アルベルト・アインシュタインはドイツの物理学者(1879―1955)「奇跡の年」に一連の物理学論文を発表し、一躍名声をえた。一般相対性理論を発表し、ノーベル物理学賞を獲得した。これからみていくように、これが物理学以外の分野にも大きな影響を与えた。第二次世界大戦ではマンハッタン計画に関わった。戦後は核廃絶運動に邁進した。以下では、アインシュタインの詳細な年表も掲載する。
アインシュタイン(Albert Einstein)の生涯
アインシュタインはドイツのウルムで工場を営んでいたユダヤ人家庭に生まれた。だが、父が事業で失敗し、ミュンヘンに移った。アインシュタインは幼少期に知的発達の遅れを心配される状況だった。だが、コンパスや数学などに大きな関心を抱いた。
アインシュタインはチューリヒのスイス連邦工科大学に入り、1900年に卒業した。その後、ベルンの特許局で技師になった。そのかたわら、物理学研究に打ち込んだ。
物理学者としての活躍:相対性理論とノーベル賞の受賞
1905年はアインシュタインの「奇跡の年」と呼ばれる。というのも、この年に、アインシュタインは物理学史上で画期的な論文を次々と公刊したためである。より具体的には、光量子説やブラウン運動、質量とエネルギーの等価性や特殊相対性理論について論じた。これらの成果により、アインシュタインは名声を得た。
アインシュタインは研究者のキャリアを歩み始めた。プラハ大学やスイス連邦工科大学、カイザー・ウィルヘルム研究所、ベルリン大学で研究を行った。科学上の業績が認められ、プロイセンの科学アカデミーで正会員として認められた。なお、この時期に第一次世界大戦が始まった。アインシュタインは平和運動に関心をもった。
1916年、アインシュタインはついに「一般相対性理論の基礎」を『物理学年報』に発表した。この理論はすぐには理解されず、よって関心を惹かなかった。だが間もなく、エディントンが日食観測を行った。これがアインシュタインの理論を部分的に実証し、よって広く関心を惹くようになった。
その成果が認められ、1922年、アインシュタインはノーベル物理学賞を得た。世界各地から講演の依頼が殺到し、講演旅行を行うようになった。日本にも、1922年に訪れた。その最中に、ノーベル賞受賞を正式に知った。
相対性理論とその意義
それまでの古典的な物理学では、時間と空間は絶対的なものと考えられていた。よって、空間や時間が伸び縮みするようなものだとは思われていなかった。これに対し、アインシュタインは時間や空間が相対的なものであることを提唱した。すなわち、空間の大きさや時間の進み方は観測者によって異なるような相対的なものだと論じた。
特殊相対性理論の鍵となるのは二つの原理である。一つは「光速度の不変の原理」である。すなわち、光の速度はすべての観測者にとって一定である。もう一つは「相対性原理」である。慣性系のもとでは、同一の物理法則が同じように起こるというものだ。二つを足し合わせると、すべての観測者にたいして同一の物理法則が働くにも関わらず、すべての観測者にとって光は同じ速さに見えることになる。
それゆえ、観測者の状況によって、時間の進み方が異なっていると結論された。たとえば、原子時計は高速で移動しているときは、全く移動していないときよりも、ゆっくりと時を刻むのである。かくして、時間の進み方はあらゆる状況において一定ではないことが示された。
一般相対性理論は特殊相対性理論を発展させたものである。特殊相対性理論は重力を考慮していなかった。だが当時、ニュートン力学の重力理論に不備が指摘されていたので、アインシュタインは重力を加味して理論を発展させた。重力はそれ自体で小さな力である。重力は惑星などの規模になると重要性をもつ。そのため、一般相対性理論は宇宙物理学で重要である。
以上のように、アインシュタインは古典的なニュートン物理学からの脱却を図った。時間と空間の概念に新たな理解をもたらしたため、物理学以外にも大きな反響を引き起こした。
アメリカへの亡命
第一次世界大戦での敗戦後、ドイツ社会は過剰な賠償金などによって混乱に陥った。1930年代には、ヒンデンブルク大統領のもとで、ヒトラーのナチスが台頭した。ナチス政権はユダヤ人迫害を開始した。1933年、アインシュタインはユダヤ人だったのでアメリカ合衆国に亡命し、プリンストン高等研究所で研究を再開した。ナチス政権のユダヤ人迫害がマンハッタン計画へとつながる
マンハッタン計画へ
1930年代末頃、物理学の発展により、原子力の利用を世界中の科学者が論じ合うようになった。その一部に、軍事利用が、すなわち原子爆弾があった。
エピソード:アインシュタインからルーズベルト大統領への書簡
アインシュタインのように、一群の科学者がドイツからアメリカに亡命していた。彼らはナチスが原子力を軍事利用すると恐れた。そこで、アメリカ政府に原子爆弾の開発を提言した。
その際に、1939年、アインシュタインがこの提言に関する書簡をルーズベルト大統領に出した。これはシラードが起草したもので、アインシュタインが署名したものである。その結果、アメリカ政府はウラニウム諮問委員会を発足させ、彼らを主要なメンバーに選んだ。かくして、アメリカの原爆開発がスタートした。
マンハッタン計画の推移
アメリカではイギリスとの研究協力を経て、原爆が技術的に製造可能なものと判断した。1941年末頃から、本格的に原爆の開発に着手した。科学研究開発局と陸軍が主にこの計画を担当した。1942年夏に、「マンハッタン管区」という暗号名の原爆製造担当局が設置された。
そのため、原爆開発計画はマンハッタン計画と呼ばれるようになった。同年末には、シカゴ大学の原子炉で原子核分裂の連鎖反応実験に成功した。ニューメキシコ州ロスアラモスの原子力研究所が原爆の製造を担当した。様々な企業が協力して、原爆の生産工場を建設した。1944年には、原爆完成が具体的にみえてきた。政府や学者は戦後の原爆の管理についても論じるようになった。
原爆の投下と戦後の平和運動
1945年7月16日、ニューメキシコ州のアラモゴード砂漠でプルトニウム原爆の実験が成功した。孫呉、アメリカは8月6日に原爆を広島に、8月9日に原爆を長崎に投下した。かくして、第二次世界大戦は終わった。1947年、原爆等の管理は原子力委員会に引き継がれた。
戦後、米ソの軍拡競争のもとで、原爆の脅威はむしろさらに拡大することになった、これにたいし、1955年、科学者たちはラッセル=アインシュタイン宣言を出して核兵器に反対を表明した。アインシュタインはその先頭にたった。これには湯川秀樹も参加した。彼らは原爆による人類の滅亡に警鐘を鳴らすようになった。
没後、アインシュタインの脳
1955年にアインシュタインはアメリカのプリンストン病院で、大動脈瘤の破裂で亡くなった。そのとき、彼の脳は地元の病理学者トーマス・ハーヴェイによって摘出された。
さらに、保存の処置が施され、写真撮影や測定も行われた。その大部分は200以上の部分に裁断され、スライドに載せられた。その一部は様々な研究者に送られた。だが、大部分は1998年にプリンス大学医療センターに寄贈された。現在もそこにある。
アインシュタインの脳の特徴を解明しようとする試みもなされた。彼の頭頂葉が通常のそれよりも15%ほど大きいことがわかった。頭頂葉は空間的認知や数学に関係する部分である。同時に、アインシュタインの脳が1230 グラムであり、平均よりも軽いこともわかった。研究は現在も続けられている。
アインシュタインの年表
1879 アルベルト・アインシュタイン、長男として生まれる 1880 一家はミュンヘンに移住。父が電気技術会社のアインシュタイン社を設立。 1884 家庭教師のもとで勉強をする。コンパスにとても興味を持つ。 1885 ミュンヘンのカトリックの小学校に通い始める。 優秀な生徒であった。ユダヤ教の教育を家で受ける。 1894 一家はイタリアに移住する。アインシュタインも少し遅れてこれに合流。 1895 チューリヒのポリテクニック(スイス工科大学)の入学試験に落ちる。アーラウの学校の商業科に通う。 1896 チューリヒ工科大学で学び始める 1900 チューリヒ工科大学の数学と物理の教員免許を取得。 最初の学術論文を発表。 1901 スイスの市民権を取得。教員として一時的に働く。その後、スイス特許庁に就職を志願。 1902 リーゼルが生まれる。だが、隠し子だった。父が没する。 1903 ミレヴァ・マリッチと結婚。 1905 「奇跡の年」となる。 特殊相対性理論などの画期的な著作を四つ公刊する。 1906 チューリヒ大学で博士号をえる。 1908 ベルン大学で博士号をえる。大学の講師となり、初めて講義を行う。 1909 特許庁を退職。チューリヒ大学で理論物理学の助教授となる。チューリヒ物理学会の会員となる。 1911 アインシュタイン、プラハのドイツ大学の正教授となる。ブリュッセルでの第1回ソルベイ会議に参加。 1912 チューリヒ工科大学の理論物理学の正教授となる。マルセル・グロスマンと一般相対性理論の基礎研究を始める。 1913 アインシュタイン、プロイセン科学アカデミーの会員になる。ベルリン大学の教授になり、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所に職を与えられる。 1915 一般相対性理論を完成させ、プロイセン科学アカデミーで講演を行う。 1916 一般相対性理論を論文で発表する。マックス・プランクの後任としてドイツ物理学会の会長に就任する。 ドイツ帝国物理技術研究所評議員会のメンバーになる。『特殊相対性理論と一般相対性理論』を完成させる。 1917 宇宙研究に打ち込む。病気に苦しむようになる。 1919 アーサー・・エディントンの日食観察により、アインシュタイン一般相対性理論が脚光を浴びる。離婚の後、従姉妹のエルザ・レーヴェンタールと結婚。 ロストック大学から唯一のドイツ名誉博士号をえる。 1920 デンマーク王立科学文学アカデミーとオランダ王立科学アカデミーの外国人会員となる。 デンマークのニールス・ボーアと初めて会う。 1921 初めてアメリカを訪問。 ハーディング大統領と面会。プリンストン大学などから名誉博士号をえた。講演も各地で行った。も授与された。 その後もアメリカでの講演や名誉授与が続く。 イギリスを訪れ、マンチェスター大学で名誉科学博士号をえる。ローマ国立科学アカデミーの外国人会員となる。ライデン大学で客員教授になる。 1922 ノーベル物理学賞を受賞。チェコやオーストリア、フランスなどを訪れる。シンガポール、中国そして日本を訪れる。日本滞在中にノーベル物理学賞の受賞を知る。 1923 パレスチナを訪問し テルアビブの名誉市民となる。 スペインを訪問し、マドリードの王立物理・自然科学アカデミーの会員となる。マドリード大学から名誉博士号をえる。 1924 ボース・アインシュタイン凝縮を発見。アインシュタイン研究所の理事長に任命される。 1925 アルゼンチンやブラジルなどを訪問する。ロンドンの王立協会よりメダルを授与される。 1926 ロンドンの王立天文学会から金メダルを授与される。 1927 バイエルン科学アカデミーの会員となる。に選出される。第5回ソルベイ会議で、ニールス・ボーアと量子力学について議論する。 1928 過労で倒れる。 1929 マックス・プランク・メダルを授与される。パリ大学より名誉博士号をえる。 1930 当時の軍縮問題に関わる。チューリヒ工科大学から名誉博士号をえる。アメリカに移り、カリフォルニア工科大学で研究する。 1931 イギリスを訪れ、オックスフォード大学から名誉博士号をえる。 1932 帝国ドイツ自然科学アカデミーの会員となる。ジークムント・フロイトと「なぜ戦争なのか? 」の対談を行う。再びアメリカに移る。翌年のナチスの台頭により、二度とドイツに戻ることはなかった。 1933 プロイセン科学アカデミーを辞任する。 アメリカに移住し、高等研究所で働く。 1934 イェシヴァ大学から名誉博士号をえる。 1935 フランクリン・メダルを受賞。 ハーバード大学から名誉博士号をえる。 1939 フランクリン・ルーズベルト大統領への原爆書簡に署名する。 1940 アメリカ国籍を取得。スイス国籍は保持。 1941 「マンハッタン計画」が始まる。 1944 高等研究所の名誉教授になる。 1945 第二次世界大戦の終結。ニューヨークでのノーベル賞記念晩餐会で、スピーチを行う。 1946 平和運動を始める。原子力科学者緊急委員会を他の科学者とともに設立し、その委員長となる。 1949 『自伝的ノート』を出版。 1954 核兵器廃絶を求める「アインシュタイン-ラッセル宣言」を出す。 1955 4月 動脈瘤の破裂で逝去。享年76歳。 | |
アインシュタインと縁のある人物
●湯川秀樹:アインシュタインの少し後にノーベル物理学賞をとった人物。戦後の世界兵運動ではアインシュタインとともに積極的に活動した。
アインシュタインの肖像画
おすすめ参考文献
アルバート・アインシュタイン『アインシュタインの旅行日記 : 日本・パレスチナ・スペイン』畔上司訳, 草思社, 2019
佐々木節編『アインシュタイン : 巨人の足跡と未解決問題』日経サイエンス , 2021
https://www.science.org/content/article/closer-look-einsteins-brain( 2024年2月10日アクセス)