンサムは没した。ベンサムは遺言で、医学への貢献のために自身の遺体を解剖に用いるよう指示した。また、自身の遺骸を展示するよう提案もし、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで採用された。ちなみに、この大学はイギリスで最初の世俗的な大学であり、ベンサムの教育制度改革の一環で誕生したものである。
ベンサムの肖像画
ベンサムの主な著作・作品
『政府論断章』(1776)
『高利擁護論』(1787)
『道徳と立法の原理序説』(1789)
おすすめ参考文献
深貝保則, 戒能通弘編『ジェレミー・ベンサムの挑戦』ナカニシヤ出版, 2015
山田英世『ベンサム』清水書院, 2014
Michael Quinn, Bentham, Polity, 2022