ルイス・デ・カモンイス:大航海時代ポルトガルの英雄譚

 ルイス・デ・カモンイスは16世紀のポルトガルの詩人(1524ー1580)。ポルトガル文学の代表的人物の一人として知られる。自らインドや中国に旅して、ヴァスコ・ダ・ガマによる東インド航路開拓とポルトガルの黄金時代をテーマに叙事詩『ウズ・ルジアダス』を制作した。

カモンイス(Luís de Camões)の生涯

 カモンイスはリスボンで生まれ、下級貴族出身だった。当時のポルトガルの主要な大学のコインブラ大学で学んだとされる。ジョアン3世の宮廷に仕えた。

 1547年、カモンイスはアフリカ北部の都市セウタへ移った。セウタは1415年にポルトガルによって攻略され、これが大航海時代の始まりとして知られる。
 その後、セウタはムーア人に奪回された。16世紀なかば、ポルトガルはセウタでムーア人と戦争を行っていた。カモンイスはそれに加わり、右目を失明した。

 1550年、カモンイスはリスボンに戻った。だが、決闘を行い、1552年にその罪で投獄された。

 いざ、インドへ

 カモンイスはおそらくその投獄中に、彼の代表作として知られることになる『ウズ・ルジアダス』を制作し始めた。ウズ・ルジアダスはルシタニア人、すなわちポルトガル人という意味である。

 1553年、カモンイスは決闘の罪を赦された。その条件は慈善事業への多額の寄付と東方での3年間の兵役だった。そこで、カモンイスは兵役の義務をまっとうするために、同年インドへ旅立った。

 その際に、カスタニェダの『ポルトガル人によるインドの発見と征服の歴史』(1551)とバロスの『アジア』(1552)を携えていった。これらは『ウズ・ルジアダス』の制作で利用されることになる。ただし、それらに完全に依拠したわけではなく、自らの見聞も活用することになる。

ポルトガルの東アジア進出という背景

 『ウズ・ルジアダス』の時代背景として、大航海時代におけるポルトガルの東アジア進出があげられる。
 周知のように、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマが15世紀末に東インド航路を開拓し、インドに到達した。その後、副王アルブケルケがインドのゴアや東南アジアのマラッカなどに主要拠点を形成した。東インド航路上の要衝地と南・東南アジアを主軸とした海洋帝国を構築していった。1543年には、ポルトガル人は日本にも到来した。

 1549年には、ジョアン3世に派遣されたザビエルが日本宣教を開始していた。同時に、ポルトガルは中国との通商関係の樹立を模索していた。この時点では、他のヨーロッパ諸国は東アジア進出に失敗しており、ポルトガルだけが成功していた。

カモンイスのインド

 そのような時代背景の中で、カモンイスはヴァスコ・ダ・ガマと同じルートを辿った。半年間の船旅の後、1553年9月ごろ、インドのゴアに到達した。そこでは、さっそく兵役の義務を遂行した。

 まず、マラバール地方の支配者にたいするポルトガルの遠征に参加した。1554年頃には、紅海とメッカ周辺海域への遠征にも参加した。道中で、ポルトガル支配下のホムルズにも立ち寄った。ホムルズは長らくこの地域の重要な交易地だった。

 ゴア滞在中には、ポルトガルの王位後継者だったドン・ジョアンなどの死を知り、追悼の詩を制作した。カモンイスはかつて貴族として宮廷でも活動していたため、彼らには思い入れがあった。

 中国のマカオへ

 1557年、カモンイスはゴアからマカオに向かった。マカオのカピタン・マヨールに任命されたレオネル・デ・ソウザに同行した。そこで倭寇と戦ったとの逸話もある。ソウザはそのまま日本との貿易のために、平戸へ向かった。

 カモンイスはマカオで財政の管理者をつとめた。しかし、この業務において大きな問題を起こしたとして訴えられた。マカオからゴアへの帰路で、船が難破した。救出されてゴアに戻ったところで、投獄されたようだ。

 ゴアでは、副王にたいして詩を献呈して、釈放を望んだ。また、カモンイスは自由奔放で気前が良すぎたようであり、借金の問題でも投獄されたようだ。

 カモンイスは東アジアでの経験を糧にしながら、ヴァスコ・ダ・ガマの東インド航路開拓に焦点を当てた『ウズ・ルジアダス』の制作を続けた。
 その中では、当時の中国にも触れている。中国は万里の長城や、皇帝が選挙で選ばれるという制度により、理想的な国として描かれた。ただし、選挙制は事実ではなかったが。

 帰国

 1570年頃、カモンイスは長期の東アジア滞在を終えて、リスボンに戻ってきた。1572年、ついに『ウズ・ルジアダス』を公刊した。1580年に没した。まもなくカモンイスの伝記が友人らの手で公刊された。これはカモンイスの生前から本人の協力のもとで制作されたものだ。

カモンイスと『ウズ・ルジアダス』の評価

 『ウズ・ルジアダス』は大航海時代でのポルトガルの成功と勝利や、イスラムなどに対するキリスト教の勝利を高らかに歌い上げたものである。この時代はポルトガルの黄金時代といわれているため、これはまさにポルトガル黄金時代の代表的な文学作品である。

 カモンイスは後に、古代ローマの代表的な詩人ウェルギリウスやルネサンス・イタリアの代表的な詩人ペトラルカなどに匹敵する詩人とみなされることになる。「詩人たちの王」とも呼ばれた。18世紀には、ヴォルテールは叙事詩を論じる中で、カモンイスを新たな道の開拓者と評した。

 19世紀には、ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトは主著『コスモス』の中で、カモンイスを「偉大なる海の画家」と評した。カモンイスがガマの航海に関する偉大で真実味のあるいきいきとした描写を成し遂げたと称賛している。

 また、カモンイスは転換期の詩人として認知されている。主軸を地中海世界からインド洋世界へ移すことによって、叙述の中心を古代の叙事詩にみられる伝統的な地域から新たに発見されていく広大な地域に移した詩人である、と。

 旧来のオイクメーネー(人間の居住できると考えられた地域)から、開かれた果てしなき大海へと視点を移したのだ、と。この時代に『ウズ・ルシアダス』ほど当時の航海文化に深く根ざした叙事詩はないとも評される。

 他方で、カモンイスはヨーロッパをインド洋の東アジア地域よりも優越したものとして描くなどの理由で、ヨーロッパの植民地主義の推進者としても認知されている。
 たとえば、本書では、ガマはそれまで誰も成し遂げられなかった喜望峰海域の突破を成し遂げ、世界の真の姿をその先に住むインド洋世界の人々に知らしめる人物として描かれた。

 レパントの戦いの影響

 本書の背景の一つとしては、1571年のレパントの海戦が指摘されている。長らく、インド洋世界はヨーロッパ人には縁遠い地域だったが、アラビア系のイスラム教徒には馴染み深く、国際貿易のエリアだった。

 16世紀に入り、ポルトガルが東アジア貿易を始めた頃、イスラム化したオスマン帝国がセリム1世のもとで地中海世界の進出を本格的に開始した。1520年代以降、スレイマン1世はヨーロッパ人とヨーロッパや地中海世界で戦った。

 同時に、東南アジアのスルタンたちはポルトガルと戦争し、イスラム世界の守護者としてのスレイマンに救援を求めた。スレイマンはこれに応じて派兵した。

 このような状況で、ヨーロッパ人はオスマン帝国になかなか勝利することが出来なかった。ついにヨーロッパ人が明確な勝利を挙げたのがレパントの海戦だった。そのため、この勝利は当時ヨーロッパの詩人たちを歓喜させ、詩作を促した。

 カモンイスもまた鼓舞された。レパントの戦いは少なくとも部分的にはイスラム的なインド洋世界へのヨーロッパの優位という彼のビジョンに影響を与えた。

 ロカ岬の碑文:ここに地終わり海始まる

 ポルトガルのロカ岬はユーラシア大陸の最西端にある岬である。カモンイスは『ウズ・ルジアダス』では、ロカ岬を「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」ところと表現している。その碑文もあり、観光スポットになっている。

おすすめ参考文献

カモンイス『ウズ・ルジアダス : ルーススの民のうた』池上岑夫訳, 白水社, 2000

James Nicolopulos, The poetics of empire in the Indies : prophecy and imitation in La araucana and Os lusíadas, Pennsylvania State University Press, 2000

Michael Murrin, Trade and romance, University of Chicago Press, 2014

Katharina N. Piechocki, Cartographic humanism : the making of early modern Europe, The University of Chicago Press, 2021

タイトルとURLをコピーしました