ピョートル1世はロシアの皇帝(1672ー1725)。当時の後進国だったロシアを、西欧化政策や北方戦争などによって、大国へと発展させた。そのため、ピョートル大帝とも呼ばれ、その貢献は特別視されている。だが、専制君主ではなかった。これからみていくように、ピョートルは君主としては破格の行動を取り、ロシアの近代化を一挙に推し進めることになる。ピョートルの生涯と功績を知ることで、ロシアがいかにして大国へ成長していったかを知ることができる。
ピョートル1世(Pyotr I )の生涯
ピョートル1世は皇帝アレクセイの長男である。父が没し、10歳で皇帝に即位した。だが、姉のソフィアがクーデターで実権を握り、イワン5世を皇帝に即位させた。その結果、ピョートルは第二皇帝という座に落とされた。
当時のロシアはヨーロッパ諸国と比べて遅れていた。ピョートルは少年の頃から、外国人の進んだ知識や習俗に関心を抱いた。
1689年、ピョートルはソフィアの失政のチャンスを逃さず、実権を得るのに成功した。1696年には、イワン5世が没した。よって、ピョートルの単独統治が始まった。
ヨーロッパの視察へ
ピョートルはかねてから、ロシアがヨーロッパ諸国にたいして遅れていることを痛感していた。よって、ヨーロッパの先進技術や知識をロシアに導入することを望んだ。そこで、1697年、ピョートルは250人ほどの使節団をヨーロッパへ派遣することになった。これは18ヶ月にわたる長いものだった。
この使節にはもう一つの目的があった。それはオスマン帝国との関係である。ピョートルはロシアの南方にあるオスマン帝国の脅威を感じていた。オスマン帝国は第二次ウィーン包囲でオーストリアまで北上するなどして、ロシアにとっても脅威であった。
そのため、オスマン帝国にたいする同盟をヨーロッパ諸国と結成しようとした。ただし、これは失敗することになる。
この大規模な使節団にかんして注目すべきは、ピョートル自身もまたこの使節団の一員として参加したことだ。しかも、皇帝としてではない。名前と身分を変えて、使節団の通常メンバーの一人として紛れ込んだ。滞在地では自らも現場にはいって、技術を学ぼうとしたのである。ただし、ピョートルは他のメンバーよりも明らかに背が高いなどの理由で、皇帝だと認識されることもあった。
ピョートル、船大工になる
使節の一行はまずドイツに入った。そこでは、ピョートルは砲兵を学んだ。オランダに移った。造船業を学ぶために、ザーンダムで職人として働いた。ザーンダム滞在中は豪邸に住んだわけではなく、質素な家屋に滞在した(後述のように、これは現在、ザーンダムで博物館となっている)
その後、ピョートルはアムステルダムに移った。そこでは、東インド会社の造船所で船大工として4ヶ月ほど働いた。当時のオランダ東インド会社は東アジアで莫大な利益をあげていた。特に、日本との貿易利益が大きかった。
当時のオランダは日本と定期的な交流をもつ唯一のヨーロッパ国だったので、最新の日本のモノや情報の源だった。特に、東インド会社がまさにその供給源だった。ピョートルはそこで4ヶ月働いていたのである。
そのため、ピョートルはこの時期に日本についても様々な知識をえた。日本製の陶磁器や衣服なども実見しただろう。この経験を契機に、ピョートルは帰国後に日本との接触を試み、日本への南下政策を推進することになる。
その後、ピョートルはユトレヒトを訪れた際には、総督のウィレム3世に歓待された。
ほかにも、ピョートルは好奇心が旺盛だったので、様々な学者を訪問した。17世紀はいわゆる科学革命が起こっていた時代である。オランダは当時のヨーロッパ列強国の一つであり、科学革命にも寄与していた。
その一人が顕微鏡で有名なレーウェンフックである。ピョートルはレーウェンフックに会いに行き、交流を深めた。ピョートルはこれらの国から様々な専門家をロシアに招致することにも成功した。
ピョートルはイギリスを訪問した。議会や造幣局、軍事施設やグリニッジ天文台などを視察した。このときにアイザック・ニュートンに会っていた可能性もある。その後、オランダからドイツに移り、ポーランドの女王と会った。
神聖ローマ皇帝レオポルト1世と会うために、ウィーンやプラハを訪れた。この頃、ロシアで反乱が生じたので、ピョートルは帰国した。
西欧化政策:貴族のヒゲを切る
ピョートルと使節団は帰国後に、ロシアの西欧化を推進していった。たとえば、貴族のために学校を新設した。新聞を発行し、学芸の発展のためにアカデミーを設立した。また、ピョートルはヨーロッパの暦を導入した。
ただし、当時ヨーロッパで普及しつつあったグレゴリウス暦ではない。ローマ教皇に由来するものだったので、ピョートルは教皇の権威を嫌ってこれを採用しなかったのである。そのかわりに、1700年にユリウス暦を導入した。
ほかにも、当時の西欧の服装を着るよう定めた。ピョートルはロシア貴族の伝統的な長い顎ひげを嫌い、これを無理やり切らせた。このようにして習俗の改革も目指した。法制度の改革も推進し、法の支配を推進していった。
北方戦争:サンクトペテルブルクの建設
ピョートルはバルト海への進出を目論んだ。デンマークなどと同盟を組んで、スウェーデンと戦争を開始した。これは北方戦争と呼ばれる。1703年に獲得した場所に、新たな首都を建設することにした。すなわち、サンクト・ペテルブルグである。この名前は、ピョートルの守護聖人の聖ペテロに由来している。
北方戦争の最中には、国内で反乱も生じた。ピョートルはこれらを鎮圧しながら、戦争を続けた。1721年、この戦争はニスタット条約で終結した。ロシアはバルト海沿岸地方の獲得に成功した。
この成功をうけて、ピョートルは元老院から皇帝(ツァーリ)の称号をえた。ちなみに、ツァーリは古代ローマの「カエサル」に由来するロシア語である。
ピョートルの妻:女帝エカテリーナ1世へ
北方戦争で捕虜になっていた女性と、ピョートルは出会い、交際するようになる。彼らは1712年に結婚した。この女性はピョートルの没後に女帝に即位することになる。すなわち、エカテリーナ1世である。
ちなみに、ロシアの発展に寄与することで、ピョートル1世とともに「大帝」と呼ばれている女帝エカテリーナは、エカテリーナ2世である。ピョートル1世の妻はエカテリーナ1世であり、これとは別人である。
国内の制度改革の試み
ピョートルは国内の政治と宗教の問題についても、大きな決定を下した。ロシアには、すでにキリスト教の東方正教会が根付いていた(ロシアのキリル文字はキリスト教宣教のために生みだされた文字だった)。
ピョートルはその自律性を奪うべく、モスクワの総主教を廃止した。さらに、宗務院という国家の機関を新設した。ロシアの正教会を宗務院の管轄下に服属させた。これ以降、ロシアでは長らく国家が教会を支配することになる。
さらに、ピョートルは貴族や農民の身分を固定する方策を打ち出した。これも長らくロシアの制度として存続することになる。このように、ピョートルの政策は「近代化」とはいいがたい面も含んでいた。
ロシア皇帝は専制君主?:ヨーロッパで生み出されたイメージ
長らく、当時のロシアは絶対的な独裁制であり、ピョートルは専制君主だとみなされてきた。すなわち、ロシアの皇帝が絶対的な権力を持ち、自らを神の代理人とみなして、無知な臣民と従属的な教会にたいして抑圧的な支配を行っていると考えられてきた。
だが、これは15−17世紀にロシアを訪れたヨーロッパの旅行者たちが作り上げたロシアのイメージだった。
では、ロシア人の自己認識では、ロシア皇帝とはどのような存在だったか。ロシア人はロシアを古代イスラエルの生まれ変わりと考えた。旧約聖書にみられたように、イスラエルは神の信仰を保ち続ければ、神によって守られ、導かれる。
ロシアも同様であると考えられた。ロシア皇帝は神によって選ばれ、神から直接権力を得ていると考えられた。同時に、キリスト教の様々な規範によって縛られた。
たとえば、敬虔でなければならず、正教会を守り、善人を守って悪人を罰することが求められた。また、よき顧問たちの適切な助言に耳を傾けるべきとされた。とはいえ、皇帝がそれらの個人的あるいは道徳的義務を無視した場合、皇帝をより望ましい統治者と交代させるための効果的な制度は存在しなかった。それでも、ロシア皇帝がいかなる法にも縛られない専制君主という自己認識はロシアには存在しなかった。
他方で、ロシア皇帝は現実政治において、他の貴族を圧倒するような権力を持っていたわけではなかった。むしろ、大貴族とは上下関係というよりも水平的な関係にあった。ライヴァル関係よりもむしろ同盟関係にあった。
皇帝はロシアの国家事業を遂行する上で、様々な貴族に依存した。そう望まなかったとしても、そうせざるをえなかった。大貴族はこの依存的なネットワークを用いることで利益を得ていた。そのため、皇帝に対立するよりも協力した。
ピョートル大帝はこのような状況を変革しようと試み、部分的に成功した。たとえば、ピョートルは次のようにヨーロッパの国家理性論を借用して皇帝の権力を正当化しようとした。
それまでのようにロシア皇帝が「神の意志にかなっているかどうか」という正統性の基準では、様々な立場からその正統性に疑義を出すことができた。よって、帝権は常に不安定になりかねなかった。
そのかわりに、ピョートルはこう変革をもたらそうとした。皇帝は自身が考えるところの国家理性すなわち国益に合致した行動をとるなら、正統性を維持している、と。同時に、神に選ばれた者というレトリックを使用し続けた。
だが、現在の皇帝が神に一致しているかどうかなどを議論することは反逆罪として禁止した。ピョートルはロシアを、神の意志を実現する第二のイスラエルとしてではなく、軍事的・文化・社会的成功を目標とする世俗国家に変化させた。
制度的には、ピョートルは新たなヒエラルキーを導入するなどして、実力主義の貴族社会を生み出そうとした。だが、皇帝と貴族の関係はあまり変わらなかった。むしろ、貴族の権力はその後も拡大し続けた。
貴族は自身の所領のある地方を支配した。中央での皇帝の支配を支え、相互依存の関係であり続けた。よって、ロシア皇帝は専制君主にはなろうとしてもなれなかった。
ピョートルの死
ピョートルは1723年ごろには膀胱を患うようになった。手術などを行ったが、快癒には至らなかった。1725年、ピョートルは病没した。
ピョートル1世の縁のある都市:オランダのザーンダム
上述のように、ピョートルは皇帝に即位した後に、ヨーロッパの先進技術を学ぶ使節団に加わった。オランダで船大工として自らも働いた。それは、当時オランダが黄金時代を迎えており、海洋帝国として繁栄していたからだった。
オランダの海洋帝国は先進的な造船技術によっても支えられていた。ザーンダムには造船所があったため、ピョートル一行はそこに滞在して、技術を学んだ。現在のザーンダムでは、ピョートルが当時暮らしていた家が博物館になっている。皇帝がいかにして自ら船大工にまでなって新たな技術を得ようとしたのかを、博物館の展示で理解することができる。
ザーンダムはアムステルダムの北部にあり、電車で一時間程度で行ける。また、ザーンダム近くのザーン・スカンスはオランダの伝統的な風車の景色が愉しめることでも有名である。市庁舎の外観もかなり凝っていて、面白い。いまや伝統となったこの風車は当時の最先端技術の一つでもあった。この点で、ザーンダムは歴史に興味を持つ人にはうってつけの観光地でもある。
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ピョートル1世と縁のある人物
ピョートル1世の肖像画
おすすめ参考文献
土肥恒之『ピョートル大帝 : 西欧に憑かれたツァーリ』山川出版社, 2013
Daniel B. Rowland, God, tsar, and people : the political culture of early modern Russia, Northern Illinois University Press, 2020
Sergei M. Soloviev, Peter the Great, 1700-1708 ; War abroad, reform and rebellion at home, Academic International Press, 2020