宮本百合子:天才少女から女傑作家へ


 宮本百合子は大正と昭和の小説家(1899―1951)。学生時代に坪内逍遥に見出され、作家デビューし、天才少女ともてはやされた。アメリカ留学を経て結婚し、離婚した。その経験をへて、代表作『伸子』を公刊する。
 ソ連に留学し、社会主義に大きな影響を受けた。帰国してプロレタリア文学活動に参加した。時代の荒波に逆らい、窮地に陥りながら、女傑の作家として成長していく。

宮本百合子(みやもとゆりこ)の生涯

 宮本百合子は東京で建築家の家庭に生まれた。本名はユリである。父は著名な建築家の中条精一郎である。東京女子高等師範学校付属の高等女学校で学んだ。

 小説家としての活躍:天才少女現る

 1916年、宮本百合子は日本女子大学の英文科予科に入った。小説を書き始め、小説家の坪内逍遥と知り合いになった。
 坪内は宮本の才能に気づき、宮本の作家デビューを後押しした。その結果、同年、宮本の『貧しき人々の群』が『中央公論』に掲載された。これが一定の成功を収めた。

『貧しき人々の群』

 本書は宮本の初期の代表作である。のちになって、宮本自身がこの作品の性格を次のように説明している。
 本作は18歳の無垢な少女だった宮本が、幼い頃から馴染をもっていた東北の貧しい農村を描いた作品である。自然の豊かさや、素朴な人道的な心持ち、そして、醜い部分も含めた人間の生活への感動のもとで書かれている。
 その特徴は、ロマンティックな色彩と、18歳の世間を知らない子供らしい社会観のもとで、日本の農村生活を、リアリスティックに描き出したところにある。
 中流階級の少女たる著者が、自分の環境から脱け出て、荒々しく展開されている生活の世界へ入っていって、取材する。その末に制作された作品というのも特徴の一つである。
 本書の取材と制作を通して、宮本はその後の方針を心に決めた。それは、農民のような「悲しい同胞よ、わたしはいつかきっとあなたがたの、もっとよい友となる」というものだった。宮本はこの方針を実行していくことになる。

アメリカへ

 宮本は『貧しき人々の群』の成功に励まされ、大学を中退し、本格的に作家活動を開始した。『一つの芽生え』や『禰宜様 (ねぎさま) 宮田』などを発表し、好評を得る。天才少女と目されるほどになった。

 1918年、父とともに、アメリカに移り、留学した。1919年、ニューヨークで中年の東洋古代語研究者と知り合った。周囲の反対にも関わらず、この男性と結婚した。同年に帰国した。
 だが、夫婦生活はうまくいかなくなり、1924年に離婚した。その後、代表作として知られる小説『伸子(のぶこ)』の執筆を開始した。

 日本のプロレタリア文学運動

 1920年代には、日本でもプロレタリア文学運動が活発になっていった。宮本はこの時期の運動と自身の立場について、後年に次のように語っている。

 プロレタリア文学運動とは、人民の多数を占める労働者階級の生活とその感情を表現する文学が、従来のブルジョア階級の文学にかわるべきであるという運動である。
 この運動はヨーロッパで起こったものであり、第一次世界大戦の後にヨーロッパで定着した。
 日本にプロレタリア文学運動が浸透する際には、ブルジョア文学の既成権威がこれに対抗し続けた。宮本からすれば、この時期のブルジョア文学は、プロレタリア文学運動の興隆とともに、創造力の衰退と発展性の喪失の段階に入った。

 たとえば、志賀直哉、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎らは、この日本の新しい社会と文学の動揺の中で、誰もが自身の既成文壇においての地位を肯定し、個人的な才能に未来の打開をたのんだ。プロレタリア文学運動はこれらの旧文壇と粘りづよく対立した。
 宮本はこのような時期に、プロレタリア文学運動に関心を抱いた。だが、労働者の出身でなければ、社会主義のような新しい社会の建設や文学には参加できないという当時のプロレタリア的考えには、納得できなかった。

 実際に、宮本自身は労働者階級ではなく中産階級の出身だった。とはいえ、それに理論的に反論する準備もなかった。そのかわりに、『伸子』などの執筆という実践を開始したのだった。

 代表作の『伸子』:自伝的小説

 宮本はロシア文学者の湯浅芳子(ゆあさよしこ)と一緒に住み始めた。それまでの不幸な結婚生活を『伸子』にして、雑誌『改造』に連載した。これは1928年に単行本となった。

 上述のように、宮本は実家での中流家庭の生活から抜け出し、自分の望む生活を手に入れようとして結婚した。
 だが、夫は日本の家の古い慣習を望み、宮本をもそれに従わせようとした。その苦しみから脱し、心機一転を図ろうとする。『 伸子』で描かれたこの宮本自身の姿が当時の女性たちの共感をよんだ。

 戦後になって、宮本自身はこの作品の性格を次のように説明している。日本の中流的環境にある一人の若い女性が、女として人間として成長してゆきたいはげしい欲求をもって結婚する。

 やがて結婚と家庭生活の安定について常識とされている生活態度にうちかちがたい疑いと苦しみを抱くようになる。伸子がこの時代の日本の結婚生活に見出したのは、無目的で、エゴイスティックな、理想のない日々の平安への希望だけだった。

 当時の家庭の平和の通念や、夫婦愛・家庭愛における女の無主張の立場は伸子に恐怖を与えた。結婚にからむ親たちとの相剋も非条理に思えた。その結果、伸子は今度は結婚からの脱出を図るようになる。よって、結婚に破れゆく過程が描かれている。

 本作は結婚、家庭生活について日本の社会通念が枠づけている息ぐるしい家族制度のしがらみ、娘・妻としての女が、人間らしいひろやかさと発展をもって生きたい女性にとって、どんなに窒息的なものであるかを、夫婦の性格的な相剋の姿とともに描き出そうとしている。宮本は執筆当時もこのような社会問題を意識しながら、本作を世に送り出した。

 本書はフェミニズム研究で重要な著作として認知されている。戦前の女性が女性視点で恋愛から結婚そして離婚まで描いている。そこには女性視点での社会批判が展開されており、特に当時の日本の家父長制への批判がみてとれる、と考えられている。

 ソ連とヨーロッパでの生活

 1927年、宮本は湯浅とともにソ連に留学した。この間に、社会主義に大きな影響を受けた。現地では、ソ連での労働者や女性の環境についても調べた。
 たとえば、労働賃金の男女格差はどうなっているかとか、妊娠中絶は認められているのかなどである。

 宮本にとって、ソ連の現状には、称賛すべき点もあれば、改善すべき点もあった。子どもたちが生き生きとしているのには感動を覚えた。

 そのかたわら、宮本はソ連でも小説を執筆した。たとえば、「赤い貨車」はソ連のプーシキンが住んでいた村での日常生活をリアルに描こうとした。

 1929年の後半、宮本はイギリスやフランスなどに滞在した。イギリスのロンドンでは、1929年の世界恐慌の少し前に2ヶ月滞在した。
 宮本はロンドンの東地区の貧困層と西地区の富裕層の生活があまりに違う現実を目撃して、愕然とした。同じイギリス人の生活でも、こうも違うのかと。

 特に、この時期はイギリスでは失業者が慢性的に増えており、その生活は苦しかった。
 宮本からすれば、東地区には、膨大な数の不幸な人々と、顔色のわるい、骨格のよわいその子供たちとが、運命の嵐に翻弄されながら、腐りつつ生きていた。宮本はここに高度の資本主義社会の現実を見出した。

 その後、宮本はソ連に戻ってきた。ソ連は5カ年計画が始まっていた。1930年の11月に、宮本はソ連を去った。宮本はヨーロッパを経由して帰国した。
 宮本自身は、英仏独とソ連での生活を通して、資本主義社会の生活がいかに欺瞞と切り離せないかを実感したという。同時に、人類が、幸福を求めて進んできた歴史の前途に社会主義を確信するようになった、とも述べている。
 五カ年改革での社会の発展をみて、宮本はソヴィエトの人民が、自分たちの運命をみずから変えてゆく人々だと感じた。

 社会主義へのコミットメント

 1930年、帰国し、日本でプロレタリア文学運動に参加した。1931年には、日本共産党に入った。
 宮本はソ連での生活について日本に知らせるべきことを様々な著作として公刊していく。この時期から、宮本は小説の執筆だけでなく、評論活動を開始した。

 だが、当時の日本は社会主義や共産主義への弾圧が強まっていた。1932年以降、そのような中で、宮本はソ連の生活や環境については書かなくなっていく。のちに、宮本はその理由をこう述べている。

 この時期から、日本はファシズムによって外国への侵略戦争に邁進していった。ソ連は日本の軍国主義の侵略対象とみなされた。ソ連の実情がどうであれ、ソ連は「赤」の本拠地として敵視されるようになった。そのため、宮本は書くのを控えるようになった。

 当局による弾圧へ

 1932年、宮本は共産党員の宮本顕治と結婚した。

 社会主義運動への弾圧はますます強まっていった。顕治は地下活動に移った。だが、赤狩りによって、検挙と勾留が繰り返された。百合子は夫を支えながら、評論や小説の執筆活動を続けた。

 たとえば、「鏡餅」は顕治が当局によって激しい拷問を受けているのを知った苦しい胸中のもとで執筆された。百合子は社会主義運動を支え、その中心的人物の一人になっていった。

 百合子自身もまた弾圧の対象となった。1938年には執筆活動を禁止された。
 この時期の事情を宮本はこう述べている。1938年1月、宮本ら数名は、思想傾向を理由として内務省として執筆させることを望まない、という表現で、事実上の執筆禁止をうけた。

 宮本からすれば、その以前から、出版物への当局の取り締まりは厳しくなっていた。日本は、客観的な真実や学問上の真理、生活の現実を否定して、日本民族の優秀性と、侵略的大東亜主義を宣伝する文筆だけが許される段階に入りつつあったとされる。

 出版社は規準のわからない発禁つづきに閉口して、内務省の係の人に執筆を希望しない作家、評論家の名をあげさせた。
 その結果、宮本らの名前が挙げられた。宮本らは関係する当局の役所に出向いて、抗議した。だが、結局、1年間ほどは公刊ができない状況に置かれた。

 公刊再開の試み

 1939年春、宮本は『文藝春秋』から「その年」を発表しようとした。発表前に、当局の検閲の結果、その原稿は赤鉛筆でほとんどの部分が削除となっていた。それでも、小説の『杉垣(すぎがき)』や評論の『文学の進路』などを公刊した。

 もちろん、当時の思想弾圧の中で、宮本は自由には書けなかった。そのような手枷や足かせをつけられたようなもどかしさは、たとえば「おもかげ」の小説にみられる。
 宮本は当局に弾圧されながらも、どうにか作品を発表したときに用いられていた自分の言葉を、「奴隷の言葉」と表現している。

 あるいは、このような弾圧下での作品を、宮本はこう表現している。それはまるで猿ぐつわのすき間から洩れる声のようになっている。口だけ動かしているが、声が聞き取れないような作品ともいえる。当局や周囲の圧迫は、こんな不具な作品しかうませなかった、と。

 再び発禁へ

 1941年、宮本は再び発禁処分を受けた。この処分は戦争の終わりまで続く。同年末から、ついに投獄され、執筆活動ができなくなった。なお、獄中の夫に書き送った手紙はのちに『十二年の手紙』として公刊された。

 戦後になって、宮本はこの時期の当局による言論弾圧に関して、こう述べている。言論の自由ということは、どんなに人間の社会生活にとって基本的に主張されなければならない重大な権利であるかということを忘れてはならない、と。

 言論が当局によって弾圧されたとき、それでも作家が社会のために何かを書こうとするとき、どのような物言いになってしまうのか。それは宮本の「鈍・根・録」や「突堤」という作品に表れている。

 晩年:戦後の運動

 第二次世界大戦が終わり、日本は民主主義国家になった。戦後の日本の行く末をめぐって、様々な意見が飛び交っていた。宮本は民主主義文化・文学運動を推進した。『播州平野(ばんしゅうへいや)』や「風知草」、『道標』などの小説、評論を公刊した。

 『播州平野』と『風知草』について、宮本はほんとに書かずにいられない題材と主題を扱ったという。それまで、戦前には、治安維持法と戦争によって、書きたいことがほとんど書けなかった。

 戦後になって、ようやく書きたいことが書けるようになった。そこで、ぜひとも書かなければならないという主題について、思いの丈が溢れた。その結果できあがったのが本書であった。これらは毎日出版文化賞をえた。

 他方で、宮本は日本に大きな変化の兆しを見出していた。『 伸子』が公刊された当時、本書は一部の読者しか関心を惹かなかった。
 だが、戦後になって、多くの女性が伸子の抱いた女性や家庭などにかんする疑問や問題意識を、生活や実感のレベルで共有し始めている。
 『 伸子』のテーマがついに当事者の日本人女性に共有されてきたのだ、と。宮本はさらなる日本の変革を期待した。 

社会主義の紹介

 戦後の日本はアメリカとソ連の冷戦構造にすぐさま巻き込まれていった。日本は吉田茂首相のもとで、アメリカの西側諸国の見方に加わることを選ぶ。よって、再びソ連との敵対関係に入っていく。

 そのような中で、宮本は戦前に十分に行えなかったソ連や社会主義の紹介を行っていく。たとえば、自身の1920年代の論考を削除なしに公刊したり、カール・マルクスの評伝なども執筆したりした。

 1951年に没した。

伸子』の続編:『二つの庭』

 1948年、宮本は『二つの庭』を公刊した。これは宮本の代表作『伸子』の続編だった。本作の執筆背景について、宮本は次のように述べている。
 1926年に『伸子』を公刊した後、宮本は本作を踏み台にして上昇していったと思っていった。だが、1930年代に入り、宮本は日本が社会主義者への検挙と投獄の時期に入ったという。

 この時期、宮本自身は人間としての、あるいは女性としての自分の人生について考えずにはいられなくなった。より人間的で条理にかなう社会を希求し、社会主義に望みをかけるようになった。

 日本の資本主義権力がそのような人々を法の下で裁き投獄するので、野蛮であり、理性に反すると考えた。このような状況下で、宮本は『伸子』の続篇を書きたいと思うようになった、と。
 宮本は『二つの庭』の主題をこの文脈において説明する。この頃は、日本が戦争強行と人権剥奪へ向って人民生活が転がり落ちる時期だった。そこに生じた激しい摩擦、抵抗、敗北と勝利の錯綜こそ、『伸子』続篇の主題だった。

 だが、まさにそのような社会状況では、この作品を著すことは不可能だった。そのため、本作は戦後に公刊されることになった。
 とはいえ、『二つの庭』の舞台はそのような状況の戦前日本である。主人公の伸子は27歳であり、社会への認識を深めつつある。
 伸子の周辺では、伸子の意向にはお構いなしに、様々な激情がうずまき、互いにぶつかったり逸れたりしている。伸子はその渦中に置かれる中で、日本社会の現実に批判の眼を向け始める。

 日本の社会が、あらゆる階層を通じてとくに婦人に重く苦しい現実を強いていることは、人生を愛する気質をもって生れている伸子を社会主義へ近づけた。
 伸子は理性と善意の結果として社会主義を見出し、行動へと向かっていく。宮本は伸子のこのような変化を戦後の日本社会に期待した。

宮本百合子の『フローレンス・ナイチンゲールの生涯』の朗読の動画

宮本百合子と縁のある人物

小林多喜二:宮本百合子がプロレタリア文学運動に参加する前からこれを主導していた作家。『蟹工船』などで知られる。百合子が共産党に入ってまもなく、小林は悲劇的な運命を迎える。

宮本百合子の肖像写真

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

宮本百合子の代表的な作品

『貧しき人々の群』 (1916)
『禰宜様 宮田』(1917)
『伸子』(1928)
『冬を越す蕾』(1934)
『乳房』(1935)
『杉垣』(1939)
『明日への精神』(1940)
『文学の進路』(1941)
『播州平野』(1946ー1947)
『道標』(1947ー1950)

おすすめ参考文献と青空文庫


佐藤静夫『宮本百合子と同時代の文学 』本の泉社, 2001

宮本顕治『宮本百合子の世界』新日本出版社, 2013(※夫の顕治が著者)

池田啓悟『宮本百合子における女性労働と政治 : 一九三〇年代プロレタリア文学運動の一断面 』風間書房, 2015

※宮本百合子の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person311.html)

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