勝海舟は幕末から明治前半の政治家で軍人(1823―1899)。当初は蘭学と兵学で身を立て、幕府に仕えた。咸臨丸でアメリカにわたり、その視察で衝撃を受けた。帰国後、日本の政治と海軍の改革を推進した。
幕府軍として薩長と戦ったが、戊辰戦争では西郷隆盛と交渉して江戸城の無血開城を実現した。明治初期には新政府に協力したが下野し、歴史書を著した。国会開設後は議員として活動し、これからみていくように、あの政治家のきわめて独自な政治運動を助けた。
勝海舟(かつかいしゅう)の生涯
勝海舟は江戸で貧しい旗本の家庭に生まれた。名は義邦(よしくに)であり、海舟は号である。剣術を学び、師の勧めで西洋の兵学を学ぶべく蘭学を学んだ。
著名な佐久間象山のもとで西洋の兵学を学んだ。勤勉な生活を続け、1850年には蘭学の私塾を開くほどになった。
1853年、アメリカからペリーの黒船が日本に到来した。1854年には、日米和親条約が結ばれた。江戸幕府は大いに動揺し、時代の大きな変革が起こり始めた。
幕府への上申書:軍事の西洋化
徳川幕府はペリー来航の衝撃によって動揺した。老中は日本中から様々な意見を募ることにした。その中には、アメリカのような外国との戦争を推進する意見や平和を推進する意見、「開国」を奨励する意見など様々な意見が寄せられた。
その中で、勝海舟も意見を幕府に上申した。その内容は次のとおりだ。幕府の人事の仕組みを刷新し、下級武士でも実力で昇進できるようにすべきである。幕府は開国して積極的に中国やロシアなどと貿易を行うべきである。
対外貿易の活性化は国防に役立つ。同時に、幕府の海軍を西洋式に刷新する必要がある。たとえば、西洋式の大きな軍艦が日本にも必要である。その他の軍事制度も西洋式に刷新すべきである。
この西洋化のために、西洋の最新の天文学や兵学、地理学や力学などを学ぶ陸軍士官学校を設立すべきである。このように、海舟は幕府の軍事の西洋化を推進した。
海舟の上申書は公式には採用されなかった。だが、一部の重要な幕臣たちに注目された。その結果、1855年に長崎海軍伝習所が設立された。
長崎海軍伝習所
1855年、海舟は幕府に蘭学の実力を認められて、幕府の蕃書翻訳所の設立を支援した。私塾を閉鎖して、官職についたのである。さらに、上述の長崎海軍伝習所に移り、オランダ士官から軍事訓練を受けた。
当時のオランダ教官カッテンデイクは日本の訓練生たちの規律の欠如などを嘆いた。だが、海舟については違った。カッテンデイクは海舟を友好的で聡明であり、進歩主義的な友だと評した。
しかし、1858年、長崎海軍伝習所は大老の井伊直弼の方針によって閉鎖されることになった。同年、海舟は江戸に戻って、軍艦操練所の教授方頭取に就任した。
アメリカへ:西洋文明の衝撃
同年、日本は日米修好通商条約を締結した。1860年、日本はこれを批准する使節をアメリカに派遣した。海舟は咸臨丸(かんりんまる)の実質的な艦長としてこの使節をアメリカへ送り届けた。37日間かけて、使節と海臨丸はアメリカのサンフランシスコに到着した。
当時のアメリカの新聞でも、この日本使節の訪米をきわめて重要な出来事とみなして、次のように報じた。
日本の使節や随行者たちは注意深い観察者であり、本国に伝えるべきことをメモしている。彼らを通して、アメリカの文化や風習、すばらしい産業や技術などが日本に伝えられるだろう、と。
海舟はサンフランシスコに約1ヵ月半滞在した。その間に、工場や造船所、学校や病院、海軍施設、造幣局や印刷所、劇場、裁判所や軍事施設などを視察した。その中でも、アメリカ社会に普及していた蒸気機関に衝撃を受けた。
これは当時、工場など様々な場所で利用されていた。海舟は蒸気機関のおかげで、仕事を大規模かつ効率的に行うことができると感心した。また、アメリカ社会が身分社会ではないと見て取り、その点も称賛した。もちろん、アメリカの進んだ海軍技術にも感銘を受けた。
アメリカでのエピソード
海舟は英語でやり取りすることができた。現地で注意深くアメリカのより近代的な社会を視察し、大きな影響を受けた。現地での海舟の活動はアメリカの新聞でも報じられた。
たとえば、ホテルでのパーティーでは、海舟らは現地の料理をいろいろと試食した。海舟はアイスクリームを食べて、こんな素晴らしいものは食べたことがないと言ったようだ。
幕府改革の方針
1860年、海舟は帰国した。留守中に桜田門外の変が起こっており、井伊直弼が暗殺されていた。江戸は大混乱だった。そのような中で、海舟は日本の立ち位置と進むべき道について、次のように考察を深めた。
海舟はペリーの黒船来航を日本の新たな時代の幕開けとみなした。日本はそこから大きく改革すべきだった。だが、徳川幕府はそれに失敗してきた。現幕府は腐敗と私利私欲の状況にあるためだった。
そのため、まず抜本的な政治改革が必要である。現在の腐敗が西洋科学の導入などを妨げているので、まずはこの改革が必要である。
海舟は井伊直弼についてはこう評している。井伊は1858年の将軍継嗣問題での決断力については称賛に値する。 しかし、権力欲と反対勢力への弾圧は大きな問題だった。
特に、 1859年の粛清ゆえに、現状の幕府こそ進歩の妨げだといわざるをえない。これを、アメリカの議会政治をモデルとして改革すべきだ、と。
幕府の海軍力の増強の試み:坂本龍馬との関係
海舟は幕府改革の必要性を感じ、そのために尽力した。1862年には、軍艦奉行並に就任した。これは同年の文久の改革を背景とした異例の出世である。旧来の幕府の海軍が廃止された。海舟は近代的な海軍の設立を任された。
そのために、従来の幕府と藩の垣根を超えた実力主義の海軍を構築しようとした。出身地や身分がなんであろうとも、実力と志が高ければ出世できるのである。同時に、海舟は文久の改革での議会政治志向の改革を支持した。
この頃、土佐から上京していた坂本龍馬が海舟に師事した。まさに、海舟は実力主義でどの藩の人間でも採用した結果である。1864年、海舟は軍艦奉行になり、神戸に海軍操練所を設立した。
ここを西洋列強に対抗するための拠点に育て上げようと考え、そのために薩長などの諸藩との協力を模索した。その際に、西郷隆盛や桂小五郎らと知り合うようになった。
同年、攘夷運動を推進する長州藩が幕府や薩摩藩と京都で戦い、敗北した。海舟は幕府の方針と合わなかったため、江戸に呼び戻され、軍艦奉行を解任された。海軍操練所も閉鎖された。
幕府と薩長同盟の戦い:江戸城の無血開城へ
その頃、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が倒幕の同盟を結んだ。1866年、幕府は長州藩の征伐を試みたが、うまくいかなかった。このときに、海舟は軍艦奉行に戻され、この戦いの後始末を任された。
その後、1867年には薩長が朝廷の支持を獲得し、倒幕の密勅をえた。最後の将軍の徳川慶喜は大政奉還を行い、江戸幕府は名目上は崩壊した。薩長はここで満足せず、王政復古の大号令を出した。
1868年、旧幕府軍がついに戦闘を開始した。海舟はその陸軍総裁や若年寄となった。旧幕府軍は京都の鳥羽伏見の戦いで明治政府軍に負けた。明治政府軍が江戸城総攻撃を仕掛ける直前、海舟は西郷隆盛と交渉した。
その結果、江戸城の無血開城を果たし、戦闘を回避した。そこには、日本の内戦が西洋列強に侵略のチャンスを与えるのを避けようとする意図もあった。
明治時代:政務と歴史叙述
戊辰戦争が終わり、明治政府の新体制が始まった。海舟は海軍大輔や海軍卿として軍事関連で新政府に協力した。だが、1874年、政府の台湾出兵に反対し、辞職した。1888年には伯爵に叙され、1889年には枢密顧問官となった。
1890年に国会が開設された後は、元老院議員となった。足尾鉱山鉱毒事件を議会で追及していた田中正造を支援した。田中正造は議会ではあまり味方がいなかったため、貴重な助けとなった。政務のかたわら、『海軍歴史』や『陸軍歴史』などの歴史書の著述も行った。
勝海舟と縁のある人物
●西郷隆盛:薩長同盟と江戸幕府の戦争は江戸城の戦いでクライマックスを迎えたかもしれない。だが、勝海舟との交渉でこれを回避した。西郷とは、海軍操練所の頃からの知り合い。
勝海舟の『氷川清話』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)
勝海舟の貴重な回顧録です
勝海舟の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
おすすめ参考文献
片桐一男『勝海舟の蘭学と海軍伝習 』勉誠出版, 2016
樋口雄彦『勝海舟と江戸東京』吉川弘文館, 2014
松浦玲『勝海舟』筑摩書房, 2010
Gary P. Leupp(ed.), The Tokugawa world, Routledge, 2022