教皇ボニファティウス 8 世は中世のローマ教皇(1235ー1303)。在位は1294 ー1303年。国家と教会の関係をめぐって、フランス国王フィリップ4世と激しく対立し、拿捕された挙げ句に憤死した。
ボニファティウス8世は中世の代表的な教皇の一人とみなされている。野心的に教皇権を拡張しようと試みる教皇の代表例の一人である。ボニファティウス8世の生涯を知ることで、そのような試みがどのようにして失敗したかを知ることができる。
この失敗は中世のこのような教皇主義の挫折の始まりとみなされている。よって、そのような重要な転機を知ることができる。
ボニファティウス8世の生涯
ボニファティウス8世はローマの名門貴族出身である。本名はベネデット・ガエタニ。ボローニャ大学でローマ法と教会法を学んだ。その後、ローマ教皇庁で枢機卿などの高職を得た。
1290年には、フランスへと教皇特使として派遣された。その際に、対立していたフランスとアラゴンの間に立って交渉し、両者を和解へ至らせた。フランスとイギリスの対立を多少緩和させるのに成功した。
また、イタリア国内での教皇派の勢力拡大を支援した。当時、イタリアの諸侯は、神聖ローマ皇帝派と教皇派に分かれ、対立を繰り返していた。その中には、たとえば、『神曲』で有名なダンテのフィレンツェがあった。フィレンツェは教皇派の都市だった。
教皇の即位:フランス王フィリップ4世との対決へ
1294年、教皇ボニファティウス8世として即位した。当時、イギリスやフランスは上述のように対立関係にあった。両国とも、戦費が財政的な重荷となっていた。そこで、それぞれの国王が自国の聖職者に課税を試みた。
しかし、国王が教皇の許可なく自らそのように課税することは、当時のカトリックの教会法に反していた。上述のように、ボニファティウス8世は自ら教会法に精通していた。 。
ボニファティウスはイギリスとフランスの王たちの課税の試みに反対した。そのために、1296年から「クレリキス・ライコス」などの教書を公布した。教書とは、教皇の命令が記されたカトリック教会の公文書である。イギリスは、その教書によって、教皇に妥協する姿勢を見せた。だが、フランスはそうではなかった。
教書「ウナム・サンクタム」
そこで、1302年、ボニファティウスは教書「ウナム・サンクタム」を公布した。この教書は中世の教皇の数多の教書の中でも、代表的なものの一つとして知られている。
この教書ゆえに、ボニファティウス8世はグレゴリウス7世とインノケンティウス3世とともに、中世の代表的な教皇の一人とみなされている。
その教書では、世俗権力と教会権威の関係に関する彼自身の立場が表明されている。この教書は中世の中でも教皇至上主義の立場を明確に示すものとして長らく理解されてきた。
だが、実際には、この教書は中世の教皇至上主義の中では伝統的な立場をとっていた。これは11世紀のグレゴリウス7世のグレゴリウス改革で示された立場を基本的に踏襲していた。
具体的には、教皇の権威が教会の問題については常に最上位のものであり、世俗の問題についてであっても世俗権力に優位しうるという立場である。
ボニファティウスの教皇主義とフィリップ4世のガリカ主義
だが、当時のフランス国王フィリップ4世がこれに強烈に敵対した。フィリップはもちろん、教皇の世俗的な権威に反対した。それのみならず、教会にかんする権威にも反対した。
特に、フィリップは教皇の権威がフランスの教会には及ばないと断じた。よって、フランス国王がフランスの聖職者に課税する上で、教皇の許可は不要である、と。このような主張は、フランスにたいする教皇の権威を認めないガリカ主義の始まりであった。
ボニファティウスはこのようなフィリップ4世を破門しようとしていた。ボニファティウスの立場はグレゴリウス7世の路線に沿っていた。すなわち、教皇はキリスト教会の全体にたいして普遍的な権威を持つ。
よって、教皇はフランスの教会にたいしても権威を持つ、と。このような立場はウルトラモンタニズムとも呼ばれる。教皇がイタリアからアルプス山脈を超えて、その先の地域にも権威をもつ。ウルトラ(超えて)+モンタン(山)ということで、教皇の権威が山脈を超えるという意味だ。
アナーニ事件と憤死
この対立で、フィリップが先手を打った。アナーニに滞在中のボニファティウスを急襲して拿捕したのだ。
ボニファティウスは脱出に成功してローマに戻った。しかし、怒り心頭のまま数日以内に没した。いわゆるアナーニ事件である。
ボニファティウスの重要性
ダンテの『神曲』とボニファティウス
ダンテの『神曲』の地獄篇には、ボニファティウスが登場する。
背景
上述のように、当時のイタリアでは皇帝派と教皇派の諸侯が勢力争いをしていた。この文脈で、ボニファティウスは当然ながら教皇派を支援した。たとえば、教皇派の都市ボローニャがフェラーラ領主から戦争によって領地を奪ったのを追認した。
イタリア・ルネサンスの著名な文豪のダンテは、フィレンツェの有力な政治家でもあった。フィレンツェは伝統的には教皇派だった。だが、内紛が起こった。
ダンテはこの一件で、特使として教皇庁へと、ボニファティウスのもとへと派遣された。だが、このタイミングで、ボニファティウスはフィレンツェの敵対者(ダンテの属するグループ)を失墜させた。
ダンテも失脚し、亡命生活を余儀なくされた。この一件が起こったのは、1302年だった。まさに「ウナム・サンクタム」と同じ年である。
『神曲』でのボニファティウスの取扱
このような一件もあって、『神曲』の地獄篇19章にはボニファティウス8世もまた登場することになる。ダンテは聖職売買の罪でボニファティウスが地獄に堕ちたと描いている。
聖職売買の罪はその名の通り、聖職者の地位を金で売り買いするという罪である。ボニファティウスは教皇に即位した後に、自身のコロンナ家の親族に教会の重要な地位を割り振ったという背景がある。
地獄篇の7章では、教皇や枢機卿は貪欲の罪によって、地獄に落ちたと描かれている。7つの大罪の一つである。
地獄篇の19章では、より重い罪として聖職売買が提示されている。どのような罪か。
当時のキリスト教の考えでは、(カトリック)教会はキリストという神の花嫁だと考えられていた。キリストという愛すべき神および人間にすべてを捧げる無垢な花嫁である。
ダンテによれば、聖職売買とは、この無垢な花嫁を金によって売ることを意味する。いわば、売春である。本来ならばその清らかな身をキリストだけに捧げるべき花嫁を、教会を、世俗の金で売り飛ばす行為である。
聖職者たちは、この教会の主要なメンバーである。そのトップたる教皇ボニファティウス8世が、この聖職売買に手を染めた。教会を守るべきトップが、教会という花嫁を金で売り飛ばし、売春させた。
ダンテは地獄篇の19章において、ボニファティウスをそのように描くことで、ボニファティウス自身とローマの教皇庁を痛烈に批判したといえる。
画期と評されるボニファティウスとフィリップの対決
中世ヨーロッパの歴史において、両者の対決は一つの節目となった。
カトリック教会の歴史においては、ボニファティウスの後に、1309年から教皇庁はローマからフランスのアヴィニョンに移された。これは教皇庁からは「アヴィニョン捕囚」の時代と呼ばれる。14世紀後半まで続く。
その後は教皇が同時に二人以上存在する「教会大分裂(シスマ)」の時代に入っていく。この流れにおいて、ボニファティウスの敗北は教皇庁の衰退の始まりと評されることがある。
フランスにかんしては、上述のように、フィリップ4世はガリカニズムの始まりだった。グレゴリウス改革以降の教皇は世界のどの国にたいしても、自身の権威が普遍的に通用すると主張していた。これにたいし、ガリカ主義は教皇の権威がフランスの教会や国には通用しないという立場である。
なお、フィリップ側によるボニファティウスへの猛烈な批判は別の面でも重要だった。上述のように、ボニファティウスはグレゴリウス改革の伝統に忠実な教皇の一人だった。
それにもかかわらず、中世の代表的な教皇の一人として認知されるようになる。それは、フィリップの世俗王権側によるボニファティウス批判の宣伝がうまくいった結果でもあった。
すなわちボニファティウスを、キリスト教会のトップを自認しながら、実際には自身の世俗的野心を無際限に追求するような、最悪な教皇として喧伝した結果であった。
ボニファティウスが中世の代表的な教皇の一人として挙げられる場合、だいたいこのような意味合いの教皇の一人として挙げられてきたのである。
ボニファティウス8世と縁のある街:ボローニャ
ボニファティウス8世の時代、ボローニャは教皇派の都市だった。ボニファティウスから便宜を受けることも少なからずあった。
その一例が、上述のように、フェラーラとの戦争での領地獲得を承認してもらったことである。教皇が両者の間に入って交渉することで、ボローニャとフェラーラとの戦争は泥沼化せず、終結した。
そこで、ボローニャはボニファティウス8世の支援に感謝の意を示すべく、彼の像を制作した。金と銅でできた彼の像は1301年に完成し、広場に飾られた。高さは235cmあり、それなりに大きい。
その像は現在、ボローニャの公立中世博物館に展示されている。この博物館はほかにも中世のボローニャの歴史を感じさせる展示が多い。イタリア都市国家の伝統を感じたい人にはおすすめだ。
ボニファティウスと縁のある人物
●グレゴリウス7世:11世紀の教皇。グレゴリウス改革によって、教皇至上主義を大々的に推進した。一つの画期をつくりだした教皇。カノッサの屈辱でも有名。
→グレゴリウス7世の記事をよむ
●ダンテ:同時代のフィレンツェの文豪。政治家としてボニファティウスに失脚させられたダンテは、どのような運命をたどったのか。
→ダンテの記事をよむ
ボニファティウス8世の肖像画
おすすめ参考文献
G.バラクロウ『中世教皇史』藤崎衛訳, 八坂書房, 2021
Keith Sisson(ed.), A companion to the medieval papacy : growth of an ideology and institution, Brill, 2016
Agostino Paravicini Bagliani, Boniface VIII : un pape hérétique?, Payot, 2003