ジョン・ロックはイギリスの哲学者(1632ー1704)。哲学では『人間悟性論』を著し、イギリス経験論の父と呼ばれる。政治哲学では『 統治二論』を著し、リベラリズムや社会契約論の主な論者として知られる。他にも『寛容書簡』が近世の寛容思想にかんして重要である。以下では、まずロックの生涯を説明し、次にその思想を扱う。
ロック(John Locke)の生涯
ロックはイギリスのリントンで弁護士の家庭に生まれた。父はピューリタン革命の戦闘では、議会軍として参加した。ロックは10代なかばでロンドンに移り、ウェストミンスター校に入った。そこでは、古典語や数学などを学んだ。
1652年、オックスフォード大学に入った。当時は伝統的なアリストテレス理論が教えられていた。ロックはこれを退屈に感じた。そこで、自らデカルトやベーコンらの新しい理論を学んだ。
1658年、ロックは修士号まで獲得して、フェローになった。そこでは、ロバート・ボイルなどの多様な分野の学者たちと交流をもった。当時、ボイルはオックスフォード大学で実験科学に関心のある人々のグループを主導していた。
空気ポンプを制作した実験で有名となった。ロックはボイルの科学グループから大いに刺激をえた。研究や教育、学生の管理を行った。ギリシャ語や修辞学の講師をつとめた。この頃、医者の道を進もうと決めた。
医療と政治:シャフツベリー伯爵のもとで
1666年、ロックはアシュリ・クーパー卿と知り合った。彼は後に初代シャフツベリー伯爵となる。アシュリ卿はホイッグ党の主要な政治家の一人として活躍した。彼はロックを自身の侍医に任命した。そのため、ロックは1667年にロンドンに移り、医学研究に打ち込んだ。アシュリ卿に手術も施した。
ロックはアシュリ卿の秘書にも任命された。アシュリ卿はイギリスが当時のオランダのように海外の貿易と植民地建設によって経済発展すべきと考えていた。国王にもこの政策を推進した。
そのための情報収集や植民地計画などを行う専門の委員会が立ち上げられた。ロックはこれに参加し、イギリスの北米植民地の建設を推進した。1669年には、植民地のカロライナ州の憲法起草に助力した。
1672年、アシュリ卿は初代シャフツベリー伯爵として叙爵された。さらに、イギリスの大法官にまで登りつめた。だが、国王チャールズ2世の信頼を失い、解任された。ロックもまた政治の世界から離れ、 1674年にオックスフォードに移った。そこで医学の学士号と医師免許を取った。1675年、ロックはフランスに移った。そこで医学の研究などを続けた。
政治活動から亡命へ
1679年、ロックはイギリスに戻った。この頃、イギリスでは反カトリック感情が強まっていた。というのも、1678年、現在の国王を暗殺してその弟ジェームズを王位につけるというカトリックの陰謀とされるものが露見したためだった。
イギリス国民はカトリックやその背後にいると噂されるローマ教皇庁への敵意を強めた。プロテスタントのイギリスがカトリック化されるのではないかという危機感が議会を支配していた。この動向が名誉革命につながっていく。
シャフツベリー伯はこの状況を利用しようとした。上述のジェームズはカトリックを公言していた。シャフツベリー伯はそれゆえジェームズが次期国王になるのを妨げようとした。
選挙運動を展開し、下院議会で多数派を構築するのに成功した。ロックはこの活動を支援した。しかし、反カトリック感情が収まっていく中で、
チャールズ2世への暗殺事件が起こった。ロックとシャフツベリー伯爵はこれに連座して、逮捕された。
1683年、ロックはオランダに亡命した。シャフツベリー伯爵もそこに亡命したが、まもなく没した。1685年、ジェームズ2世がイギリス国王に即位した。
ボイルとの関係
なお、イギリスに帰国していた頃、ロックはロバート・ボイルの研究を補佐していた。ボイルの論文は乱雑なことで知られていた。ロックは論文の整理や資料収集などを手伝った。両者の関係はその後も続いていく。
1691年にボイルが没した際には、ロックが彼の非公式の遺言執行人をつとめた。また、ボイルの死後出版の『医学実験』の編集にかかわり、その第二巻を他の医学者とともに担当することにもなった。
名誉革命とその後
1688年、イギリスでは名誉革命が起こった。上述のような政治動向を受けて、イギリス議会がオランダ総督のウィレム3世の支援を受けて、国王ジェームズ2世を追放したのである。
1689年、ロックもまたオランダからイギリスに渡った。権利章典の起草などで助力した。1689年、ロックは哲学的な代表作の『悟性論』を公刊した。当時の宗教的寛容にかんする『寛容書簡』も公刊した。
これはフランス滞在時の経験が活かされた。当時のフランスはプロテスタントへの信仰の実践を認めていたナントの勅令を廃止し、弾圧を本格化させていた。
1690年に、政治哲学の主著『統治二論』を公刊した。1696年からは貿易委員会に参加し、アイルランド貿易などの問題に取り組んだ。1700年に隠居した。
ロックの思想
ここから、ロックの思想をみていこう。まずは代表作の『統治二論』である。
統治二論
本書は1690年に公刊された。ロックの政治哲学上の主著である。本書は近世ヨーロッパの政治状況を背景としている。特に、17世紀のイギリスの政治状況として、ピューリタン革命や名誉革命を背景としている。
イギリスのこれら2つの革命にせよ、16世紀フランスの宗教戦争にせよ、17世紀ヨーロッパの30年戦争にせよ、この時代のヨーロッパでは、宗教や他の原因によって反乱や革命そして戦争が生じていた。この点がまず重要である。
さらに、ロックは上述の1688−89年の名誉革命を支持していた点も重要である。これはイギリス王ジェームズ2世にたいして、イギリス議会がオランダ総督ウィレム3世の支援のもとに行った革命である。
ジェームズが戦わずに亡命したので、議会側が勝利し、ウィレム3世がウィリアム3世としてイギリス王に即位した。『統治二論』は名誉革命をも背景としている。
概要
ロックは名誉革命も念頭に置きながら、暴政と内乱を抑止するような政治理論を提示しようとする。本書では、社会契約説が論じられ、人民主権理論が展開されている。第一部では、フィルマーの王権神授説を批判する。一般的によく注目されるのは、第二部である。
第二部で主に扱われているのは次の点である。まず、政治権力の定義とその起源である。次に、政治権力が人民の同意によって政府へと条件付きで委託されることである。その委託の目的は各人の生命と自由そして財産を守ることである。政府による政治権力の行使が法と革命によって制限されることである。
おおまかな流れは次の通りである。各人は自然状態で政治権力をもち、各人と人類の安全のためにこれを行使していた。自然状態でも社会を形成し、その一員となった。自然状態でもそれなりに平和だった。だが、社会が発展するにつれて、生命・自由・財産の安全を確保するのが難しくなってきた。
そこで、各人は社会契約を結んで、国家を設立した。政治権力などを、それらの安全のために、新たに誕生した政府と立法府に委ねた。よって、政府と立法府はこれらの目的に反しない限りで、彼らの政治権力を行使して、統治活動を行える。
だが、その委託の条件に反した場合には、正当性を失う。裁判などによっても、政府などの問題が是正されないなら、各人は最終手段として革命を起こす権利も持つ。
ロックの社会契約論について、より詳しくは次の記事を参照
ロックの経験論
次に、ロックの経験論に移ろう。
ロックは経験論の主な哲学者の一人として知られてきた。ロックは人間の知識のあり方について深い関心を抱いた。人は様々なことを知り、知識を築く。では、この知識はどのようにつくられているのか。
伝統的な理解では、ロックは次のように論じた。経験が人間の知識の究極的な源泉である。経験としては、二つが根源的である。
第一に、人は感覚を通して外部の生の感覚データを受容する。たとえば、目を通してりんごの丸さや大きさそして赤さという感覚データを受容する。第二に、人は内省という経験を通して新たな観念をえる。内省は自分の心を観察するような経験である。
第一のものが外的事物から与えられる感覚的データであるのにたいし、第二のものは自分自身の心という内面からでてくる。これら二つが人間の知識の究極的な源泉である。
これら二つの経験から、最も単純な観念が心に書き込まれる。それらの観念がさらなる経験や思考によって、より複雑な観念へと発展していく。観念が組み合わされることで、知識が成り立つ。
タブラ・ラサ
ロックの有名なタブラ・ラサの概念はこのようなプロセスに関わる。タブラ・ラサは白い板という意味である。人間は生まれた時点では、その心はタブラ・ラサである。すなわち、白紙状態である。
この主張は当時のデカルトらの合理主義者を念頭になされた。合理主義者は知識の源泉についてこう説明した。人間の心には、一定の観念が生まれつき備わっている。たとえば、数や因果関係の観念である。これらの観念は人が何かを見たり聞いたりすることで生じた観念ではない。すなわち、そのような経験によって生じた観念ではない。人が何かを経験する前から、あらかじめ人間の心に書き込まれた観念である、と。
ロックからすれば、すべての観念は上述の二種類の経験に由来する。因果関係も数もそうである。そのため、合理主義者のいうような、生まれながらにして心に備わった観念(生得観念)を否定した。このように否定する際に、タブラ・ラサの比喩を用いたのである。
ロックの認識論の位置づけ
ロックの時代はボイルやニュートンが実験主義の自然科学を発展させた時代だった。ロックは哲学においてボイルやニュートンのような偉大な学者の下働きのような役割を自認している。すなわち、彼らのような知の巨人のために、地面を少し整え、知識への道に横たわるゴミを取り除くような役割である。
このようなロック自身の説明も一因となって、ロックの経験論の哲学は実験主義の科学革命を下支えするものとして伝統的に理解されてきた。
他方で、ロックはイギリス経験論の父として位置づけられてきた。この経験論はさらにバークリーやヒュームらによって発展された。この系譜は大陸合理論と対比される。大陸合理論はデカルトやスピノザそしてライプニッツらに代表される。知識の究極的な源泉として理性を提示するグループである。
イギリス経験論と大陸合理論の二大潮流はドイツの哲学者カントの哲学のもとで合流し乗り越えられる。このような見方が伝統的である。
ロックと縁のある人物
●ロバート・ボイル:ロックとほぼ同時期のイギリスの科学者。ボイルの法則で知られる。ロックとは科学研究の仲間であった。その間柄は意外に深く、ボイルの遺言執行人をロックは実質的につとめた。ロックの自然哲学・科学の側面や当時の状況をより深く知るためには、ボイルについても知っておいたほうが望ましい。
●ウィリアム3世:名誉革命でイギリス王になった人物。ロックの『統治二論』の時代背景を知る上で重要な人物。
ロックの肖像画
ロックの主な著作・作品
『人間悟性論』(1689)
『寛容書簡』(1689)
『統治二論』(1690)
『キリスト教の合理性』(1695)
おすすめ参考文献
加藤節『ジョン・ロック : 神と人間との間』岩波書店, 2018
田中浩『ロック』清水書院, 2015
Matthew Stuart(ed.), A companion to Locke, Wiley Blackwell, 2016
J.H. Burns(ed.), The Cambridge history of political thought, 1450-1700, Cambridge University Press, 1994