ナイチンゲール

 フローレンス・ナイチンゲールはイギリスの看護師(1820ー1910)。クリミア戦争で看護師として活躍し、一躍有名となった。看護学の形成や看護師の教育制度の整備に顕著な貢献をした。また、数学に秀でていたため、統計にかんしても活躍した。彼女の性格や名言も紹介する。

ナイチンゲール(Florence Nightingale)の生涯

 ナイチンゲールはイギリス人の両親が旅行中にフィレンツェで生んだ。それゆえ、フローレンスと名付けられた。幼い頃から、英才教育を受けた。数学や歴史、哲学など幅広く学んだ。頭脳明晰であり、活動的でもあった。数学の教育が後の看護活動に大きな影響を及ぼすことになる。

 この早熟な彼女が看護の道を目指したのは、宗教的信念ゆえだったといわれている。人の苦しみを弱めることが人類と神へのつとめであると思われたためだった。彼女は看護師になりたいと希望したが、当初、両親は反対していた。早く結婚してほしいと願っていた。 

 1850年から、ナイチンゲールはドイツで看護を学んだ。看護師としてのスキルを習得したのみならず、看護体制の管理者としても成長した。その後、パリでトレーニングを続けた。

 クリミア戦争でのスクタリでの活躍

 1853年から、ロシアがイギリスやトルコなどとクリミア戦争を開始した。イギリスの負傷兵の病院はトルコのイスタンブールの近くのスクタリに設置された。だが、この病院は治療の物資も足りていない劣悪な環境にあった。負傷兵が病院で死ぬ確率は交戦中に死ぬ確率より高かった。

 そこで、1854年、イギリス政府の要請で、ナイチンゲールは看護師の一行をひきつれて現地へ赴いた。だが、当初は、ナイチンゲールは女性だという理由で医師たちから歓迎されなかった。だが、負傷兵の数が増えることで、ナイチンゲールらの支援がぜひとも必要になった。

ランプの貴婦人とクリミアの天使

 そこで、ナイチンゲールは看護環境の改善に邁進する。たとえば、入浴や着替えなどをしっかりと行わせるなどして、看護の仕組みを整備した。さらに、自ら夜にランプをもって病棟を見て回った。そのため、「ランプの貴婦人」と呼ばれるようになった。また、その姿は「クリミアの天使」とも形容された。

 このように看護活動に邁進するかたわら、ナイチンゲールは看護に関する様々なデータを収集した。数学的才能に恵まれていたため、データ整理と解析を独自に行なった。病院の衛生状況などの改善により、死亡率を60%から2%にまで低下させたと報告した。

 このデータの提示の仕方にもこだわっており、病院でのコレラやチフスの死亡率などを円グラフを使って自身の主張を説明した。当時、円グラフはまだまだ普及していなかった。ここに、ナイチンゲールの創意工夫の溢れた性格が見て取れる。

 ナイチンゲールの活躍で、負傷兵の死亡率が下がったと、イギリス本国で報道された。これで、ナイチンゲールは名声をえた。彼女の活躍は赤十字設立を後押しすることになった。だが、彼女自身はこの看護の中で「クリミア熱」に罹患し、長く闘病を必要とした。

エピソード:ナイチンゲールのプレゼン能力の高さ

 1856 年 にパリ条約でクリミア戦争が終結した。ナイチンゲールは帰国し、ヴィクトリア女王と会談した。ナイチンゲールは戦争での経験や、上述の詳細に記録してきた史料をもとに、軍病院の改革を提言した。

 ナイチンゲールは意図的に、あるいは革新的に上述の統計資料を用いて、説得を試み、成功した。統計史料の有用性を彼らに理解させようともした。 これが実ることになる。1857年、陸軍の衛生に関する王立委員会が設立された。ここに、ナイチンゲールのプレゼン能力の高さが見て取れる。

 看護学の発展への貢献

 1858年、ナイチンゲールはそれまでの統計や調査にかんする功績を認められ、女性として初めて王立統計協会の会員に選ばれた。さらに、名声をいかして、資金を獲得した。

 彼女はそれを用いて、ロンドンのセント・トーマス病院に看護学校を設立した。1859年には、『看護覚え書』を執筆し、看護方法を指南した。このようにして、看護学と看護師の教育体制の整備に大きな貢献をした。

 だがその後、ナイチンゲールはクリミアで罹患した上述の病気により、寝たきりの生活が多くなった。それでも、看護学の発展のために著述活動を続けた。1907年には、女性として初めて功労勲章を授与された。

 1910年、ナイチンゲールは90歳で没した。それまでに150以上の著作物をうみだしていった。

ナイチンゲールの性格

 ナイチンゲールは安全な場所で何もしないことで何も達成できないよりも、何度もチャレンジして、失敗してでも新しい道を切り拓きたいと思う人物だった。自分自身に言い訳をせず、コツコツと努力を積み重ねることを大事にした。それが自分の成功の原因だと考えた。

 看護においては、まずなにより病人の幸福が大事だとした。看護はある種の技芸であり、他の技芸と同じくらいの準備と努力が必要であると考えた。看護の経験を通して、次のようなことに気がついた。

 長らく病気のせいだと思われてきた痛みや不快な症状などは実は病気が原因ではなく、看護の仕方が悪いせいだった、と。つまり看護を改善すれば快癒するものであると。看護の管理者としては、その環境で常に正しいことが行われるための条件に配慮してきた。

名言

・看護は進歩的な技芸であり、立ち止まることは後退することを意味します

・私は自分自身に地位を与えるために行くことを考えたのではなく、人類全体のために行くことを考えたのです(クリミア戦争での看護の要請を引き受けたことについて)

・人類は、この世でも他の世界でも、(文字通り)『天国に行く』前に天国を作らなければなりません。

ナイチンゲールの肖像

ナイチンゲールの主な著作・作品

『女性による陸軍病院の看護 』(1858)
『 看護覚え書』(1860)
『インド駐在陸軍の衛生』(1863)
『インドの病院における看護 』(1865)
『救貧院病院における看護 』(1867)
『インドにおける生と死』(1874)
『貧しい病人のための看護 』(1876)
『病院と患者 』(1880)
『看護婦の訓練と病人の看護 』(1882)
『病人の看護と健康を守る看護』(1893)
『町や村での健康教育』(1894)

おすすめ参考文献

中島俊郎編『創造られたヒロイン、ナイチンゲールの虚像と実像』日本看護協会出版会, 2022

Lynn McDonald, Florence Nightingale and the medical men : working together for health care reform, McGill-Queen’s University Press, 2022

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