近藤勇:新選組局長

 近藤勇は幕末の武士(1834―1868)。剣の達人となり、幕府の京都守護職のもとで新選組を結成した。長州藩などの尊王攘夷派が幕府と対峙する中で、局長となって尊攘派の志士を弾圧した。池田屋事件が特に有名。だが薩長同盟の倒幕が進展すると・・・。

近藤勇(こんどういさみ)の生涯

 近藤勇は武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)で生まれた。江戸時代、多摩は幕府の直轄地だった。幕府はこの地域の住民に、農民の一揆にたいする治安維持のための組織を形成させた。
 この組織に属する人々の大多数が天然理心流(てんねんりしんりゅう)の剣術を学んでいた。
 1849年、近藤勇もまたこの剣術を、宗家の三代目の近藤周助(しゅうすけ)のもとで学んだ。近藤周助は江戸に道場をかまえながら、多摩にも出張で剣術を教えた。同時に、武士道などの講義もおこなった。生涯に1500人ほどの弟子を輩出した。
 近藤勇はすぐに頭角を現した。剣術のみならず知識や、その精神面でも近藤周助を驚かせた。近藤周助は多摩での武術指南の役目を近藤勇や土方歳三にしばしば任せるようになった。
 近藤勇は彼の信頼を勝ち取り、その養子となり、四代目の師範になった。

幕末の激動の時代へ

 その頃、1853年、アメリカの海軍提督ペリーが浦賀に来航し、日本に開国を求めた。この一件が江戸では大きな騒ぎとなった。
 近藤勇はただ剣術の修行に明け暮れていたわけではなく、このような政治事件にも関心を抱いた。土方歳三らとともに、ペリーの来航などの政治談義を行っていたようだ。
 その後の幕府の開国が天皇の事前の勅許を得なかったため、幕府と天皇は対立していった。
 1860年、近藤はツネと結婚した。ツネは一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の家臣の娘だった。

 幕末の京都へ:治安の問題

 1863年4月、将軍の徳川家茂が京都を訪れることになった。徳川幕府は薩摩藩の島津久光の協力のもとで、天皇との緊張関係を和らげ、公武合体を目指していたためである。
 しかし、この時期の京都は治安の状態が悪かった。上述の幕府と天皇のそれまでの不和などを背景に、いわゆる尊王攘夷派の志士たちが幕府側の人間に天誅を加えようとしていたからである。
 そのため、このタイミングで、幕府は京都の平和と安定を取り戻すため、臨時の措置として京都守護職の設置を決定した。京都守護職は畿内の治安維持を担当することになった。

 新選組(浪士組)の結成へ

 この流れで、幕府は徳川家茂の京都滞在の安全性を確保するための舞台を組織すると決めた。幕府の敵とみなされた幕末の志士たちは浪人だったが、幕府は幕府派の浪人たちを組織してこれらの志士たちを倒そうとしたのである。
 この部隊の募集要件として、愛国心をもち、義を重んじ、健康で屈強な精神を持っていることなどが挙げられた。 年齢や職業などは要件とならなかった。
 近藤勇はこれに応募した。その背景には、ツネによる徳川家とのつながりもあった。また、天然理心流が徳川家への奉仕を重要視していたのも理由だった。近藤らは4月に京都についた。
 同年5月、近藤は芹沢鴨(せりざわかも)らと新選組を組織し、京都守護職に奉仕して、京都の治安維持にあたった。
 ただし、この時点では浪士組と呼ばれていた。芹沢が初代の局長となった。なぜなら、芹沢は神道無念流の出身であり、これは江戸の三代道場として天然理心流より格上だったからである。

天皇と幕府と

 同年6月には、浪士組は将軍家茂が大坂湾を視察する際の警護の任務を与えられた。 その後も、文久の政変などで、浪士組は京都で活動した。孝明天皇が浪士組の活躍を称賛するようになり、新選組の名前を与えたといわれている。
 芹沢は尊王攘夷の熱心な支持者であり、水戸学派の影響を受けていた。幕府に反対だったわけではなく、天皇と幕府に忠誠を誓っていた。
 近藤は芹沢に感化された。早くも、彼らは新選組のトレードマークの「誠」の文字を使い始めた。これは水戸学派の思想に由来するものである。
 芹沢が新選組の内部抗争によって暗殺された後、近藤が新選組局長となった。新選組は次第に近藤と土方歳三によって実質的に運営されていく。土方は内部のことを統括し、近藤は局長として対外的なことを担当した。

 土方歳三らとの活躍:池田屋事件

 この頃、長州藩が尊王攘夷運動に邁進していたが、上述のように政変で京都から追放された。長州藩や土佐藩などの尊攘派の志士たちは勢力挽回を画策していた。
 1864年7月8日の早朝、新選組は長州藩の協力者の家に押し入った。その者を拷問し、ある計画を自白させた。
 それは京都に放火し、その混乱の中で天皇を拉致して長州に連れ帰るというものだ。この計画が京都守護職に伝えられ、すぐさま新選組に対応を求めた。
 同日夜、京都の旅籠の池田屋で、長州藩士たちがこの一件のために謀議していた。近藤ら新選組はこれを察知し、池田屋で彼らを急襲し、ほとんどのメンバーを捕殺した。近藤らは一挙に名を高めた。これが有名な池田屋事件である。

その後の発展と内部対立:尊王攘夷をめぐって

 同年8月、長州藩は京都に出兵した。幕府は薩摩藩とともにこれを打ち倒した。蛤御門の変である。新選組はここでも活躍した。
 その後、新選組は京都の治安維持のために幕府からそれまで以上に頼りにされることになった。そのため、新選組は幕府支持の姿勢を強めていった。その頃には、薩長のように、尊王倒幕の流れがうまれていた。
 そのため、新選組の旧来の尊王攘夷派のメンバーの中には、新選組の幕府支持に否定的な者もでてきた。新選組をやめようとして失敗し、自害に追い込まれる者もいた。
 1865年、幕府の第二次朝長州征伐の際に、新選組が全国で新規隊員を募集して規模を拡大した。その結果、新選組の内部には幕府派のグループだけでなく天皇派のグループも形成され、内部対立が激しくなっていった。

 薩長連合との対決へ

 その後、1867年7月、近藤は幕府の見廻組(みまわりぐみ)に加わり、旗本として幕臣になった。新選組内では、太政大臣と呼ばれるようになった。新選組自体が幕府の軍隊に組み込まれた。
 この頃、倒幕を目指す薩長同盟と徳川幕府の対立が深まっていった。薩長連合は天皇からついに倒幕の密勅をえた。慶喜が戦争を回避するために、いわゆる大政奉還を行った。
 だが、薩長連合はそれに満足せず、王政復古の大号令をだし、徳川側を追い込んでいく。1867年末、徳川側は今後の軍事について話し合いをもった。そこには新選組も出席した。

 1868年1月末、ついに両者の戦いが京都で開始した。幕府軍はこの鳥羽伏見の戦いで敗れた。新選組は解散された。新たな明治政府は江戸攻略のために進軍した。

 近藤は明治政府軍と戦うために、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を結成した。甲州の勝沼で政府軍と戦ったが、敗北した。下総の流山で政府軍に捕らえられた。1868年4月、江戸の板橋で斬首刑に処された。首は京都の三条河原に梟首された。

近藤勇の肖像写真

近藤勇 利用条件はウェブサイトで確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

おすすめ参考文献

楠木誠一郎『新選組 : 幕府を守ろうとした男たち』講談社, 2020

同志社大学人文科学研究所編『幕末から明治へ : 時代を読み解く』同志社大学人文科学研究所, 2004

山村竜也『新選組近藤勇伝』日本放送出版協会, 2003

Gary P. Leupp(ed.), The Tokugawa world, Routledge, 2022

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