ウルバヌス2世は11世紀のローマ教皇(1042ー1099)。在位は1088ー99。グレゴリウス7世の教会改革を継承し、第一次十字軍を提唱したことで知られる。第一次十字軍の原因や目的、そしてクレルモン公会議での演説の内容などを説明していこう。
ウルバヌス2世(Urbanus II)の生涯
ウルバヌスはフランスのシャンパーニュ地方で貴族の家庭に生まれた。本名はシャティロンのオドである。ランスなどで学んだ。その後、ランスで聖職者となった。
1070年頃、ウルバヌスはベネディクト会の修道士になった。当時の修道院改革で中心的役割を担っていたクリュニー修道院に入った。
教皇へ:グレゴリウス改革の推進
1078年、ウルバヌスは修道院の職務でローマに派遣された。そのときに、教皇グレゴリウス7世に才能を見出され、オスティアの司教と枢機卿に任命された。
その頃、グレゴリウス7世はグレゴリウス改革と呼ばれる教会の諸改革を試みていた。後述のように、このグレゴリウス改革が第一次十字軍にとっても非常に重要となる。
この改革は教皇や司教などの聖職者を皇帝や諸君主などの世俗的影響力から解放しようとした。同時に、教皇を頂点とするキリスト教会のヒエラルキー設立を目指した。西欧キリスト教会の歴史の中で一つの大きな転換点として認知されている。
その過程で、グレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と叙任権闘争を行った。これは主に聖職者の任命権をめぐる争いであり、カノッサの屈辱などで有名である。ウルバヌスはグレゴリウスの忠実な部下として働いた。
第一次十字軍の召集へ:その背景や目的
1085年、グレゴリウス7世が没した。次の教皇の後を経てから、1088年、ウルバヌス2世は教皇に即位した。
1095年、周知の通り、ウルバヌス2世は第一次十字軍を提唱した。その主な原因や目的を4点説明しよう。すなわち、グレゴリウス改革、スペインのレコンキスタ、ビザンツ帝国との和解、そして巡礼の安全性確保である。
グレゴリウス改革
ウルバヌス2世は教皇に即位した後も、グレゴリウス改革を推進した。その主な狙いは、上述のように、ローマ教皇を頂点とするキリスト教会の樹立だった。この点でのライバルは神聖ローマ皇帝やビザンツ皇帝あるいは東方正教会の大主教だった。
これらの主な候補にたいして、ローマ教皇がキリスト教会全体のトップであることを宣言する方法として、十字軍が選ばれた。エルサレムというキリスト教の聖地を、キリスト教の天敵とみなされていたイスラム教徒から奪い返すのである。
このような大事業を、他でもないローマ教皇が提唱することで、教皇こそキリスト教会全体のトップだと示そうとした。
スペインのレコンキスタ
2つ目の原因はスペインのレコンキスタである。ウルバヌスはグレゴリウス改革の継続の結果、皇帝ハインリヒ4世と対立を続けた。そこで、
ウルバヌスは味方を探した。フランス王や、シチリアやスペインの世俗勢力を味方に引き込むのに成功した。
当時のスペインでは、レコンキスタが活発に行われていた。レコンキスタは再征服という意味である。
8世紀、イベリア半島にイスラム勢力が進出し、王国を築いていった。これにたいし、スペイン人たちはイベリア半島からイスラム教徒を追放し、失われた領地を奪還するというレコンキスタを開始した。
これが最終的に完了するのは1492年である。ウルバヌス2世の11世紀末はレコンキスタの歴史の中でも、この運動が比較的活発だった時期だった。
ウルバヌスはこのレコンキスタに触発された。大事な場所を天敵のイスラム教徒から取り戻すという発想において、レコンキスタと十字軍は共通していた。
レコンキスタのような大事業がスペインですでに進展していたので、ウルバヌスは同様の試みを聖地エルサレムに関しても行えるのではないかと考えた。
ビザンツ帝国の東方正教会との和解
第三の原因は、東方正教会との和解である。その背景として、1054年、西欧のカトリック教会とビザンツ帝国の正教会は教義などをめぐって激しく対立した。キリスト教会は東西で大分裂を起こしたのである。
ウルバヌス2世は十字軍を利用してこの亀裂を修復し、東方正教会と和解しようと画策した。この頃、ビザンツ帝国はセルジューク朝トルコから侵攻を受けていた。
後述のように、ビザンツ帝国は教皇らに救援を求めた。そのため、ウルバヌスはこの機会に、ビザンツ帝国と東方教会を支援するよう訴えることになる。
ただし、結果を先取りしていえば、ビザンツ帝国への援軍は実現されなかった。ウルバヌスは1098年に東方正教会との和解の試みを推進した。だが、これも失敗することになる。
エルサレムへの巡礼の安全性
第四に、エルサレムの安全性の確保である。古代ローマのコンスタンティヌス1世の頃から、エルサレムは次第に重要な巡礼地となっていった。
ウルバヌス2世の頃、エルサレムはファティマ朝のカリフの支配下にあった。ウルバヌスはカリフの支配下のエルサレムには安全な巡礼ができないと断じた。
十字軍の実際的な役割はこの巡礼の安全性確保だと認識された。あるいは、教皇や十字軍の参加者は十字軍自体を特別な形式の巡礼とみなすことになる。巡礼は宗教的行いである。
そのため、十字軍の行軍中には修道士がつねに同行し、説教やミサなどの宗教儀式を繰り返し行った。イスラム教というキリスト教の天敵に妨害されながら、聖地までの困難な巡礼を達成した、と十字軍の参加者は考えたのである。
クレルモン公会議の開催:演説の内容
1095年11月18日、ウルバヌスはクレルモン公会議を開催した。直接のきっかけは、ビザンツ帝国がイスラム教徒との戦いで救援を求めてきたことだった。この公会議の大規模な野外集会で、ウルバヌスは演説を行った。
その全体が十字軍に関わるわけではない。前半はグレゴリウス改革や神の平和(フェーデの禁止)に関するものである。フェーデとは、争いごとを解決するために裁判のかわりに行われた決闘などの私戦を指す。
演説の後半において、ウルバヌスは十字軍にかかわる次のような演説を行った。
東方のビザンツ帝国がトルコ人やアラビア人から侵略を受けている。彼らは多くの人々を殺し、奴隷にし、教会を破壊し、帝国を荒廃させた。このままこの状況を放置するならば、ビザンツ帝国のキリスト教徒たちはさらなる被害を受けるだろう。
そのため、私あるいは神はあなたたちに依頼する。様々な地域でこの事態を周知し、東方のキリスト教徒に支援を与えトルコ人らを滅ぼすようあらゆる身分の人々を説得するように、と。
その道中で死ぬ者には罪の赦しが与えられると、キリストは命じている。そのため、教皇は神の権能により、この道中に参加する者(=十字軍に参加する者)に免罪を与える。
悪魔を崇拝する卑しいトルコ人などが神を信仰するキリスト教徒を征服するとしたら、なんという恥だろう。私たちが東方のキリスト教徒を助けないとしたら、どれほどの叱責が我々を圧倒することになるだろうか。
これまで、西欧では、不当な仕方で互いに決闘などの私戦を行う者が多く存在してきた。そのような者たちにたいしてキリスト教徒同士の私戦ではなく、異教徒と戦うよう、そしてこの戦いに勝利するよう促そう。
(すなわち、キリスト教徒同士がフェーデによって殺し合うのではなく、その武器をイスラム教徒に向けよ、ということ)
盗賊には誇り高い騎士になってもらい、あの蛮族と戦ってもらおう。 わずかな報酬で傭兵として仕えてきた者たちにも参加してもらおう。傭兵には罪の赦しによる魂の救済という永遠の報酬を得させよう。
現世と来世における名誉を得させよう。この旅を先延ばしにせず、その費用を準備し、春になったら神を先導者として旅に出よう、と。
第一次十字軍の帰結
1096年、十字軍は出発した。当初の演説自体はビザンツ帝国の呼びかけが全面にでていた。だが、上述のような背景が存在していたので、十字軍はエルサレムへ進軍した。1099年、聖地を占領するのに成功し、エルサレム王国を建設した。
ちなみに、著名なクレルヴォーのベルナールが活躍するのは第一次十字軍ではなく第二次十字軍である。
ウルバヌス2世
ウルバヌス2世と縁のある人物
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ウルバヌス2世の肖像
おすすめ参考文献
池谷文夫『ウルバヌス2世と十字軍 : 教会と平和と聖戦と』山川出版社, 2014
Anthony Bale(ed.), The Cambridge companion to the literature of the Crusades, Cambridge University Press, 2019
Peter Frankopan, The First Crusade : the call from the East, The Belknap Press of Harvard University Press, 2016