トマス・ミュンツァーはドイツの聖職者(1490ー1525 ) 。ドイツ宗教改革の代表的人物の一人。急進主義的な再洗礼派として知られる。1524−25年の農民戦争を指導したが、捕えられ、処刑された。その生涯と革命思想をてみていく。
ミュンツァー(Thomas Müntzer)の生涯
ミュンツァーはドイツのシュトルベルク・アム・ハルツに生まれた。両親は未詳であるため、幼少期の状況はよくわかっていない。ライプツィヒやフランクフルトで学んだ。聖職者の道を目指し、 1514年には司祭になった。
ルターへの支持
1517年、ミュンツァーが27歳の頃、ルターがドイツで宗教改革を始めた。ミュンツァーはルターに興味を持った。ルターはカトリックへの批判を強めており、カトリックの神学者と討論会を行っていた。
そこで、ミュンツァーは1519年のルターとカトリックの有名なヨハン・エックおよびカールシュタットの討論を見学した。同時に、修道院で研究を進め、彼自身の神秘主義的な神学思想を発展させていった。
ここで重要なことは、この時点ではまだまだ宗教改革がどのような運動になるか不明だったことである。宗教改革自体が確立されておらず、ルターの神学やルター派もまだ確立されていなかったことである。
当時、伝統的なカトリック教会への改革を望む声や動きは様々な仕方で現れていた。 聖職者を激しく攻撃する声や、免罪符への批判、小さなサークルに集まって聖書を学ぼうとする動き、教会の聖像や聖画を破壊する運動などである。
このような中で、ミュンツァーはカトリックの聖職者の一人として、ルターの教会改革運動に関心を抱いた。
ルターからの離反
ミュンツァーはルターの考えを支持した。1520年、ルターの推薦で、ツウィッカウ市の説教師に任命された。だが、その地で活動する中で、神秘主義思想により傾倒するようになった。
同時に、ルターの聖書主義と距離を取るようになった。さらに、ミュンツァーは説教で教会改革を強力に推進し論争を行った結果、ツウィッカウ市民を二つに分裂させることになった。そのため、ツウィッカウ市から追放された。
ルターとミュンツァーの違い:聖書主義と神秘思想
神秘主義思想の面で、ミュンツァーはルターと決別することになった。ルターは聖書主義であり、聖書とそれに基づいた信仰を重視した。
だが、ミュンツァーは聖書の重要性を引き下げた。神によって選ばれた者たちは、神が人類に送った聖霊に心を開き、受け入れなければならない。
この聖霊を通して、選ばれた者は神とつながり、その声を聞くことができる。人と神の直接的なつながりを想定する点が神秘主義的と呼ばれる理由である。ここでは、信仰の基準として、直接的な神の声が重要視されており、聖書の重要性は二次的でしかない。
プラハでの改革運動の試み
1521年、ミュンツァーはプラハに赴いた。ミュンツァーは全世界のキリスト教徒を根本的に変革する必要があると確信していた。そのための戦いに闘志を燃やした。ミュンツァーは説教で弁舌をふるった。
その中心的な論点は既存の教会への批判だった。すなわち、キリスト教の使徒たちが没した後、キリスト教会は誤った方向に向かい、堕落してきた。その罪と責任は全ての聖職者にある、と。
プラハでは、1400年代初頭にヤン・フスが宗教改革の先駆者として活動していた。フス自身はカトリック教会に処刑されたが、フス派がまだ活動していた。ミュンツァーは彼らを味方につけようとした。だが思うように成功せず、ドイツに戻った。
ミュンツァーの大きな転機はこの次にやってきた。
ザクセン選帝侯への説教
1523年、ミュンツァーはザクセン選帝侯領のアルシュテット市に移った。ザクセン選帝侯はルターを庇護していた。
ミュンツァーはここで牧師になり、下層階級の人々に説教し、支持を広げていった。カールシュタットと会い、改革運動に邁進した。同時に、貴族たちにも、キリスト教の理想に沿うような統治を訴えた。
1524年夏、ミュンツァーは自身の支持者が危機的状況にあったので、彼らを助けようとした。そのため、ザクセン選帝侯に説教を行い、彼らへの支援を求めた。だが、失敗した。
ルターとの対決
その中で、ミュンツァーはルター批判も展開していた。その結果、両者の対立は激しくなっていく。
ルターはプロテスタント諸侯にたいして、ミュンツァーの反逆的精神に注意するよう警告した。ミュンツァーは身の危険を感じ、アルシュテットを脱した。
1524年という、ドイツ宗教改革の開始から数年後には、プロテスタントの二人の指導者が明確に対決するようになったのである。
なお、このミュンツァーの説教は公刊された。
ミュンツァーの革命思想
この説教の内容はミュンツァーの革命思想そして農民戦争とつながるので、より詳しくみてみよう。
まず、ミュンツァーの思想における黙示録主義を説明しよう。黙示録主義は新約聖書の「ヨハネ黙示録」に由来するものである。終末論を特徴とする。そこでは、この世界はまさに終わりが迫っているといわれる。
黙示録においては、この世界の終わりが近づくと、千年王国というこの世の楽園が到来し、その後にはキリストが再度この世に到来して最後の審判を行う。いわば天国行きか地獄行きかが示される。この終末論は16世紀初頭のヨーロッパで再燃しており、ミュンツァーはその一部だった。
上述のザクセン選帝侯への説教の中で、ミュンツァーは黙示録思想の特徴(第五王国論など)を示しながら、こう訴えかけていた。
神は、多くの選ばれた敬虔な人々にたいし、大きな苦悩を伴う決定的で不可避で差し迫った改革を啓示している。この根本的な改革は完成するまで実行されなければならない。
その際に、偽りの聖職者たちに惑わされてはならない、と(その一部として、ミュンツァーはルター派を名指したので、上述のようにルターとの対立が深まった)。
ミュンツァーは世俗君主の役割をこう説明する。新約聖書のロマ書13で言われるように、君主は善をなし悪を罰するために世俗の剣(世俗権力のこと)を神から委ねられている。
よって、君主はその剣によって、神の民の敵を追い払い、神の敵を排除しなければならない。もし君主がそれを躊躇するなら、神は剣を彼らから取り上げる。
すなわち、ミュンツァー主義者という神の民を守らない君主はその剣を、世俗の権力を、神によって奪われる。ミュンツァーはザクセン選帝侯にたいし、そう警告したのである。
ドイツ農民戦争の主導者
同年、ミュンツァーはミュールハウゼンに移り、この都市を味方に引き入れることに成功した。宗教と社会の改革を推進しようとした。同時に、著述活動も行った。
だが、ここでも反発をうみ、追放された。ミュンツァーはニュルンベルクに移動して、ルターへの反論書を公刊した。
1524年から、ドイツでは増税などへの不満や終末思想を背景として、農民戦争が開始された。1525年、ミュンツァーはミュールハウゼンに戻った。今度は好意的に迎え入れられた。
ミュンツァーは市議会とともに、ザクセン選帝侯らにたいする農民戦争に参加することを決めた。
なぜか。上述のように、ミュンツァーはザクセン選帝侯にたいして、神の民を守るよう訴えた。だが、ザクセン選帝侯はこれを拒否した。そのため、ミュンツァーは選帝侯を神に反する君主とみなしたのだった。
ミュンツァーはこの戦争の主導者の一人となった。農民たちに説教し、来るべき千年王国を農民たちの手で到来させるよう鼓舞した。ミュンツァーが農民たちが世俗的な欲望にまみれていないので、この神のための戦いにふさわしいと考えた。
また、彼は農民軍を自ら指揮することもあった。ただし、反乱軍の組織者や指揮官というよりは、軍の聖職者や宣伝家として活躍した。
処刑へ
だが、1525年5月、ミュンツァーはザクセン選帝侯らと反乱軍によるフランケンハウゼンの戦いで捕らえられた。反乱軍はあっさり敗北したのである。拷問を受けた後、ミュールハウゼンの門前で処刑された。遺体はさらなる反乱を防ぐために晒された。
ミュンツァーの再洗礼派とその後
ミュンツァーの思想はプロテスタントの中でも再洗礼派に属すと考えられている。再洗礼派の呼び名は、赤ん坊のときに洗礼を受けるだけでなく、大人になって再び洗礼を受けることに由来する。
中世以来、ヨーロッパ人はほとんどがキリスト教徒になったので、洗礼(キリスト教徒になるための儀式)は赤ん坊のときにうけた。だが、再洗礼派の人たちは、大人になってから洗礼を受けるべきと主張した。
なぜなら、キリスト教の教義をしっかり理解して初めて、キリスト教に改宗すべきだからである。そのため、大人になってからの洗礼を行った。ちなみに、再洗礼派は自称ではなく他称である。
再洗礼派はミュンツァーのような武闘派と平和派に分かれることになる。ミュンツァーの流れは1530年代のミュンスターでの再洗礼派の反乱や、同時期のアムステルダムなどでの反乱へとつながった。
そのため、再洗礼派は暴力的なセクトだという認識が広まっていった。あるいは、プロテスタント全体がそうだという批判がみられるようになった。カトリックの聖職者らは好んでそう批判した。
他方で、ミュンツァーらの反乱を迷惑に思い、これとは明確に袂をわかつ再洗礼派がすぐにスイスやネーデルラントなどで登場した。たとえば、ネーデルラントのメンノーなどは明確に平和主義を訴えた。
というのも、再洗礼派が世俗君主によって暴力的な反乱分子だとみなされ、厳しい弾圧を受けたためである。
しかし、平和主義の再洗礼派はなかなか世俗の諸侯に信用されなかった。また、プロテスタントの他の宗派との協力関係を構築するのにしばしば失敗した。ある意味で、ミュンツァーの遺産であった。
ミュンツァーの肖像画
おすすめ参考文献
木塚隆志『トーマス・ミュンツァーと黙示録的終末観』未來社, 2001
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トーマス・ミュンツァー: 神秘主義者・黙示録的終末預言者・革命家 amzn.to
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John D. Roth(ed.), A companion to Anabaptism and spiritualism, 1521-1700, Brill, 2007
11,409円 (2024年09月19日 15:17時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する
Tom Scott, Thomas Müntzer : theology and revolution in the German Reformation, St. Martin’s Press, 1989
Thomas Muentzer: Theology and Revolution in the German Reformation amzn.to
12,898円 (2024年09月19日 15:18時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する
トマス・ミュンツァーはドイツの聖職者(1490ー1525 ) 。ドイツ宗教改革の代表的人物の一人。急進主義的な再洗礼派として知られる。1524−25年の農民戦争を指導したが、捕えられ、処刑された。その生涯と革命思想をてみていく。
ミュンツァー(Thomas Müntzer)の生涯
ミュンツァーはドイツのシュトルベルク・アム・ハルツに生まれた。両親は未詳であるため、幼少期の状況はよくわかっていない。ライプツィヒやフランクフルトで学んだ。聖職者の道を目指し、 1514年には司祭になった。
ルターへの支持から離反へ
1517年、ミュンツァーが27歳の頃、ルターがドイツで宗教改革を始めた。ミュンツァーはルターに興味を持った。ルターはカトリックへの批判を強めており、カトリックの神学者と討論会を行っていた。
そこで、ミュツァーは1519年のルターとカトリックの有名なヨハン・エックおよびカールシュタットの討論を見学した。同時に、修道院で研究を進め、彼自身の神秘主義的な神学思想を発展させていった。
ここで重要なことは、この時点ではまだまだ宗教改革がどのような運動になるか不明であり、宗教改革自体が確立されておらず、ルターの神学やルター派もまだ確立されていなかったことである。
伝統的なカトリック教会への改革を望む声や動きは様々な仕方で現れていた。 聖職者を激しく攻撃する声や、免罪符への批判、小さなサークルに集まって聖書を学ぼうとする動き、教会の聖像や聖画を破壊する運動などである。このような中で、ミュンツァーはカトリックの聖職者の一人として、ルターの教会改革運動に関心を抱いた。
ミュンツァーはルターの考えを支持した。1520年、ルターの推薦で、ツウィッカウ市の説教師に任命された。だが、その地で活動する中で、神秘主義思想により傾倒するようになった。
同時に、ルターの聖書主義と距離を取るようになった。さらに、ミュンツァーは説教で教会改革を強力に推進し論争を行った結果、ツウィッカウ市民を二つに分裂させることになった。そのため、ツウィッカウ市から追放された。
ルターとミュンツァーの違い:聖書主義と神秘思想
神秘主義思想の面で、ミュンツァーはルターと決別することになった。ルターは聖書主義であり、聖書とそれに基づいた信仰を重視した。だが、ミュンツァーは聖書の重要性を引き下げた。神によって選ばれた者たちは、神が人類に送った聖霊に心を開き、受け入れなければならない。
この聖霊を通して、選ばれた者は神とつながり、その声を聞くことができる。よって、人と神の直接的なつながりを想定する点が神秘主義的と呼ばれる理由である。ここでは、聖書の重要性は二次的でしかない。
プラハへ
1521年、ミュンツァーはプラハに赴いた。ミュンツァーは全世界のキリスト教徒を根本的に変革する必要があると確信していた。そのための戦いに闘志を燃やした。ミュンツァーは説教で弁舌をふるった。
その中心的な論点は既存の教会への批判だった。すなわち、キリスト教の使徒たちが没した後、キリスト教会は誤った方向に向かい、堕落してきた。その罪と責任は全ての聖職者にある、と。
プラハでは、1400年代初頭にヤン・フスが宗教改革の先駆者として活動していた。フス自身はカトリック教会に処刑されたが、フス派がまだ活動していた。ミュンツァーは彼らを味方につけようとした。だが思うように成功せず、ドイツに戻った。
ザクセン選帝侯への説教での訴え
1523年、ミュンツァーはザクセン選帝侯領のアルシュテット市に移った。ザクセン選帝侯はルターを庇護していた。ミュンツァーはここで牧師になり、下層階級の人々に説教した。カールシュタットと会い、改革運動に邁進した。同時に、貴族たちにも、キリスト教の理想に沿うような統治を訴えた。
1524年夏、ミュンツァーは自身の支持者が危機的状況にあったので、彼らを助けようとした。そのため、ザクセン選帝侯に説教を行い、彼らへの支援を求めた。だが、失敗した。
その中で、ルター批判も展開した。そのため、ルターはプロテスタント諸侯にたいして、ミュンツァーの反逆的精神に注意するよう警告した。ミュンツァーは身の危険を感じ、アルシュテットを脱した。なお、その説教は公刊された。
革命思想
この説教の内容はミュンツァーの革命思想そして農民戦争とつながるので、より詳しくみてみよう。
まず、ミュンツァーの思想における黙示録主義を説明しよう。黙示録主義は新約聖書の「ヨハネ黙示録」に由来するものである。終末論を特徴とする。そこでは、この世界はまさに終わりが迫っているといわれる。
黙示録においては、この世界の終わりが近づくと、千年王国というこの世の楽園が到来し、その後にはキリストが再度この世に到来して最後の審判を行う。いわば天国行きか地獄行きかが示される。この終末論は16世紀初頭のヨーロッパで再燃しており、ミュンツァーはその一部だった。
上述のザクセン選帝侯への説教の中で、黙示録思想の特徴(第五王国論など)を示しながら、こう訴えかけていた。神は、多くの選ばれた敬虔な人々にたいし、大きな苦悩を伴う決定的で不可避で差し迫った改革を啓示している。この根本的な改革は完成するまで実行されなければならない。
その際に、偽りの聖職者たちに惑わされてはならない、と(その一部として、ミュンツァーはルター派を名指したので、上述のようにルターとの対立が深まった)。
ミュンツァーは世俗君主の役割をこう説明する。新約聖書のロマ書13で言われるように、君主は善をなし悪を罰するために世俗の剣(世俗権力のこと)を神から委ねられている。
よって、君主はその剣によって選ばれた者の敵を追い払い、神の敵を排除しなければならない。もし君主がそれを躊躇するなら、神は剣を彼らから取り上げる。すなわち、ミュンツァーらの神に選ばれた者を守らない君主はその剣を、世俗の権力を神によって奪われる、と警告したのである。
ドイツ農民戦争の主導者
同年、ミュンツァーはミュールハウゼンに移り、この都市を味方に引き入れることに成功した。宗教と社会の改革を推進しようとした。同時に、著述活動も行った。だが、ここでも反発をうみ、追放された。ミュンツァーはニュルンベルクに移動して、ルターへの反論書を公刊した。
1524年から、ドイツでは増税などへの不満ゆえに農民戦争が開始された。1525年、ミュンツァーはミュールハウゼンに戻った。今度は好意的に迎え入れられた。市議会はミュンツァーとともに、ザクセン選帝侯らにたいする農民戦争に参加することを決めた。
なぜか。上述のように、ミュンツァーはザクセン選帝侯にたいして、神に選ばれた者を守るよう訴えた。だが、ザクセン選帝侯はこれを拒否した。そのため、ミュンツアーは選帝侯を神に反する君主とみなしたのだった。
ミュンツァーはこの戦争の主導者の一人となった。農民たちに説教し、来るべき千年王国を農民たちの手で到来させるよう鼓舞した。ミュンツァーが農民たちが世俗的な欲望にまみれていないので、この神のための戦いにふさわしいと考えた。
また、彼は農民軍を自ら指揮することもあった。ただし、反乱軍の組織者や指揮官というよりは、軍の聖職者や宣伝家として活躍した。
処刑へ
だが、1525年5月、ミュンツァーはザクセン選帝侯らと反乱軍によるフランケンハウゼンの戦いで捕らえられた。反乱軍はあっさり敗北したのである。拷問を受けた後、ミュールハウゼンの門前で処刑された。遺体はさらなる反乱を防ぐために晒された。
ミュンツァーの再洗礼派とその後
ミュンツァーの思想はプロテスタントの中でも再洗礼派に属すと考えられている。再洗礼派の呼び名は、赤ん坊のときに洗礼を受けるだけでなく、大人になって再び洗礼を受けることに由来する。
中世以来、ヨーロッパ人はほとんどがキリスト教徒になったので、洗礼(キリスト教徒になるための儀式)は赤ん坊のときにうけた。だが、再洗礼派の人たちは、大人になってから洗礼を受けるべきと主張した。
なぜなら、キリスト教の教義をしっかり理解して初めて、キリスト教に改宗すべきだからである。そのため、大人になってからの洗礼を行った。ちなみに、再洗礼派は自称ではなく他称である。
再洗礼派はミュンツァーのような武闘派と平和派に分かれることになる。ミュンツァーの流れは1530年代のミュンスターでの再洗礼派の反乱や、同時期のアムステルダムなどでの反乱へとつながった。
そのため、再洗礼派は暴力的なセクトだという認識が広まっていった。あるいは、プロテスタント全体がそうだという批判がみられるようになった。カトリックの聖職者らは好んでそう批判した。
他方で、ミュンツァーらの反乱を迷惑に思い、これとは明確に袂をわかつ再洗礼派がすぐにスイスやネーデルラントなどで登場した。たとえば、ネーデルラントのメンノーなどは明確に平和主義を訴えた。
というのも、再洗礼派が世俗君主によって暴力的な反乱分子だとみなされ、厳しい弾圧を受けたためである。しかし、平和主義の再洗礼派はなかなか世俗の諸侯に信用されなかった。また、プロテスタントの他の宗派との協力関係を構築するのにしばしば失敗した。ある意味で、ミュンツァーの遺産であった。
ミュンツァーと縁のある人物
・ ・
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ミュンツァーの肖像画
おすすめ参考文献
木塚隆志『トーマス・ミュンツァーと黙示録的終末観』未來社, 2001
John D. Roth(ed.), A companion to Anabaptism and spiritualism, 1521-1700, Brill, 2007
Tom Scott, Thomas Müntzer : theology and revolution in the German Reformation, St. Martin’s Press, 1989