平賀源内は江戸中期、18世紀の学者で文人(1728―1779)。学問では、本草学や蘭学、博物学などの発展に寄与した。それらの知識を用いて、浄瑠璃などの作品も制作した。また、西洋の文物(エレキテル)などの製作も行った。田沼意次らのもとで、その知識を用いて日本の殖産興業を後押しした。
平賀源内の生涯
源内は讃岐(現在の香川県)で高松藩士の家庭に生まれた。名は国倫(くにとも)であり、源内は通称だった。
1749年、父が没した後、源内は家督を継いだ。名字はもともと白石だった。だが、このときに源内が自らこれを平賀に改めた。その理由は源内の野心にあるとしばしばいわれているが、これに否定的な意見もある。
また、源内の文名は別にある。学問では鳩渓、戯作者としては風来山人などを用い、浄瑠璃作家としては福内鬼外を用いることになる。
本草学や蘭学への傾倒
1752年、源内は藩主に才能を見出され、長崎に遊学することができた。長崎では、オランダ東インド会社が出島で貿易を行い、唐人屋敷には中国人の商人が到来した。源内はこれらの外国の文物、とくにオランダを通して西洋の文物に強い関心を抱き、つぶさに観察した。また、本草学(植物や鉱物などの薬物にかんする学)の研究も進めた。源内は遊学を終えて讃岐に戻った。
1754年には、家督を妹婿に譲り、家督の義務から解放された。本草学者の田村藍水(たむららんすい)に師事し、本草学の研究を深めていった。1755年には、長崎で知ったオランダの文物を自ら再現しようと試み、磁針器などを製作した。さらに、大坂に移った。そこでは、戸田旭山という有名な医者に師事した。
1756年、29歳頃で、源内は江戸に移り、本草学者の田村元雄に師事した。この頃、のちに蘭学者として活躍する杉田玄白と交流をもつようになった。
全国的な薬品会の開催
1757年、源内は師とともに、江戸の湯島で薬品の物産会を開催した。出資者には高松藩主がいたため、故郷の藩主の後援をえて行ったことになる。この薬品会が好評を博し、毎年続けられるようになった。1761年からは、師匠の戸田旭山が大坂で同様の薬品会を開催するようになった。源内はそこにも出品した。
1762年には、源内の湯島の薬品会には、全国から2000以上の出品がなされた。源内はその中から360種を選んで、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)で紹介した。本書は中国本草学の影響が強かったが、蘭学の知識も利用された。日本での博物学に重要な貢献を行った。
殖産興業への貢献
また、本書は当時の殖産興業や蘭学奨励の流れにも属していた。たとえば、朝鮮人参と甘藷の栽培法が記されていた。これらは日本で輸入に頼っていたので、源内は国内での自給自足を図ろうとした。源内は本書や物産会などの活動で名声を得た。
その後も、源内は博物学的関心を抱き続け、殖産興業のために邁進した。源内の活動の多くは、自国の天然資源と工芸技術をよりよく活用することによって外国製品への依存を減らし、殖産興業を促進したいという願望に基づいていた。
そのために、源内はたとえば上述の朝鮮人参や、インドから輸入された木綿の更紗、中国から輸入された絹織物や陶磁器などに着目した。源内は様々な試みをした。たとえば、秋田藩北部の鉱物資源の調査、吹きガラスの技術開発、静電気の実験、石綿を使った火浣布という防火布の開発、羊毛用の羊の飼育である。
なお、羊の飼育は環境が適していなかったので失敗した。ほかにも、西洋の文物の再現や開発を行い、温度計などを製作した。
源内焼
その一環として、源内焼という陶磁器をとりあげっよう。1755年、長崎を訪れた源内は国際貿易の重要性を認識し、交易品の中でも、上述のように中国の陶磁器に注目した。そこで、故郷の讃岐で新しい窯を開くことを決めた。
源内はのちに、こう述べている。日本人は外国のものに大きな価値を置き、そのために莫大な金を出す。もし日本の陶磁器が優れたものであれば、当然、我々は外国の商品に金を使うことはない。
中国人もオランダ人もこの陶器を求めてやってきて、自国に持ち帰るだろうから、これは末永く利益になるだろう。 もともと粘土なのだから、いくら陶器を送り出しても、資源が枯渇する心配はない、と。
そこで、源内は新たな陶磁器をうみだし、源内焼きと名付けた。これは四角、六角、八角などの皿が中心である。茶色、黄色、そして主に緑色の陶磁器である。中国福建省の高級陶磁器をモデルとした。 装飾の形やモチーフは多様である。日本、ヨーロッパ、アメリカ大陸の地図をデザインしたものもある。
文人としての活躍
同時に、源内は文人としても活動を開始した。たとえば、1763年、社会を風刺した『風流志道軒伝( ふうりゅうしどうけんでん)』や『根南志具佐 (ねなしぐさ) 』を公刊し、成功を収めた。これらは江戸小説の先駆けと評されている。
さらに、浄瑠璃の『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』などを制作し、これも大成功した。これは江戸浄瑠璃の代表として現在も上演されている。戯作も多く制作し、『風来六部集(ふうらいろくぶしゅう)』にまとめた。これは奇抜な風刺や社会批評であり、近世文学史でも一定の地位を占めている。
田沼意次のもとでの長崎遊学:秋田派の絵画
1772年、田沼意次は老中に就任した。源内はその頃には田沼意次と知り合うようになり、オランダ語の翻訳の職務で再び長崎に遊学した。源内は日本の殖産興業に役立ちそうなものを学び、たとえば洋風画法を吸収した。
1773年、源内は秋田藩の招きに応じて、鉱山開発に関わった。その際に、秋田で鉱山経営にも関わった。同時に、洋風画法を秋田藩士の小田野直武らに教えた。その結果、秋田派という洋風画派が誕生することになった。
晩年:エレキテルをつくる
1774年、秩父での鉱山経営に失敗した。1776年、長崎で入手していたエレキテルをもとに、その模造品を制作した。これは摩擦によって静電気を引き起こす装置である。源内はこの電気に治療効果があるとして、エレキテルを売り出した。だが、あまり売れなかった。ちなみに、今日の整体や鍼灸で微弱な電気を患部に流す施術は行われている。
源内の死
その後、源内は戯作などを制作し続けた。1779年、人を殺傷して捕まり、獄中で没した。
平賀源内と縁のある人物
●杉田玄白:平賀源内が30歳になる頃に江戸で知り合い、生涯の友人となった。杉田玄白は蘭学者となり、『解体新書』の翻訳で名を挙げることになる。だが、杉田がその翻訳で実際に担った役割は、従来考えられてきたのとは微妙に異なっていた・・・。
平賀源内の肖像画
出典:国立国会図書館(https://dl.ndl.go.jp/pid/778302/1/3)
平賀源内の代表的な作品・著作
『物類品隲』(1763)
『根南志具佐 』 (1763)
『風来六部集』 (1780)
おすすめ参考文献
城福勇『平賀源内』吉川弘文館, 1986
芳賀徹『平賀源内』朝日新聞社、1989
福田安典『平賀源内の研究 : 大坂篇 』ぺりかん社, 2013
Christine M.E. Guth, Craft culture in early modern Japan : materials, makers, and mastery, University of California Press, 2021