オルテガはスペインの哲学者でジャーナリスト(1883−1955)。政治やジャーナリズムの家庭環境で生まれ育ち、哲学者として頭角を現す。ドイツでの留学を経て、スペインで研究と教育を行った。同時に、ジャーナリストとしてスペイン政治に関わり、知識人たちを主導した。
スペインが第二共和制に至った頃には、政治家にもなった。だが内戦に際してフランスなどに亡命する。戦後に帰国し、晩年は国際的に活躍した。『大衆の反逆』などで知られる。この記事では、オルテガの生涯をみていく。
オルテガ(José Ortega y Gasset)の生涯
オルテガ・イ・ガセットは政治家やジャーナリストの家庭に生まれた。この一族の境遇がオルテガの生涯にとって重要なものであるため、少し詳しく説明しよう。
オルテガの家系
母方の祖父のエドゥアルドはリベラルな有力の『エル・インパルシアル』(不偏不党の意)を創刊した。さらに、政治家としても活躍し、大臣をつとめるほどだった。
その息子のラファエル(オルテガの叔父)は『エル・インパルシアル』を引き継ぎ、自身もまた政治家となって、大臣をつとめた。オルテガの父は『エル・インパルシアル』のジャーナリストや、文芸作品を制作する作家だった。同時に、ラファエルの政治活動を支えた。
オルテガはこのような一家で育った。そのため、幼少期から、多くの本に囲まれた生活を送った。本を多く読んだ。様々な知識人や政治家が頻繁に出入りする環境で育った。
その結果、生涯、ジャーナリズムに携わりながら、学芸と政治に関心を抱き続けることになる。
大学生活
1891年から1897年にかけて、オルテガはイエズス会の学校でラテン語やギリシャ語を学んだ。哲学と文学、法学も学んだ。生涯、カトリックの信仰を保持することにもなる。
1899年、マドリード大学の哲学科に入った。この時期に、ニーチェなどの著作を愛読した。1902年に卒業した。1904年には、博士号を取得した。この頃から、上述の『エル・インパルシャル』に寄稿し始める。
ドイツ留学
1905年から、オルテガは哲学研究のためにドイツに国費で留学した。まずライプツィヒ大学で言語学と哲学を学んだ。この時期にヴィルヘルム・フォン・フンボルトやショーペンハウアー、ダーウィンなどの著作を読んだ。
翌年、オルテガはベルリン大学に移った。そこでは、デュルタイやジンメルが教鞭をとっていた。オルテガはのちに彼らの思想の影響を強く受けるようになる。だが、この時期に接触していなかったようだ。
その後、オルテガはマールブルク大学に移った。新カント派の哲学者ヘルマン・コーエンに哲学で師事した。パウル・ナトルプから心理学や教育学を学んだ。
帰国:スペインの再生をめぐるジャーナリズム
1908年、オルテガはスペインに戻った。『エル・インパルシャル』のメンバーに加わった。さらに、雑誌『ファロ』を創刊した。ジャーナリズムでの活動を活発にしていく。
この時期のスペインでは、多くの知識人がスペインの現状と未来に深い憂慮を抱いていた。背景として、1898年のスペインとアメリカの戦争の結果、スペインは惨敗した。
当時のアメリカは現在のような大国ではなく、むしろ旧植民地の台頭しつつある国だった。そのような国に敗北したことで、スペインの知識人は自国の没落ぶりを実感した。
では、どのようにして再生すべきか。スペイン独自の道をゆくか、それともヨーロッパ化を促進するか。これが当時の最重要な問題の一つだった。
『ファロ』でのヨーロッパ主義
オルテガの『ファロ』はこの問題の主な議論の場の一つとなった。たとえば、「1898年の世代」という用語がここで生み出された。これは上述の1898年の米西戦争という国難を契機に、知的に形成された集団ないし世代を指す。
オルテガ自身は創刊者だっただけでなく、自ら文芸や政治の記事を書いた。オルテガは政治的には、自由主義と社会主義を支持した。さらに、スペインの再生については、ヨーロッパ化を唱導した。
ただし、ただ単にヨーロッパの学問をスペインに導入するのではなく、スペインでも学問を活性化するよう訴えた。この再生の方法をめぐって、ウナムーノらと激しく論戦を交わした。
学術的キャリア
1909年、オルテガは高等師範学校の倫理学や論理学と心理学の教授になった。1910年、マドリード大学の形而上学の教授になった。27歳という異例の若さでの抜擢だった。
このように、オルテガは学者としても順調に出世していった。1911年には、再びドイツのマールブルク大学で研究した。だが、今回の滞在は短かった。
スペインの改革をめぐって
帰国後、オルテガはスペインの政治改革のために筆をふるった。オルテガは自由主義と社会主義を支持しながら、現在のスペイン王権の自由主義には批判的になっていった。
むしろ、オルテガは共和主義を志向するようになる。この点で、古巣の『エル・インパルシャル』と対決するようになった。
オルテガは引き続き、スペインのヨーロッパ化を推進した。だが、かつてのようなヨーロッパへの理想主義を放棄していた。というのも、ヨーロッパ近代哲学の限界や問題点に意識が向かうようになっていたためだ。
オルテガはスペインもまた、このヨーロッパ近代の問題を克服するのに貢献でき、そうすべきだと論じた。
哲学的発展
この時期には、オルテガの哲学はデュルタイらの生の哲学に近づいていた。さらに、遠近法主義(パースペクティズム)をとるようになっていった。
すなわち、全ての思想は必ず特定の視点にたつものであり、そのような特殊で偏ったものである。すべての視点を包摂することで、確かな真理に達することができる、と論じた。
政治とジャーナリズムの活動
このような知的課題と取り組みながら、オルテガは政治活動も行った。スペインの改革運動のための組織づくりに貢献した。
また、1915年には、雑誌『エスパーニャ』を創刊し、編集長をつとめた。そこでは、スペインの政治と社会への批判や、自分たちの自由主義的な政治改革について論じられた。ヨーロッパの動向の紹介もなされた。
だが、オルテガはこのような政治方面での活動に疲れ、まもなく第一線から身を引いた。
アルゼンチンへ
1916年夏、オルテガはアルゼンチンのブエノスアイレスへと招聘された。そこで、カントなどのヨーロッパ哲学について講義をした。これが盛況となった。そのため、オルテガはさらに数々の講演を依頼され、滞在を延長した。
『エル・ソル』での活動
1917年、オルテガは帰国した。経営難に陥っていた『エル・インパルシアル』を買収して、助けようとした。一度はこの古巣に戻った。
だが、当時の政情をめぐる意見の対立により、オルテガは結局、この古巣と決別することになった。
同年、オルテガの親友が日刊紙『エル・ソル』(太陽の意)を創刊した。オルテガはその創刊を手伝った。オルテガは様々な記事をそこに提供することになる。有名な『大衆の反逆』も最初はこの新聞の記事だった。
本紙でのオルテガの基本的な政治改革の方針は、自由民主主義的な憲法改革、地方自治の推進、貧困撲滅の社会改革であった。
『レビスタ・デ・オクシデンテ』:1927年世代
1923年、オルテガは月刊誌『レビスタ・デ・オクシデンテ』(大西洋雑誌の意)を創刊した。これはすぐに知的な交流と紹介の場として成功し、ヨーロッパやラテンアメリカで高い評価をえた。
この雑誌では、当時のヨーロッパの優れた知的作品が翻訳されて紹介された。たとえば、ホイジンガやジンメル、ラッセルである。同時に、知識人たちの記事が掲載された。
この雑誌はスペインの若い知識人たちの交流の場となった。上述の1898年世代が米西戦争をきっかけに誕生したように、1927年世代が当時の政治的危機でうまれた。
この時期のスペインはプリモ・デ・リベラ将軍がクーデタで実権を奪い、独裁政治を行っていた。1927年世代はこの独裁政権への抵抗としてうまれた。
オルテガの『レビスタ・デ・オクシデンテ』は1927年世代に発表の場を提供した。同時に、1898年世代と1927年世代の架け橋を提供した。1927年世代はオルテガの主導のもとで、育っていった。彼らは文芸を政治と結びつけた。
たとえば、フェデリコ・ガルシア・ロルカは画家のサルバドール・ダリらと協力して作品を制作した。そこでは、美的な芸術的価値が追求されただけでなく、伝統的な価値観の刷新や政治的関心の惹起も追求された。
本誌での動のかたわら、オルテガは出版社を設立した。スペインを含むヨーロッパの古典作品や現代文学を安価なペーパー・バックの本として販売した。このような文化事業も行った。
哲学の発展
この地金、オルテガは思索を深めた。たとえば、1923年の『我々の時代の問題』では、カントなどの近代哲学を乗り越えようとした。再び遠近法主義が展開される。遠近法主義もまた歴史の産物であると論じる。
生の哲学もまた深められた。各人の生が根本的な現実であり、他のすべての現実がそこに根ざしていると論じた。この生がどのような性質のものなのかについて思索が重ねられた。
政治との距離感
プリモ・デ・リベラはオルテガらの動きに対して抑圧的だった。オルテガはこの独裁政権への批判を『エル・ソル』で展開した。独裁政権から立憲政治への移行を訴えた。
1929年、オルテガは彼の教育政策に反対して、マドリード大学の教授を辞任した。これを機に、若い知識人はオルテガに政治的な主導者になるよう求めた。
だが、オルテガはこれを断り、むしろ同志として支援する立場を表明した。このような時期に、『大衆の反逆』を『エル・ソル』で発表した。
政治家としての活動:共和主義者として
だが、事態は変化した。1930年、スペイン国王が退位し、スペイン王制に終止符をうったのだ。オルテガはこのような大きな歴史的変化の中で、ついに共和主義者として活動を本格化する。
1931年2月、オルテガはマラニョンやアヤラとともに、「共和国奉仕団」(Agupación al Servicio de la República)を設立した。
同年4月、スペインは第二共和政に移行し、選挙を行うことになった。ASRは政党となった。6月の選挙でオルテガも議員に立候補し、ASRは14人が当選した。
だが、オルテガの政治活動は順調ではなかった。新たな共和制の展開に批判を行いつつ、中道派の大連合を企てた。だが、政治家としてはたいして成功しなかった。1932年には、次第に政治の表舞台から身を引いた。ASRも活動を停止した。
オルテガは研究生活に戻った。この時期に生の哲学などを発展させた。『生・理性の形而上学原理』などを公刊した
内戦勃発から亡命へ
1936年、スペインでは内戦が勃発した。オルテガは身の危険を感じ、家族ともにフランスに亡命した。1937年末から4ヶ月ほど、ホイジンガの招待で、オランダで講演旅行を行った。
ロッテルダムやアムステルダム、ライデンなどを訪れた。その後パリに戻り、1939年まで滞在した。ポルトガルに滞在し、1940年にはアルゼンチンに移った。短期間だが、ブエノスアイレス大学で教えた。
帰国とその後の困難
1945年、オルテガは帰国した。9年間の亡命生活を終えた。だが、スペインのフランコ政権はオルテガを敵視した。
1948年には、かつての弟子の働きにより、マドリード大学に人文科学研究所が設立された。オルテガはそこに職を得た。だが、フランコ政権の圧力で、この研究所はまもなく閉鎖された。
晩年の国際的活躍
オルテガは研究を続けた。同時に、国内での研究発表に困難を感じ、1949年から国外での活動を精力的に再開した。
同年、アメリカでのゲーテ生誕200周年記念式典に出席した。ドイツでも同様の式典に参加し、講演も行った。そこでは、第二次世界大戦への反省の中で、なんらかのヨーロッパ共同体の創設について論じた。
その後も、ドイツにしばしば滞在した。1951年、ダルムシュタットの会議に参加し、ハイデガーと議論した。同年、古巣ともいえるマールブルク大学から名誉博士号を授与された。グラスゴー大学からも名誉博士号を授与された。
1955年、ヴェネチアで最後の講演を行った。同年、ガンで没した。
おすすめ参考文献
渡辺修『オルテガ』清水書院, 2014
Andrew Dobson, An introduction to the politics and philosophy of José Ortega y Gasset, Cambridge University Press, 2009
John T. Graham, The social thought of Ortega y Gasset : a systematic synthesis in postmodernism and interdisciplinarity, University of Missouri Press, 2001