吉田茂:親米外交と経済発展の原点

 吉田茂は戦後初期の首相(1878―1967)。当初は外交官として活躍した。第二次世界大戦が本格化する前に退官した。戦後まもなく、首相となり、第五次内閣まで組織した。保守の主流として、日本の経済復興と主権回復を実現した。だが、これからみていくように、その外交政策が日本のその後に大きな負の影響をもたらしたとも評されている。

吉田茂(よしだしげる)の生涯

 吉田茂は東京で政治家の家庭に生まれた。父は土佐自由党の指導者の竹内綱(たけのうちつな)だった。父が明治の自由民権運動を推進したため、吉田もその影響をうけるようになった。幼少期、吉田茂は横浜の貿易商の吉田健三の養子となった。

 杉浦重剛(すぎうらしげたけ)の日本中学で漢籍などを学んだ。学習院に進み、東京帝国大学政治学科に入った。1906年に大学を卒業し、外務省に入った。

 外交の世界での活躍

 吉田は外交官としてのキャリアを開始した。イギリスや特に中国での勤務が長かった。奉天の総領事となり、満州経営に意欲を見せるなどして、中国での日本の権益拡大に従事した。なお、1909年には、大久保利通の孫娘の雪子と結婚した。

 1928年、田中義一(たなかぎいち)内閣の際に、外務次官となった。1929年、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣では、イタリア大使に選ばれ、イタリアに赴任した。この時期、イタリアではすでにムッソリーニが独裁体制を確立していた。

 1936年、広田弘毅内閣のもとで、吉田は外務大臣就任となる予定だった。だが、軍部が吉田を「親英米派」とみなして、その就任に反対した。その結果、吉田は駐英大使となり、イギリスに赴任した。1939年、外務省を退官した。

 第二次世界対戦:和平工作

 日本は第二次世界大戦へと突入していった。吉田は軍部からひきつづき親英米派と目されていた。そのため、監視対象となっていた。
 吉田は戦争前から日本がアメリカに勝てないと見込んでいた。戦争の末期になり、吉田は近衛文麿(このえふみまろ)らとともに和平工作を開始した。これが軍部に露見し、1845年6月に逮捕された。

 戦後の首相としての活躍:憲法制定

 戦後、1945年9月、東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣が組織された。この頃、吉田はようやく釈放され、外務大臣に選ばれた。
 次の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣でも外務大臣を続投した。戦争で勝利した連合国のGHQが日本占領を開始した。吉田は彼らとの交渉を行った。

 1946年、戦争関係者と目された人々が公職追放の処分にあった。自由党総裁の鳩山一郎もその一人だった。吉田は急遽、鳩山の後任となった。
 同年5月、第一次吉田内閣を組織し、首相となった。これ以降、1954年まで五回ほど内閣を担当し、戦後日本の再建に取り組むことになる。

 吉田はGHQのマッカーサーと交渉しながら、1946年、新たな憲法の制定に至った。これにより、1889年に制定された大日本帝国憲法は失効した。また、経済復興に取り組んだが、その方針はすぐには固まらなかった。1947年の総選挙で社会党に敗北し、下野した。

 経済復興へ

 1948年、吉田は第二次内閣を組織した。戦後の日本は著しいインフレに苦しんでいた。日本経済を安定させるために、アメリカの銀行家ドッジが来日し、一連の経済政策を提案した。いわゆるドッジ・ラインである。

 アメリカから復興のための支援金を得るとともに、インフレによる生活苦を緩和させる方策などが提案された。吉田はこの提案を受け入れ、経済復興に邁進した。そのために経済官僚などを積極的に育成した。

 戦後の安全保障制度の構築:アメリカの立場

 第二次世界大戦後も、世界は平和にならなかった。特に、米ソの対立が激しくなっていった。いわゆる冷戦が東アジアにも広がっていく。
 そのような中で、アメリカは日本を西側陣営に取り込もうとしていた。問題は、緊張が増していく東アジアの安全保障問題において、日本にどのような役割を担わせるかだった。日本は戦後の混乱の最中にある。新たな憲法によって、非武装を宣言している。

 アメリカ側は、日本にまず安定が必要だと考えた。同時に、占領状態を終わらせ、政治や経済などの面で自立させることを求めた。同時に、悪化する東アジアの安全保障の問題にアメリカ中心の枠組みで対応しようとし、そこに日本を組み込もうとした。

 そのため、日本を再独立させた後にも、米軍駐留などが必要だとした。1950年には、冷戦の激化した結果、朝鮮半島で朝鮮戦争が始まった。アメリカは日本に限定的であれ、再軍備をもとめるようになる。

 日本の選択

 これにたいし、日本は緊迫する東アジアの安保状況のなかで、どのようにして自国の生存を確保すべきかを考えた。まだ占領されている状態であり、非軍事を憲法に明記している。
 外務省は、アメリカによる安全保障という案を提示した。吉田はこれを受け、さらに安全保障について議論を重ねた。

 日本の再軍備:自衛隊へ

 1950年、GHQとの協議の結果、朝鮮戦争をきっかけに、吉田は有事に備えて警察予備隊を創設した。自衛隊の前身である。かくして、戦後の再軍備が限定的であれなされた。また、日本での共産主義運動を取り締まった。

 国際社会への復帰:サン・フランシスコ講和条約での主権の回復

  日本は西側諸国の承認をえて、主権国家として再独立することを選んだ。そこで、1951年9月、吉田はサンフランシスコ平和条約に全権として参加し、これに調印した。日本は主権を回復し、再独立を果たした。

 日米安全保障条約

 サンフランシスコ平和条約と同時に、吉田は日米安全保障条約を締結した。これにより、日本独立後のアメリカ軍の日本駐留が決まった。アメリカは当初、日本が本格的に再軍備することを望んでいた。

 だが、吉田は警察予備隊のような限定的な再軍備を主張した。その代わりに、日本の安全保障を米軍によって確保する案を提示した。アメリカ側が妥協し、吉田の案を受け入れた。

 その結果、日本はアメリカから日本の生存と防衛にかんする保証をえた。アメリカに日本の基地を提供することでアメリカの軍事力に自国の安全保障を依存する方針をとった。自衛隊の再軍備は限定的かつ漸進的なものとなった。

 アメリカからすれば、日本を自国の勢力下に置くという第二次世界大戦での狙いを実現した。だが、極東の安全保障において日本の積極的な軍事的貢献をひきだすのには失敗した。
 かくして、日本は西側陣営に加わり、安保条約と限定的再軍備、そしてアメリカによる沖縄の戦略的支配によって、戦後の安全保障を確保することになる。日米安保と限定的再武装は吉田の功績として広く認知されている。
 世界が冷戦に突入する中で、日本はアメリカの世界戦略に組み込まれることになる。そのため、日本は吉田内閣以降、外構に関しては実質的な決定権をアメリカに握られることになったとも評されている。

 戦後の経済成長への道筋:池田勇人と佐藤栄作へ

 1952年、吉田は第四次内閣を組織した。だが、次第に吉田は党内での主導権を失っていった。この頃、公職追放が解除された。そこで、岸信介や鳩山一郎が党内で台頭し、吉田と対決姿勢を示した。1953年、ついに首相への懲罰動議が可決され、衆議院が解散された。

 まもなく、吉田は第五次内閣を組織した。だが党内からだけでなく党外からも逆風が吹き荒れ、1954年に辞職した。吉田は政界を引退した。
 だが、吉田が育て上げた池田勇人や佐藤栄作がその後に首相となり、戦後の経済成長を実現することになる。吉田は彼らへの影響を保持することになる。

 1955年、自由民主党が合併によって誕生した。社会党と自民党の二項対立による55年体制の始まりである。吉田は戦後直後から55年体制の始まりまでの離陸の時期を担った主要な政治家だった。

吉田茂の肖像写真

吉田茂 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

おすすめ参考文献


保阪正康『吉田茂 : 戦後日本の設計者』朝日新聞出版, 2020
井上寿一『吉田茂と昭和史』講談社, 2009

楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成-日米の構想とその相互作用 1943~1952年』ミネルヴァ書房、2009年

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