菅原道真:天神様の物語

 菅原道真は平安時代初期の政治家や学者(845―903)。宇多天皇のもとで本格的に政治的キャリアを進め、894年の遣唐使廃止でよく知られる。藤原氏によって太宰府に左遷され、その地で没した。死後は学問の神様として祀られるようになり、今日に至る。

菅原道真(すがわらのみちざね)の生涯

 道真は学者の家に生まれた。父は是善(これよし)である。道真は早くから学才を開花させた。862年、18歳の頃に文章生となった。877年には、文章博士になった。

 その後は、少内記として、様々な詔勅の作成にあたった。優れた文才ゆえに、様々な文章の作成も依頼された。また、朝廷つとめも行っていた。

 880年、父の是善が没した。そこで、道真は菅原家の私塾の菅家廊下を引き継いだ。

 阿衡事件(あこうじけん)

 886年、道真は讃岐守に任じられた。887年、宇多天皇が即位した。その際に、宇多天皇の詔勅に関白の藤原基経が反発する阿衡事件が起きた。道真はこの一件で進言した。結果的に、道真の政治的出世のきっかけとなった重要な事件である。
 阿衡事件の経緯は次の通りである。この時期、藤原氏が勢力争いの結果、実権を握り始めていた。藤原基経は幼少の陽成天皇の摂政であった。だが、両者が対立を深めていった。884年、基経は陽成天皇を廃するのに成功し、別の天皇を立てた。
 だが、887年、橘広相(たちばなのひろみ)らが尽力した結果、新たに宇多天皇が即位した。なお、橘広相は道真と同様に文章博士である。
 宇多天皇は親政を望んだ。すなわち、自ら政治を執り行う意向だった。そのため、基経は宇多田天皇が気に入らなかった。
 宇多天皇は太政大臣の基経に政務を委ねるという詔書を発布した。この詔書は橘広相が執筆した。その中に、「よろしく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」という文があった。すなわち、阿衡の任務を基経の任務にする、と。

 基経は「阿衡」が職権のない位にすぎないと反発した。そのため、一切に政務を放棄するというボイコットに訴えた。宇多天皇が妥協し、その詔書を改訂することになった。だが、基経はそれで納得せず、さらに橘広相を罰しようとした。このような中で、菅原道真は基経の行動を行き過ぎとみなし、学識に基づいた適切な意見書を基経に出した。
 結局、この一件は無事に収まった。基経は死ぬまで関白として実権を講師することになる。

 政治の中心へ

 890年、道真は国司の任期を終えて帰京した。阿衡事件以降、宇多天皇は基経ら藤原氏の勢力に対抗し、自らが実権を握ろうとしていた。
 891年、基経が没した。そこで、宇多天皇は道真の阿衡事件での働きを高く評価し、道真を重用することに決めた。同年、道真は蔵人頭に任命され、893年には参議に任じられた。道真は基経の子の時平とともに政務を担当した。宇多天皇は道真によって藤原家の勢力を抑制しようとしたのである。

 遣唐使の中止

 894年には、道真は遣唐使に選ばれた。この際に、遣唐使の中止を決めた。その理由は、唐がそもそも衰退して混乱の時代を迎えていたためである。さらに、時平が道真を遣唐使に選ぶことで朝廷の中心から追放しようとしていたためである。ただし、いわゆる遣唐使の廃止については、近年では様々な解釈がなされている。
 895年には、道真は渤海使の応接を任せられた。

 宇多天皇の厚い信任と譲位

 道真は順調に昇進していった。中納言や民部卿、侍読などである。その頃、宇多天皇は後継者問題で頭を悩ませていた。その際にも、道真への信任が厚かったため、道真のみに助言を求めた。
 その結果、897年、宇多天皇は第一皇子たる敦仁親王の立太子を決めた。同年、宇多天皇は譲位して、上皇となった。敦仁親王が醍醐天皇として即位した。醍醐天皇もまた引き続き道真を重用した。899年には、道真は右大臣に任じられた。901年、ついに従二位に叙された。

 太宰府への左遷

 だが、まもなく、道真は時平の陰謀で大宰権帥に左遷されることになる。学者の家に生まれた道真の政治的な栄達を妬む者も多かった。道真は藤原氏の他氏排斥の標的になり、散った。
 道真はどのような罪を犯したと断じられたのか。それは、宇多上皇を欺いて、醍醐天皇を廃そうと企んだ、という罪であった。道真の娘が斉世親王に仕えていた。それを根拠にしつつ、道真が醍醐天皇を廃して斉世親王を天皇に擁立しようと目論んだ、と。

宇多上皇のエピソード

 この左遷の決定を聞いた宇多上皇の行動は有名なエピソードとして知られている。宇多上皇はこの決定を撤回させるために、醍醐天皇と会おうとした。だが、時平らの手配により、醍醐天皇の邸宅の門はかたく閉じられていた。宇多上皇は醍醐天皇に会えない。

 そこで、門前に草座を敷き、そこに座って、醍醐天皇に面会を要求し続けた。だが、結局、1日中待ったが、面会はできなかった。道真への宇多上皇の信頼の厚さが伝わってくる。

 結局、道真は太宰府に左遷され、そこで没した。

大宰府に左遷される菅原道真 利用条件はウェブサイトで確認
大宰府に左遷される菅原道真

 学問の神様へ:伝説と神格化

 道真は学者としても優れた業績をうんだ。『類聚国史』や『日本三代実録』の編纂が有名である。詩人としては、『菅家文草』や『菅家後集』がある。太宰府に左遷され、失意の中で詠んだ「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」が有名である。

 詩人としては、芸術的価値を追求した詩だけでなく、別の詩も制作した。たとえば、史実を物語る詩である。宇多天皇から醍醐天皇への代替わりの際に、宇多天皇の功績を詩という形で醍醐天皇に伝えた。

 また、道真は自身を太宰府に左遷させた時平を死後に呪い殺したという伝説がうまれた。道真の怨霊へのおそれはその後も続いた。その怒りを収めるべく、993年、道真に正一位の太政大臣の地位が贈られた。さらに、天満天神として神格化され、祀られた。

 菅原道真と縁のある地:北野天満宮

 菅原道真に関する観光スポットとしては、京都市の北野天満宮(きたのてんまんぐう)がおすすめだ。上述のように、道真は死後に神として祀られた。947年、道真を御祭神とする北野天満宮が創建された。

 これが時代とともに発展していく。その結果、道真は現在の日本全国の1万以上の天満宮や系列神社の御祭神となっている。菅原道真は学問に秀でていたので、学問の神様として広く知られている。

●アクセス
・JR京都駅から北野天満宮へ
→バスで30分程度

 北野天満宮を歴史的に紹介する興味深い動画(クリックすると始まります)

菅原道真の肖像画

菅原道真 利用条件はウェブサイトで確認

 菅原道真の主な著作・作品

編纂
『日本三代実録』
『類聚国史』

詩文
『菅家文草』
『菅家後集』

おすすめ参考文献

森公章『天神様の正体 : 菅原道真の生涯』吉川弘文館, 2020

滝川幸司『菅原道真 : 学者政治家の栄光と没落』中央公論新社, 2019

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