オノレ・ドーミエは19世紀のフランスの画家(1808ー1879) 。フランス写実主義の代表的人物として知られる。フランス革命後に大きく変わっていくフランスにおいて、ドーミエは共和主義者としての立場を明確にした。当局の政治や社会のあり方を『カリカチュール』などでの数多の版画によって風刺した。また、これからみていくように、絵画の面でも重要な意義をもつ。あの日本でも有名な流派の画家に影響を与えることになる。ドーミエの作品の画像を利用しながら説明する。
ドーミエ(Honoré Daumier)の生涯
オノレ・ドーミエはフランスのマルセイユで職人の家に生まれた。早くから絵に興味をいだいた。1815年、一家はパリに移った。一家は裕福ではなかったので、ドーミエは12歳で働き始めた。
ドーミエはルーブル美術家に通っては、バロック美術のルーベンスやレンブラントなどの絵を好んで学んだ。画家を志すようになり、1822年には画家のアレクサンドル=マリー・ルノワールに師事した。その後はパリのアカデミー・スイスでまなんだ。版画家として活動し始めた。
ドーミエはリトグラフ(石版画)の技法を選んだ。 リトグラフは1798年に発明されたばかりの新しい技法だった。1820年代には、パリの芸術や出版間で流行した。そこで、 1825年、ドーミエは石版画家ゼフェラン・ベリアールに師事した。
ドーミエの作品の大部分はこのリトグラフで占められることになる。ドーミエは初期のリトグラフの大家となり、リトグラフ自体の地位を高めるのに貢献することになる。
風刺画家としての成長:当時の時代背景
ドーミエはリトグラフによる風刺画家として成長していく。画題は当時のフランスの政治や経済そして社会にあった。そのため、当時のこれらの状況を簡単に説明しよう。
1789年、フランスはフランス革命を経験した。従来のフランス王権が革命政府と戦った。革命政府は民主主義や国民主権、普通選挙制度などを求めた。国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑し、フランスを共和制に至らせた。
だが、周辺国がフランス革命を妨害する戦争を開始した。その中でナポレオン・ボナパルトが軍人として台頭した。ナポレオンのもと、フランスは帝政になった。ナポレオンは周辺国の制圧に成功していったが、1815年に敗北して失脚した。フランスは王政に戻され、ルイ18世がフランス王に即位した。
19世紀のフランスでは、王党派とかつての革命の支持者の対立が続いた。王党派は革命を無秩序と不正の根源とみなした。革命支持者の多くは共和制を支持し、自由主義や民主主義を求めた。だが、ルイ18世は旧来の王権を再建しようとし、普通選挙制などを認めなかった。1820年代もこのような政治的対立と混乱が続いた。
そのような中で、ドーミエは版画家としてデビューした。1829年に創刊された雑誌『ラ・シルエット』に挿絵を提供した。
7月革命
1830年7月、フランスで7月革命が起こった。これは選挙で自由主義勢力が勝利したにもかかわらず、国王シャルル10世がこれを否定しようとしたのが主な原因だった。革命の結果、シャルルは退位を余儀なくされた。フランス革命の共和主義を求める声が高まった。だが、オルレアン公ルイ=フィリップによる新たな王政が設立されることになった。
ドーミエは共和主義者だった。そのため、この7月王政には深く失望した。ルイ=フィリップは普通選挙制を実現させなかった。ほかにも様々な不満が噴出した。彼は1848年に退位するまでに80回程度の暗殺未遂に遭うことになる。
雑誌『カリカチュール』での風刺:ルイ・フィリップ批判
このような背景で、ドーミエは風刺画家として活躍する。1830年、共和主義者のシャルル・フィリポンが雑誌『カリカチュール』を創刊した。彼はドーミエを風刺漫画家として採用した。これが彼の人生で大きな転機となった。主に政治家やブルジョワジー、弁護士の風刺を行った。
1832年、ドーミエは代表作の「ガルガンチュア」を制作した。 ここでは、ルイ・フィリップを風刺の対象に選んだ。だが、これは王党派を激怒させた。ドーミエは名誉毀損で訴えられ、有罪となった。罰金と東国の罰を下された。フィリポンも罰せられた。
「ガルガンチュア」
ルイ・フィリップに金を食べさせ続けることで疲弊したフランス人たち。ルイ・フィリップは金を食べ続けながら、大量の法令を「排泄」している。すなわち、排泄物のごとく法令を次々と打ち立てている。
だが、この事件はむしろドーミエの名声を高めた。共和主義者らはドーミエやフィリピンを称賛したのである。また、この一件は国家が画家を訴追した事件のなかでも、最も有名な例のひとつとなった。
盗賊として描かれたルイ・フィリップ
日刊紙『シャリバリ』
王権は風刺画などへの法的規制を強めた。その結果、『カリカチュール』は廃刊を余儀なくされた。それでも、フィリポンは諦めることなく、日刊紙『シャリバリ』を創刊した。そこでも、ドーミエを再び雇った。だが、1835年には、政治的な風刺画が全面的に禁止とされた。そのため、ドーミエは辛辣な政治風刺を控えた。
そのかわりに、ドーミエは社会や習俗、経済の風刺を開始した。当時のフランスは産業革命による大規模な社会・経済的な変化を経験していた。従来の職人たちは工場や機械での工業によって職を失った。
そのため機械の打ちこわし運動が起こった。他方で、手に職を持たない大量の労働者たちが極めて労働条件の悪い中で働かされた。これが社会問題となり、社会主義の発展を促した。ドーミエはこのような社会の変化を風刺画で捉えた。文豪のバルザックや歴史家のミシュレなどに称賛されるようになった。
『シャリバリ』での社会風刺。女性がこのような服装をすると、男性は腕を貸しにくい、と。
2月革命
1848年、フランスでは二月革命が起こった。ルイ・フィリップが失脚し、第二共和制が成立した。一時的に報道の自由が回復し、普通選挙制が復活した。ドーミエは政治風刺画による政府批判を再開した。だが、売れ行きはよくなかった。
新たな共和制の政治は安定しなかった。その中で、のちのナポレオン3世が台頭してくる。彼は同年の選挙で大統領に選ばれた。議会と対立し、クーデターを起こして実権を握った。
1852年にはフランスを帝政に至らせ、自ら皇帝ナポレオン3世となった。この間、ドーミエは共和主義者としてナポレオンの風刺を盛んに行った。だが、皇帝への即位すると、自由に風刺することが困難になった。
ドーミエの絵画
その頃から、ドーミエは絵画を描くようになった。写実主義の影響を受け、労働者などを描いた。『3等車』はその代表作である。
また、ドーミエは初期の印象派の画家でもあった。ドーミエの絵画はドガなどの印象派に影響を与えることになる。ドーミエはナダルを高く評価していた。
晩年
ボードレールなどと交流をもちながら、晩年をすごした。1870年、ドーミエはナポレオン3世からレジオン・ドヌール勲章の授与を打診された。だが、ナポレオンの独裁政治に反対だったので、これを固辞した。同年、フランスはプロイセンとの戦争を開始した。ナポレオンはその敗北で失脚した。
フランス第三共和制が成立した。ドーミエはこの政府からわずかな年金をえたが、慎ましい生活を送った。1879年に没した。
ドーミエは19世紀で最も多産な芸術家の一人となった。 4000点以上のリトグラフ、数百点の木版画やデッサン、300点の絵画と50点の彫刻を制作した。 だが、芸術家として認められるようになったのは、死後になってからである。
ドーミエと縁のある人物
☆ナポレオン3世:2月革命後の圧倒的な人気により、フランスの実権を握った政治家。ドーミエらの風刺の時代に転機をもたらした。
●エドガー・ドガ:印象派の代表的な画家の一人。画家としてのドーミエの大評価につながった。
ドーミエの肖像写真
おすすめ参考文献
隠岐由紀子編『リアリズム・美の革命 : ドーミエ, クールベ, コロー, ミレー, マネ』日本放送出版協会, 1990
Elizabeth C. Childs, Daumier and exoticism : satirizing the French and the foreign, P. Lang, 2004
Ségolène Le Men, Daumier et la caricature, Citadelles & Mazenod, 2008