ショパンはポーランド生まれのフランスの作曲家(1810 ー1849)。ワルシャワ生まれ。幼少期から楽才を開花させた。祖国の悲しい運命は死ぬまでショパンの心を締め付け続けた。そのため、ショパンには祖国愛を表現した楽曲が多い。「幻想ポロネーズ」などが有名である。
同時に、ショパンはロマン派の代表的な作曲家として知られている。ピアノ曲を主につくり、「ピアノの詩人」と呼ばれた。彼の代表曲とともに、その生涯を紹介する。
ショパン(Frédéric Chopin)の生涯
フレデリック・ショパンはポーランドのワルシャワ近郊で、教師の家庭に生まれた。父はフランス人であり、母は下級貴族のポーランド人だった。
ショパンの一家は音楽を愛好していたので、ショパンも早くから音楽に親しんだ。家族や親族から音楽を学び、7歳の頃にはポロネーズの作曲も行った。
音楽家としての成長
1818年、ショパンは最初の公開での演奏会を行った。これが大成功を収め、名声を得た。演奏においても作曲においても天才と称賛され、神童として知られた。当時天才として名高いモーツァルトと比肩されたほどだった。
ショパンはワルシャワの著名な音楽家エルスネルに師事するようになった。1826年、ワルシャワ音楽院に入学した。そこでも、エルスネルに師事した。
この時期に、ショパンは『ラ・ティ・ダーレム・ラ・マーノの変奏曲』を作曲した。シューマンがこれを称賛したため、ショパンは国外でも名声を得た。ドイツやオーストリアで演奏を行った。
音楽院の卒業とともに、1830年10月、ショパンはヨーロッパで成功することを志し、オーストリアのウィーンに移った。だが、これが彼自身にとって辛い運命にもなる。
ポーランドの11月蜂起とショパン
ショパンがポーランドを発った翌月、ポーランドでは11月蜂起が起こった。この出来事はショパンの人生に大きな影響を与える。
その背景として、1789年にフランス革命が起こった。オーストリアなどがこの革命を失敗させるための戦争を開始した。フランスは危機的状況に陥った。だが、ナポレオンが軍事的に活躍し、むしろ周辺国を征服するに至った。その際に、ショパンのポーランドも征服された。
ナポレオンがロシアやイギリスとの戦いに敗北し、1815年にナポレオン戦争が終わった。そこからいわゆるウィーン体制が始まる。ヨーロッパの大部分はナポレオン戦争以前の状態に戻す方針となった。
だが、ポーランドは事実としてロシア皇帝に服従することになった。ウィーン体制のもと、各地ではナショナリズム運動が勃興した。ポーランドでも同様だった。1830年の11月、ポーランドははロシアからの独立を勝ちとるべく、蜂起した。これが11月蜂起である。
ショパンはウィーンに到着して間もなく、この知らせを聞いた。故郷の動向がとても気がかりになった。だが、父からは手紙で帰国しないよう制止された。ショパンは祖国への苦しい葛藤の中で、ウィーンで作曲などを行った。
ウィーンでの活動はうまくいかなかった。そこで、ミュンヘンに移った。このとき、祖国ポーランドは蜂起に失敗し、ロシアに降伏した。皮肉なことに、ウィーン体制において、ポーランドのナショナリズム運動を抑圧したのはまさにオーストリアやドイツ(プロイセン)であった。
ショパンはこの祖国の悲しむべきはいおbクを知った。その感情をエチュード作品10第12番で表現した。なお、ショパンは生涯で二度とポーランドに戻ることはなかった。
ショパンの『革命』(エチュード作品10第12番)の動画(画像をクリックすると始まります)
パリでの成熟
1831年、ショパンはパリに移った。プレエルと知り合い、そのサロンで最初の演奏会を開いた。フランツ・リストやハイネなどと交流をもつようになった。
まもなく他のサロンでも成功し、パリでの著名な音楽家となった。経済的に安定しただけでなく、上等の暮らしができるようになった。
このパリ時代に、『幻想ポロネーズ』など、ショパンは多くの代表曲を生み出していった。ヨーロッパでも急速に名声を確立した。1834年には、祖国を支援するために演奏会を開き、両親と久々に会うことができた。
両親はポーランドに帰った。結果的には、これがショパンと両親の最後の別れとなった。ショパンはまだ健康上の問題を抱えていなかったが、祖国への後悔が心に突き刺さっていた。
ショパンの楽才:あるエピソード
ショパンは即興での演奏の名手としても知られた。たとえば、次のようなエピソードが知られている。ショパンはある馬車での旅で、新しい馬を調達する必要に迫られた。そのため、とある町で足止めされた。
新しい馬の準備中に、ショパンは町を散策した。広場に古いピアノを見つけた。そのピアノでポーランドの楽曲を即興で演奏し、聴衆を魅了した。その曲が後にピアノとオーケストラのための大幻想曲となった。
ショパンの演奏においては、それぞれの指には役割がもたされていた。10本の指は異なる色調のパレットを表し、さまざまな色合いで楽曲の解釈を彩ることができた。
当時のピアニストたちがテクニックを競い合っていたなかで、ショパンはこの点で一線を画していた。
他方で、当時の作曲家たちは自身の楽曲を自らの言葉で説明するようになっていた。リストやシューマンらが行っていたようにである。ショパンはロマン派でありながら、その慣行には応じなかった。
多彩な交流の輪
その後も、順調な音楽家生活を送った。ライプツィヒで友人のメンデルスゾーンの演奏を聞いた。1836年には、リストと演奏会を開いて、成功を収めた。作曲も続けた。パリ滞在の時期には、演奏会を19回ほど行った。
ハイネはショパンの楽曲に耽溺した。ハイネはショパンを「ピアノのラファエロ」呼び、その音楽の甘美でメランコリックな深淵に没入するのを好んだ。
また、リストの紹介で、ショパンは女流作家ジョルジュ・サンドと知り合い、恋に落ちた。私生活も円熟した日々を送った。だが、次第に体調を崩し、喀血するようになった。
1840年代に入った頃、ショパンはロマン主義の代表的な画家ドラクロワと知り合った。ドラクロワはショパンの楽才に感銘を受けた。ショパンは楽曲を制作し続けた。
だが、その支えとなっていた家庭生活が崩壊した。ジョルジュ・サンドとの生活がショパンの音楽家としての創造性を活気づけていた。だが、9年間に及ぶ関係が突如として終わりを告げたのである。ショパンは大きな精神的ダメージを受けた。創造性も健康も大きく損なわれた。
晩年
1848年、フランスで二月革命が起こった。フランスは王制から共和制に移行した。かつて王だったルイ・フィリップはショパンの後援者の一人だった。そのため、ショパンはこの革命で少なからず損失を受けた。
この混乱から脱するべく、ロンドンに移った。演奏会は好評だった。だが、それまでに既に患っていた結核などの症状が悪化した。そのため、パリに戻った。1849年、その地で没した。
ショパンはバッハ、ヘンデル、モーツァルトを特に敬愛していた。楽曲には、マズルカのようなポーランドのものが多かった。
ショパンの『ノクターン(夜想曲第二番)』の動画(画像をクリックすると始まります)
『別れの曲』(練習曲10−3)
ショパンと縁のある人物
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ショパンの肖像画
おすすめ参考文献
アダム・ザモイスキ『ショパン : プリンス・オブ・ザ・ロマンティックス』大西直樹, 楠原祥子訳, 音楽之友社, 2022
松尾梨沙『ショパンの詩学 : ピアノ曲『バラード』という詩の誕生』みすず書房, 2019
Jean-Jacques Eigeldinger, Frédéric Chopin et ses amis musiciens français, Ditesheim & Maffei, 2021
Alan Walker, Fryderyk Chopin : a life and times, Guillaume Farelar, Straus and Giroux, 2018