高浜虚子は明治から昭和の俳人で小説家(1874―1959)。少年期に俳句で正岡子規に師事し、俳句改革運動に参加した。雑誌『ホトトギス』を継承し、自身の俳句を発表し、後進の育成にも励んだ。
『ホトトギス』は俳句以外の作品も掲載し、俳人以外の文学キャリアの構築にも貢献した。そのきっかけは、これからみていくように、夏目漱石のあの代表作を掲載したことだった。以下では、虚子による俳句の説明もみていく。
高浜虚子(たかはまきょし)の生涯:正岡子規との出会い
高浜虚子は愛媛県松山で旧藩士の家庭に生まれた。本名は清である。父は武芸に達者だったが、虚子は文学を好んだ。中学生の頃に、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と友人となった。
すでに東京帝国大学で学んでいた先輩の正岡子規と文通し、俳句を学ぶようになった。その際に、子規に「虚子」の号を本名の「清」に基づいて与えられた。
1892年、虚子は京都の第三高等学校に入った。その後、仙台の第二高等学校に移った。この頃、俳句革新運動が始まった。1894年、虚子は学友の碧梧桐とともに高校を中退し、子規を頼って東京に移った。
なぜ俳句に親しむようになったか
虚子は俳句を学ぶようになったきっかけについて、後に回想している。虚子は13歳ごろには俳句に接していた。特に興味をもっていたわけではなかった。だが、子規から刺激をえて、俳句に興味をもった。
とはいえ、この時点では、和歌に比べて、俳句は下卑た賤しいものと考えていた。それでも、俳句を学び始めた。それは俳句を尊敬していたからではない。別の目的の手段とみなしていたためだ。
すなわち、尾崎紅葉のような当時の新文学に追随するためにはまず西鶴を学ぶ必要があり、西鶴を学ぶためにはぜひとも俳句を学んでおく必要があるという説に従ったのに過ぎなかった。
それでも、子規から俳句の歴史などを知るにつれ、俳句への見方は徐々に変わっていった。
俳人としての開花
その頃、子規は新聞『日本』で作品を発表していた。虚子の俳句もそこで発表された。
1898年、すでに故郷の松山で刊行されていた雑誌『ホトトギス』を虚子が継承し、東京でこれを刊行するようになった。虚子は作品を主に本誌で発表していった。子規が写実主義的な俳句を目指したように、虚子も写実主義を実践した。
『ホトトギス』の成功へ:俳壇への貢献
1905年、虚子は『ホトトギス』に夏目漱石の小説『吾輩は猫である』を連載した。さらに、『坊っちゃん』も連載した。これらの小説が好評を博したため、『ホトトギス』もまた人気を高めた。
さらに、虚子自身も漱石の小説に刺激を受け、自ら小説の執筆を始めた。『国民新聞』に長編小説『俳諧師』の連載を始めた。これは主人公の学生が俳句に打ち込んでいく青春小説である。同時に、高浜虚子自身の経験に基づく自伝的小説でもあった。
1908年、虚子は『俳諧師』を単行本として出版した。同年、俳句の『稿本虚子句集』を公刊した。翌年には、小説『続俳諧師』を公刊した。
1910年代、虚子は自身の『ホトトギス』の人気が低調になっていたため、その再起を図った。また、虚子は自ら多くの優れた俳句を同誌で発表していった。同時に、渡辺水巴(すいは)や飯田蛇笏(だこつ)などの後進を育てた。『ホトトギス』は俳句の世界に一時代を築いた。
虚子は小説や随筆への関心も維持した。1915年から、子規の晩年を描く小説を東京朝日新聞に連載した。
他方で、『ホトトギス』に伊藤左千夫(さちお)や寺田寅彦(てらだとらひこ)らの作品を掲載した。彼らに活躍の場を与えるとともに、『ホトトギス』の文芸誌としての意義を高めた。
俳句とはどのようなものか:虚子の俳論
この頃、碧梧桐は季語や17音を考慮しない新しいタイプの俳句を志向するようになっていた。この時期に、虚子は『ホトトギス』で「俳句とはどんなものか」という連載を始めた。俳句の初心者向けに、俳句とはなにかを説明した一連の講義のようなものである。
そこでは、虚子は伝統的な俳句こそ俳句として説明している。たとえば、「俳句は十七字の文学であります」という。さらに、「俳句には必ず季のものを詠みこみます」と述べている。すなわち、17音と季語を保持する守旧派の道を選んでいる。
その関連で、虚子は「俳句とは主として景色を叙する文学であります」という。これは季語と結びついている。ほかにも、「俳句には多くの場合切字を必要とします」という。切字とは、「けり」や「なり」、「あり」や「たり」などである。
さらに、「俳句を作るには写生を最も必要なる方法とします」と論じ、師匠の子規の立場を踏襲している。
その他の特徴として、虚子は松尾芭蕉を俳句の始祖として提示する。芭蕉は浄土真宗でいう親鸞のようなものである。俳句界の「お祖師様」として尊崇されている。実際、今日の俳句というものは芭蕉の力で作り上げられたといってもよいのであります」とまでいっている。
虚子は小説との比較で、俳句の特徴を指摘する。小説はなるべく文字を十分に使用して、各文章の意味連絡をはかるようになっている。だが、俳句は17文字だけであり、できるだけ簡潔な文字を使用している。そのため、多くの意味は連想に依存している、と。
季語の重要性
ここでは、俳句の伝統的な特徴の一つとして、虚子が季語の重要性をどう説明しているかをみてみよう。虚子はその重要性について、次のように論じている。
日本人は挨拶のときに、「おはようございます」の次には「お暑うございます」のような時候の挨拶を続ける。時候というものが日常生活の上に大きな関係を持っていて、その日その時の私たちの気分を支配してゆく大きな力をもっているためである。
虚子は俳句がこの時候というものにもっとも重きをおいた文学であるという。俳句はこの時候の変化につれて起ってくるいろいろの現象を諷う文学である。
時候は春、夏、秋、冬の四季に分かれている。春が来るにつけて起って来る現象とはなにか。虚子はその例を分類しながら挙げる。まず、天文上の現象としては、たとえばいつの間にか暖かみを帯びた東風が吹く。
地理上の現象としては、水がぬるむ。動物上の現象としては、鶯が啼き始める。植物上の現象としては、梅の花が咲く。人事上の現象としては、百姓が彼岸になるといろいろの種を蒔くために、その準備のために畑を打ち返す。これを俳句ではそれを畑打という。
これらの春の現象は、それぞれ次のような連想をもつ。東風は春風、春雨、霞、朧月。水ぬるむは氷解、春の水、春の山、春の海。鶯は燕、雲雀、蝶、蜂。梅の花は桜の花、椿の花、藤の花。畑打は種蒔、接木。
これらの時候の変化によって起こる現象を、俳句では季のものまたは季題と呼ぶ。虚子はあらゆる文学の中で、俳句が最も季題と深い関係にあるという。句集は春の部、夏の部、秋の部、冬の部などと四季の分類がしてあることに、その点がみてとれる。
虚子によれば、季題と次に関係が深い文学は和歌である。歌集もまた、四季の分類がしてある。だが、俳句と異なる点として、歌集は四季の分類だけでは終わっていない。恋の部や旅の部などの分類も続く。
このように、和歌には四季の部に属さない部が別にあるが、俳句にはそれがない。和歌以外の文学はなおさら、季題との関係は希薄になっていく。
したがって、季題に重大な関係を持つ文学は俳句のみといえる。虚子は「俳句は季題を詠ずる文学なり」と言っても差し支えないとさえ述べている。
晩年の活動
1936年には、虚子はヨーロッパに渡り、俳句を紹介した。 1937年、芸術院の会員となった。第二次世界大戦が本格化すると、長野県に疎開した。
戦後、引き続き『小諸百句』などで俳句を、『虹』で小説を発表した。『ホトトギス』は息子に継承させた。1954年、長年の功績が認められ、文化勲章をえた。1959年に没した。
高浜虚子の俳句
虚子の俳句をいくつか紹介しよう。
枯菊を剪らずに日毎あはれなり
映画出て火事のポスター見て立てり
この辺の人気は荒し海苔を干す
春雨や茶屋の傘休みなく
維好日日あたたかに風さむし
松の間の桜は幽かなるがよし
花にゆく老の歩みの遅くとも
高浜虚子の『百日紅』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)
高浜虚子と縁のある人物
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高浜虚子の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
高浜虚子の記録された肉声を無料で聞けます
高浜虚子の肉声を国立国会図書館のデジタルライブラリで聞くことができます。虚子が俳句を朗読しています(https://rekion.dl.ndl.go.jp/pid/3571308)。
高浜虚子の代表的な作品
『稿本虚子句集』 (1908)
『俳諧師』 (1908)
『続俳諧師』 (1909)
『柿二つ』(1915)
『小諸百句』(1946)
『虹』(1947)
おすすめ参考文献と青空文庫
水原秋櫻子『高濱虚子 : 並に周囲の作者達』講談社, 2019
前田登美『高浜虚子』清水書院, 2018
中田雅敏『高浜虚子』勉誠出版, 2008
※高浜虚子の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1310.html)