インノケンティウス 4 世は13世紀なかばのローマ教皇(在位は1243 ー1254 )。中世の精力的な教皇の一人として知られる。神聖ローマ皇帝と激しく対立した。また、モンゴル帝国のヨーロッパ征服という当時の危機に対応し、後述のように、むしろこの絶体絶命のピンチをチャンスに変えようと果敢に試みた。
インノケンティウス4世(Innocentius IV)の生涯
インノケンティウス4世はイタリアのジェノヴァで、貴族の家に生まれた。本名はシニバルド・フィエスキである。当時ヨーロッパの名門だったボローニャ大学でカトリックの教会法を学んだ。同大学で教授もつとめた。教会法の注釈書で名を馳せる。
インノケンティウス4世は司祭に叙任された。1225年には司教に、1227年には枢機卿に選ばれた。1243年、教皇に即位した。
皇帝フリードリヒ2世との対決
インノケンティウス4世が面した大きな問題の一つは、神聖ローマ皇帝との対立だった。皇帝フリードリヒ2世は前任の教皇から破門されていた。そこで、彼は新たなインノケンティウス4世に破門を解除するよう求めた。だが、インノケンティウス4世はこれに応じなかった。というのも、対立の原因が残り続けていたためである。
それは、教皇と皇帝の権威をめぐる対立だった。どちらも普遍的な権威をもつと自認した。教皇の普遍的権威は世俗の問題にかんしてどの程度のものか、などで両者は対立した。この対立はグレゴリウス7世の改革から続くものだった。断続的に、インノケンティウス3世やグレゴリウス9世のときにも激しくなった。インノケンティウス4世とフリードリヒ2世の対決も同様に激しいものとなった。
ルイ9世の後ろ盾
インノケンティウス4世はフリードリヒとの対立で身の危険を感じ、ローマから脱出した。かくして、フランスのリヨンへ移った。そこでフランス王ルイ9世を味方につけた。
1245年、ルイの後ろ盾のもと、インノケンティウス4世はリヨン公会議を開催した。ここでは、彼はフリードリヒの破門を解除するどころか、改めて破門を宣言し、さらに廃位をも宣告した。ドイツ諸侯にたいして、新たな皇帝を選定するよう求めた。
だが、この試みは失敗した。両者の戦争は続いた。だが、1250年に、フリードリヒ が没した。そこで、インノケンティウスはローマに戻った。だが、次の皇帝とも引き続き衝突することになる。
モンゴル帝国によるヨーロッパ遠征
1230年代から、モンゴル帝国がヨーロッパ遠征を始めた(東への遠征は日本の元寇である)。ハンガリーやオーストリアの地域などでヨーロッパの連合軍を打ち破った。その恐怖はローマにまで伝わってきた。
そこで、上述のリヨン公会議では、モンゴルの侵略への対応も話し合われた。それまで、ヨーロッパのキリスト教勢力の敵といえば、十字軍にみられるように、イスラム勢力だった。
イスラム教徒とモンゴル人は大いに異なるように思われた。イスラム教の支配者はキリスト教の宣教を死刑で禁止した。だが、モンゴル人はヨーロッパ人の宗教に頓着しない。さらに、モンゴル人は自らの宗教ももっていないように思われる。
そのため、イスラム教徒がイスラム教を広めようとするのと異なり、モンゴル人はヨーロッパ進出で彼らの宗教を広めるということもない。彼らはひたすら破壊を行うので残酷ではある。
だが、モンゴル人をキリスト教に改宗させ、神の光を見せれば、まっとうな人間になるのではないか。さらに、イスラム教徒と戦うための味方になってくれるのではないか、と。
カルピニのモンゴル使節
そのような可能性も考慮して、インノケンティウス4世はフランシスコ会のカルピニをモンゴルに正式な使節として派遣することを決めた。1245年、使節はモンゴル皇帝にヨーロッパ侵略の中止と彼らの改宗を求めて出発した。
カルピニは当時結成されて間もないフランシスコ会の修道士だった。ドイツで活動し、頭角を現していた。モンゴルへの使節団のトップに選ばれた時、60歳に達していた。
カルピニはポーランドやヴォルガ川を経由し、モンゴル帝国の西部辺境の最高司令官のもとにたどり着いた。そこからさらに、皇帝の宮廷へ行くよう命じられた。そこから100日間くらいかけて、ウラル川やカスピ海などを通った。1246年の夏に、ようやく目的地についた。
その頃、まさにモンゴル帝国では新しい皇帝が即位されるところだった。カルピニたちはその壮大な即位式に立ち会った。カルピニたちは新たな皇帝に教皇の公式書簡を渡した。
教皇の公式書簡には何が書かれていたか
教皇はこの書簡のなかで、次のようなロジックで、モンゴル皇帝に破壊活動をやめるよう求めた。
この世界の創造主たる神は人間や全ての動物や事物を自然的な仕方で結びつけ、世界を永遠に平和的な秩序のもとに置いた。だが、あなたたちはキリスト教徒や他の人々の地域を侵略し、残酷な仕方で荒廃させ、その怒りの矛先の対象をさらに広げている。性別や年齢に関係なく、すべての者を無差別に殺害してきた。このように私達は聞いて、驚かざるをえない。
我々は全ての人々が神への畏怖のもとで平和裏に一致して生きることを望む。そのため、あなたたちにこう忠告し、求める。このような戦いを、特にキリスト教徒にたいする迫害をやめること。あなたたちがこれまでの行いで引き起こした神の怒りをなだめるべく、償いをすること。さらなる蛮行をやめること。というのも、神はこれまであなたたちの振る舞いを許容してきたが、あなたがそれを続ければいずれ厳しい罰を世俗的な仕方で下すからである。
我々はあなたたちに優れた修道士を派遣した。彼らを我々のように丁重に扱うよう求める。上述の事柄について、特に平和に関する事柄について、彼らとよく話し合うよう。さらに、なぜあなたたちが他の諸民族を滅ぼそうとするのか、さらに何を目的としているのかを話し合うよう。また、彼らを我々の下に安全に戻すよう求める。
カルピニの帰路
同年11月まで同地で抑留された。その後、モンゴル皇帝から教皇に宛てた書簡を受取り、帰路についた。帰路は冬の時期にあたったため、カルピニたちは大変苦労した。1247年6月にはキエフに到着した。フランスにたどり着き、リヨンにいる教皇に報告を行った。かくして長い旅が終わった。
なお、カルピニはこの旅の経験をもとに、『タタール人と呼ばれるモンゴル人の歴史』を著した。そこでは、モンゴル人の国や気候、習慣と宗教、歴史や戦術などについて書かれていた。
これ以降、モンゴル帝国がユーラシアで勢力を維持し、「モンゴルの平和」を維持していた時代には、ヨーロッパからモンゴルへと断続的に宣教師が派遣されることになる。双方の交流も続くことになる。
インノケンティウス4世の肖像画
おすすめ参考文献
G.バラクロウ『中世教皇史』藤崎衛訳, 八坂書房, 2021
Paravicini Bagliani, Agostino . La cour des papes au XIIIe siècle, Hachette, 1995
K. Pennington, The Prince and the Law, 1200–1600: Sovereignty and Rights in the Western Legal Tradition, Berkeley, 1993