カトリーヌ・ド・メディシスは16世紀のフランスの王妃(1519ー1589)。夫の王を早くに亡くし、息子たちの摂政をつとめた。プロテスタントへの寛容政策を行ったが、宗教戦争の勃発を防げなかった。カトリックのギーズ公とプロテスタントの間で、フランス王権を守ろうと尽力した。メディチ家の人間として、フランスの文化発展にも貢献した。宗教戦争の混乱が続く中で没した。彼女の生涯を追うことで、ユグノー戦争を国王の母の視点から理解することができる。
カトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)の生涯
カトリヌ・ド・メディシスはイタリアのフィレンツェで貴族の家庭に生まれた。メディチ家の出身である。父はウルビーノ公ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチである。
結婚生活
1533年、カトリーヌはのちのフランス王のアンリ2世と結婚した。フランス宮廷では、優しく聡明な女性として知られた。アンリ2世を愛し、彼に尽くし、王の威厳を高めることだけ考えているのだと外部にアピールした。同時に、カトリーヌは自身がアンリの正式のパートナーであることを強調した。
アンリには愛人がいた。だが、カトリーヌは自身が愛人と異なり、アンリと性愛以外の面でも近づく権利をもち、王への助言の権利や王の代理をつとめる権利をも持つと主張した。カトリーヌのこのような動きにたいして、女性を王権の中枢に近づけることが危険だと警鐘を鳴らす者も出てきた。
カトリーヌはアンリ2世との間に、10人の子供を産んだ。そのうち、三人の息子はのちにフランス王に順に即位した。すなわち、フランソワ 2 世、シャルル 9 世、アンリ 3 世である。子供が幼くして王に即位した際には、カトリーヌが摂政をつとめた。
メディチ家出身として
メディチ家出身という事実によって、カトリーヌはフランス宮廷に嫁いだ後にも様々な役割を期待されることになる。たとえば、芸術のパトロンである。周知の通り、メディチ家はフィレンツェで芸術のパトロンを担い、フィレンツェのルネサンスに大いに寄与した。このことを自ら対外的に喧伝してもいた。そのため、カトリーヌもまたフランスで芸術のパトロンとしての役割を期待された。
また、メディチ家出身ということはイタリア出身の外国人ということをも意味する。当時のフランスでの外国人嫌いの風習のもと、カトリーヌはイタリア出身の外国人として中傷を受け続けることになる。カトリーヌにたいする様々な悪い評判がその存命中から次々と生み出されていった。
摂政へ
1559年、アンリ2世が事故死した。幼いフランソワ2世が即位した。カトリーヌがその摂政となった。さらに、カトリーヌは幼き王や他の王位後継者を立派な王に育て上げるべく、強い責任感を感じながら、教育に従事した。カトリーヌ自身は彼らに献身し、特に厳しい助言を与えようとした。
だが、傍から見れば、息子たちへのカトリーヌの態度は献身なのか支配なのか見分けがつかないことも多かったようだ。カトリーヌの息子たちは過保護な母の影響を抜け出せない未熟な若者たちと批判されることもあった。
カトリーヌは自身の娘たちにたいして、ヴァロワ家の名声を維持し、ヴァロワ朝のために大切な役割を果たすよう求めた。娘たちが成長して嫁いだ後でも、常にヴァロワ王朝の同盟者として振る舞うよう期待した。
国内政治での立場
この頃、熱烈なカトリックのギーズ公が勢力を拡大し、王家から実権を奪った。1560年、プロテスタント勢力がギーズ公から実権を奪うために、アンボワーズ城にいたフランソワ2世を拉致しようとした。だが、これは失敗した。プロテスタント勢力は大々的に処刑された。
だが、カトリーヌは国内でのギーズ公のさらなる勢力拡大と専制を阻止するためには、プロテスタント勢力があまりに弱体化するのも問題とみなした。そこで、1560年にロモランタンの勅令を出して、両派に和解をもたらした。
同年、フランソワ2世が没し、シャルル9世が即位した。カトリーヌは再び摂政となった。カトリーヌは引き続き宗教的寛容の方針を示し、ギーズ家に対抗しようとした。たとえば、異端への死刑を廃止し、個人宅での説教を許可した。 カルヴァン主義者に良心の自由を認め、街の外でならば礼拝の実践も許可した。
宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発
だが、1562年、カトリーヌの寛容政策をカトリック側が受け入れなかったこともあり、フランスで宗教戦争が始まった。その後、1560年代には、この内戦が断続的に続いた。
なお、ここで注意が必要なのは、ユグノー戦争がカトリックのフランス王権とプロテスタント諸侯(ユグノー)の二項対立ではなかった点である。カトリックの王権はギーズ家の熱狂的なカトリック諸侯とプロテスタント諸侯との三つ巴の状態にあった。
ギーズ家はその後もスペインなどのカトリック勢力と国際的に結びつき、ユグノー諸侯はイギリスなどのプロテスタント勢力と国際的に結びついていく。そのため、カトリーヌ・ド・メディシスは明らかにフランスの国内政治にかんしても実権を握れてはいなかった。ヴァロワ朝の存続のためにできるだけのことを行おうとした。
そこで、カトリーヌは婚姻政策によって、この宗教戦争を完全に終わらせようとした。自身の娘と、プロテスタント勢力の主導者の(のちの)アンリ4世とを結婚させようとした。
また、自身の息子のアンジュー公をイギリス女王エリザベス1世とも結婚させようとした。当時のイギリスもまたプロテスタントであり、フランスのプロテスタント勢力と友好関係にあった。
サン・バルテルミの虐殺と黒い王妃?
だが、カトリーヌはこのような試みに失敗した。1572年、サン・バルテルミの虐殺が起こった。カトリーヌの娘とアンリ(4世)の結婚式のためにパリに集まったプロテスタントの主要貴族たちが一気に殺害されたのである。プロテスタントへの虐殺はフランス全体に広がっていった。
カトリーヌがこの虐殺でどれだけ主導的な役割を果たしたかについては、議論が割れている。これはカトリーヌの仕業だという伝統的な見方がある。カトリーヌが一定の関与をしていたとしても、カトリーヌを単純に黒幕とみなすのは今日の学識では受け入れ難くなっている。
というのも、この伝統的な見方はそもそも当時のカトリーヌの敵が流した噂に由来する面があるためだ。たとえば、当時、カトリーヌは感情に支配されてこのような凶行に及んだと大々的に喧伝された。よって、単純に伝統的な見方をとる場合には、当時のカトリーヌの敵の宣伝工作にのせられているというべきだろう。
アンリ3世とともに
1574年、シャルル9世が没し、アンリ3世が即位した。アンリは自ら実権を握ろうとしたので、カトリーヌは道を譲った。とはいえ、その後も、カトリーヌはプロテスタント勢力のみならずギーズ家の熱烈なカトリック勢力との間で王権を守ろうと画策した。両派との交渉や調停などに邁進した。
1576年、ギーズ家はカトリック同盟を結成し、スペインのフェリペ2世から支援を受けた。この頃、フランス王アンリ3世に跡継ぎがおらず、プロテスタントである(のちの)アンリ4世がその後継者になる可能性が高まってきた。
そのため、ギーズ家とフェリペ2世はいっそう強く結びついた。他方で、フランスのプロテスタント勢力は外国のプロテスタント勢力と結びついて活動していった。
1589年、カトリーヌは没した。フランスの王位後継者をめぐる争いの渦中でだった。同年、アンリ3世が暗殺される。フランスの宗教戦争はますます混沌の度を深めることになる。
フランス文化への寄与
カトリーヌは芸術の愛好家としても知られた。上述のように、カトリーヌはイタリアのメディチ家出身だった。そのため、カトリーヌの到来により、イタリア・ルネサンスの影響がフランス宮廷に色濃くみられるようになる。
アンボワーズ城やルーブル宮殿(美術館)などがそうだ。もっとも、フランソワ1世の時代からイタリア・ルネサンスはフランスに流入し始めていた。そのため、カトリーヌはこれを加速させたといえる。
ほかにも、カトリーヌはチュイルリー宮殿として知られることになる王宮の建設を命じた。この宮殿は長らく、カトリーヌ・デ・メディシス宮殿と呼ばれた。しかし、カトリーヌが資金を拠出した計画の多くは、資金不足などの理由で、未完成のまま終わった。アンリ2世や自身の子供たちのための礼拝堂などはカトリーヌの死後に廃墟と化していった。
カトリーヌ・デ・メディシスと縁のある場所:パリのチュイルリー庭園
チュイルリー庭園はセーヌ川の西岸、ルーブル美術館とコンコルド広場までの1キロほどの庭園である。
もともとは、この庭園は上述のチュイルリー宮殿と付属の庭園だった。チュイルリー宮殿はフランス革命後もナポレオン3世などによって宮殿として利用された。しかし、1871年のパリ・コミューンで破壊されてしまった。その後は、宮殿の跡地と庭園が残った。
この庭園はフランス洋式であり、美しい噴水がみられる。ロダンやジャコメッティの彫像も設えてある。現在はフランス最古の公園として、市民の憩いの場になっている。とはいえ、もともとは王宮とその庭園のあった場所であり、フランスの中心地であった。かつてのフランス王国に思いを馳せるにはよい場所である。
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カトリーヌ・ド・メディシスと縁のある人物
●アンリ4世:カトリーヌ・ド・メディシスの義理の息子。アンリ3世の死後に、紆余曲折を経て、アンリ4世としてフランス王に即位する。フランス宗教戦争の行方はすべてアンリ4世の手に委ねられた。その結末とは・・・。
●アンリ3世:カトリーヌ・ド・メディシスの息子。宗教戦争で悲劇の最期を迎えたフランス王。この激動の時代を彼の視点で見ると、どのようになるだろうか。
カトリーヌ・ド・メディシスの肖像画
おすすめ参考文献
佐藤賢一『 ヴァロワ朝』講談社, 2014
ジャン・オリユー『カトリーヌ・ド・メディシス : ルネサンスと宗教戦争』田中梓訳, 河出書房新社, 1990
Susan Broomhall, The identities of Catherine de’ Medici, Brill, 2021