フェルディナント2世は神聖ローマ帝国の皇帝(1578ー1637)。在位は1619‐37年。30年戦争でカトリック側の主体として参加した。同時に、オーストリア・ハプスブルク家の所領で支配を確立した。30年戦争ではヴァレンシュタインを起用して勝利を重ねることになる。だが、そもそもこの素性の怪しい男になぜ重要な軍隊を任せたのか。その点をも詳しくみていく。
フェルディナント2世(Ferdinand II)の生涯
フェルディナンド2世は、オーストリア大公カールとバイエルン公の娘マリアの長男としてオーストリアのグラーツで生まれた。ハプスブルク家出身で、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の孫にあたる。
フェルディナントは幼少期から宗教教育を受け、カトリックの敬虔な人物として育っていった。1590年から、フェルディナント2世はイエズス会のインゴルシュタット学院で学んだ。ここでさらに反宗教改革の精神を吹き込まれたとされている。
1517年のルターの宗教改革以降、ドイツではプロテスタントが活発に活動した。プロテスタントの勃興にたいするカトリックの反応は様々だった。その一つとして、カトリックを守り再起させ、プロテスタントを打ち倒す反宗教改革の運動が生じた。
フェルディナントはこの精神を吹き込まれたとされる。1596年には、ローマに巡礼した。さらに、所領を相続し、オーストリアでカトリックの信仰を臣民に強制し始めた。
30年戦争の始まり:ボヘミア王との戦い
1617年には、フェルディナントはオーストリア・ハプスブルク家として、ボヘミア王になった。1618年、同様にハンガリー王となった。フェルディナントはボヘミアでカトリックの信仰を強制していった。その結果、同年、プロテスタント貴族が反乱を起こした。この流れの中で、30年戦争が始まった。
ボヘミア議会が王としてのフェルディナント2世を追放した。かわりに、プロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に選出した。
1619年、フェルディナントは神聖ローマ皇帝に選出された。フェルディナントはカトリック勢力の支援を得ながら、1620年、プラハ近郊での白山の戦いでボヘミアの反乱軍を鎮圧した。反乱に与した諸侯の財産と土地を没収し、味方の諸侯に配分した。
プファルツ選帝侯にたいする罰として、プファルツ選帝侯が所有していた選帝侯の地位をバイエルン公に移転した。1623年に講和条約が締結された。かくして、ひとまず30年戦争は止んだ。
戦争の再開か、それとも・・・
その後、神聖ローマ帝国での状況は比較的落ち着いていた。だが、デンマーク王クリスチャン4世が帝国の宗教問題に関与する危険性が浮上してきた。このことはフェルディナンドや彼の顧問団にも認識され、討議されるようになった。
そこで、1625年、顧問団はフェルディナントに新たな軍隊の創設を提案した。だが、フェルディナント自身はこれに前向きではなかった。帝国での戦争の再開自体を望んでいなかった。
新たな軍隊創設は帝国内のプロテスタント諸侯を刺激するのではないかと危惧した。また、オスマン帝国の脅威を指摘する声もあった。そのため、プロテスタント諸侯と戦っている場合ではなく、妥協せよと論じられた。
その頃、ボヘミア貴族のワレンシュタインがフェルディナントのために軍隊を創設したいと申し出てきた。そもそも、ワレンシュタインはそれまでの30年戦争でフェルディナンドの味方として参戦していた。戦費のやり繰りで苦しんでいたフェルディナンドに資金を貸し付けたこともあった。
そこで、軍隊創設について討議の場が設けられた。デンマーク以外にも、イタリアやオランダ、ハンガリーなどの脅威が指摘された。討議の結果、軍隊創設が支持された。フェルディナンドは迷いながらも、この提案を受け入れた。
これをワレンシュタインに委ねることも決定した。かくして、ワレンシュタインの新たな軍隊が創設された。これがフェルディナントの主要部隊として活躍することになる。
ヴァレンシュタインの活躍へ
1625年末までに、ワレンシュタインは約5万の兵力を集めた。フェルディナンドにはすでにカトリック同盟軍がいた。ワレンシュタインの軍隊はそれと匹敵する規模になるよう期待された。この期待を超えて、1627年までに、ヴァレンシュタインの軍隊は10万人に達した。それまでのフェルディナンドの軍隊の規模を大幅に上回るものだった。
フェルディナンドは常に戦費調達の問題に頭を悩ませていた。当時は現在と異なり、ヨーロッパには常備軍は基本的に存在しなかった。傭兵が主な戦力だった。彼らは給料が払われなければ、蜂起した。これが戦局に影響を与えていた。
しかし、給料の支払いが滞ることは、当時のヨーロッパではよくみられた。そのため、蜂起や略奪もよく起こった。フェルディナンドもまた同様の問題を避けなければならなかった。
ワレンシュタインはこの戦費調達でも貢献した。敵地の住民に強制的な拠出金を課すというシステムを考案したのだ。占領地の住民が戦費を支払うことになった。あるいは、彼らから土地を没収し、売却ないし分配した。
30年戦争の再開
かくして、戦争の準備を整えながら、フェルディナントは1625年に戦争を開始した。その目的は、帝国を支配して、そこに絶対主義を確立することだったといわれることがある。他方で、戦争再開は帝国を維持するための防衛的な措置にすぎなかったという見方もある。
フェルディナンドは戦争開始後も、敵対者であるプファルツ選帝侯との交渉を続けた。だが、両者の折り合いがつかなかったので、結局は武力で決着をつけることになった。
1626年から、フェルディナント側が快進撃を続けた。デンマーク王やプロテスタント諸侯の軍隊に次々と勝利をあげた。1629年、フェルディナントはデンマーク王とリューベックで平和条約を結んだ。かくして、戦いは終わった。
所領の支配強化
そのかたわら、フェルディナントはボヘミアでの地位をかためていった。1627年には新たな憲法を制定した。ボヘミア王は正式にハプスブルク家の世襲となった。国王が立法と司法の最高権をもち、立法でき、三部会を召集できると定められた。
同年、ボヘミアの全貴族にカトリックへの改宗を義務付けた。その結果、ボヘミア貴族の約4分の1が亡命した。
さらに、フェルディナンドはオーストリア領における支配も強化した。 その一部では、プロテスタントの牧師や教師を追放した。あるいは、カトリック以外の貴族が追放された。
復旧勅令
1629年には、フェルディナントは復旧勅令を発した。これは1552年以降に帝国でプロテスタント諸侯によって奪われた旧カトリック諸侯の領地をカトリック側に返還させるものだった。80年以上も前の状態に戻そうとすれば、当然、大きな反発が予想される。そのため、フェルディナントの顧問たちは彼に警告を発した。
だが、フェルディナントは復旧勅令で妥協しなかった。これを実行した理由の一つは、彼自身の敬虔さにあった。フェルディナントは次第にカトリックの再興を自身の使命と考えるようになった。
彼からすれば、16世紀のドイツ宗教戦争の中で、カトリック諸侯はプロテスタント諸侯からその大切な領地を不正に奪われた。フェルディナントが軍事的に大成功を収めた1629年のこのタイミングこそ、これらのプロテスタント諸侯に正義の鉄槌を下すべき時である。このようにして、フェルディナントは復旧勅令を発した。
ただし、フェルディナントは常にカトリックの信仰を他のなによりも優先して政治的決定を下していたわけではない。ハプスブルク家の利害や同盟関係などを信仰に優先することもあった。
当然ながら、復旧勅令はプロテスタント諸侯に深い怨恨を生じさせた。同時に、皇帝への警戒心をいや増しに高めた。1630年、フェルディナントは彼らの圧力によってヴァレンシュタインの解任を余儀なくされた。プロテスタント諸侯はグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍と同盟を結んだ。
30年戦争が再び始まる
スウェーデン軍が帝国に進撃することで、30年戦争が再開された。1631年のブライテンフェルトの戦いでは、見事な勝利を飾った。フェルディナントはこのような危機の中でワレンシュタインを再度起用したが、再度解任した。
ワレンシュタインは暗殺された。このような危機の中で、フェルディナントは復旧勅令での妥協を考えるようになった。
しかし、フェルディナントの軍は形勢逆転に成功していく。1632年には、グスタフ・アドルフが戦死した。1634年、皇帝軍はスウェーデン軍を破った。スペインやバイエルン公の協力のもと、このように情勢を立て直した。だが、1635年にはフランスがついにプロテスタント側で参戦した。皇帝軍は徐々に劣勢になっていった。
30年戦争が終わる前に、1637年にフェルディナントは没した。その後、神聖ローマ皇帝はこの戦争で敗北することになる。
フェルディナント2世の評価
フェルディナンド2世については、プロテスタントの研究では本質的に受動的な人物として評されてきた。侍従や特にイエズス会などの聖職者に全面的に依存しており、カトリックの信仰心に過度に束縛された人物である、と。
あるいは、30年戦争の研究では、フェルディナンドはドイツの自由を抑圧しようとする暴君として捉えられてきた。ほかには、オーストリア・ハプスブルク家の強大化やその所領での反宗教改革やカトリック改革の最大の実践者、神聖ローマ皇帝の権威の再建者、30年戦争の最重要人物の一人という評価もある。
フェルディナント2世と縁のある人物
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皇帝フェルディナント2世の肖像画
おすすめ参考文献
菊池良生『図説神聖ローマ帝国』河出書房新社, 2009
Robert Bireley, Ferdinand II, Counter-Reformation emperor, 1578-1637, Cambridge University Press, 2014
Gerhild Scholz Williams(ed.), Rethinking Europe : war and peace in the early modern German lands, Brill, 2019