竹下夢二は大正から昭和に活躍した画家で詩人(1884―1934)。大正ロマンを代表する人物。20代前半でいわゆる夢二式美人の絵を生み出し、人気を博した。「かわいい」文化の先駆者としても知られる。詩人としても活躍し、詩画集なども公刊した。この記事では、夢二の実際の絵やデザインの画像とともに説明していく。
竹久夢二(たけひさゆめじ)の生涯
竹久夢二は岡山県で酒屋に生まれた。本名は茂次郎である。中学校を中退した後、1901年に東京に移った。早稲田実業学校で学んだ。その際に、荒畑寒村(あらはたかんそん)らと友人になった。竹久は絵に興味をもち、白馬会洋画研究所で学んだ。
竹久は荒畑に勧められて、絵を新聞や雑誌に投稿するようになった。それが雑誌『中学世界』などで掲載されるようになった。そのため、竹久は早稲田実業学校を中退した。竹久は『平民新聞』などに挿絵を描き、詩や川柳を載せた。
夢二式美人画の成功
竹久は夢二式美人と呼ばれる特徴的な絵を描いた。夢二式美人画は日本画家の鏑木清方の美人画と洋画家の藤島武二のモダンな絵画の影響を受けたものと評されている。なお、藤島武二は上述の白馬会の創設メンバーである。夢二式美人の特徴については、その画像とともに、記事の後半でみていく。
竹久の美人画は女性そのものの絵だけが人気だったのではない。女性が着ている着物や帯もまた人気だった。これらの図案もまた竹久自身が制作していた。当時は女性たちが自分たちで服を刺繍していた時代である。
彼女たちは夢二式美人画の文様やデザインに憧れを抱き、これをこぞって真似した。竹久デザインのファッションをまとって、街中に繰り出したのである。そのため、竹久はファッション・デザイナーとしても優れていた。まだデザインという概念が日本に存在しない時代のことであった。
このように、夢二式美人は当時の若い女性たちの憧れとなった。夢二式美人が若い人々の美意識の形成にも影響し、美人あるいは魅力的な女性のイメージをつくりあげていった。もちろん、これが当時の唯一の排他的な美人イメージではなかった。それでも、特に若い女性たちへの影響力は深甚だった。
1909年、竹久は『夢二画集 春の巻』を公刊し、大成功を収めた。この頃には、「夢二式」という表現も使われるようになり始めた。その後、夢二式美人に憧れる読者や制作者のために、画集や絵手本を公刊していった。
夢二画集の表紙
ちなみに、代表作「黒船屋」は「お葉」(本名:佐々木カネヨ)がモデルだといわれている。お葉は美術などのモデルをしていた。
また、夢二は詩人としても引き続き活動した。『宵待草(よいまちぐさ)』が有名である。これは曲もつけられている。
グラフィック・デザイナーとして:日本橋の港屋でのグッズ販売
竹久はグラフィック・デザイナーとしても活躍したといえる。ここで重要なのは、1914年、竹久が日本橋で港屋絵草紙店をオープンしたことである。木造の建物にのれんと提灯そしてショーウインドウを設置した店だ。たいして広くはなかった。
そこでは、絵はがきや千代紙、半襟や帯、封筒や葉書などの文具、羽子板、人形、木版画や石版画、竹久の著作などを販売した。これはすぐに大成功を収めた。東京名物となり、こぞって土産物として購入された。
封筒のデザインの例
港屋はアートを日常の生活や空間に浸透させる試みでもあった(同時に、妻の生計を支える手段でもあった)。そのため、近代日本美術に西洋のアール・ヌーヴォーを導入する試みの一つとして認知されている。
とはいえ、竹久自身は江戸時代への追憶をもこの店に込めていた。帯などの品揃えや港屋「絵草紙」店という店名にもこの点が表れている。同時に、竹久は軒先に「MINATOYA」の店名表記をもしており、南蛮趣味も込めていた。
竹久の南蛮趣味(右下は戦国・江戸時代のヨーロッパの宣教師)
ほかにも、竹久は楽譜や本の表紙や装丁、挿絵などを手掛けた。キャラメルなどのお菓子などのパッケージ、銀座千疋屋や三越の広告、化粧品などの広告などを広くてがけた。
当時、三越はそれまでの呉服店から百貨店へと発展しようと試みていた。そのため、先進的な企業戦略を駆使するデパートとして知られていた。このように、竹久のターゲット層は女性のみならず少年少女など広かった。挿絵としては『伊勢物語』のような古典書も手掛けた。
三越の広告(1910年代)
竹久が好んで描いたデザインは主に椿と日傘そしてマッチ棒であった。椿は竹久の生まれ育った地で咲き誇っていた。日傘は当時普及しつつあった製品であり、貴婦人のイメージと結びついていた。このような仕方で、竹久はグラフィック・デザインの先駆者となった。
夢二式美人の特徴
夢二式美人の特徴は大きな目におちょぼ口で、伏し目がちで物憂げな表情をして、わずかに首を傾け、線の細いすらりとした女性の絵である。よじれた姿勢で、手足は不釣り合いなほど大きい(この記事の後半で画像を示す)。この美人画が一世を風靡した。竹久は現在の「かわいい」文化の先駆だといわれている。
夢二式美人画の好例
画家や詩人としての活発な活動
1916年、竹久は京都に移った。引き続き詩や絵の制作に励んだ。1918年には京都府立図書館で個展を開いた。そこでは日本画からパステル画まで、幅広い技法の絵画を披露した。1920年には『長崎十二景』を、1921年には『女十題』を公刊した。
晩年:欧米旅行
1931年、竹久はアメリカに旅した。その後、ヨーロッパに移った。だが旅行中に過労で体調を崩し、帰国した。長野県の富士見高原療養所に移ったが、1934年に没した。
現在も高い人気
竹久は現在もなお人気を維持している。近年になっても博物館が新設されるほどである。群馬県の竹久夢二伊香保記念館、岡山県の夢二郷土美術館。東京本郷の竹久夢二美術館、栃木県の日光竹久夢二美術館、石川県の金沢湯涌夢二館がある。
夢
竹下夢二の『秘密』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)
『桜さく島 見知らぬ世界』の一部を紹介
路
青い野原のなかを、白い路がながく/\つヾいた。
母とも姉とも乳母とも、いまはおぼえもない。
おぶさつたその女が泣くので、私もさそはれてわけはしらずに、ほろ/\泣いてゐた。
女の肩に頬をよせると、キモノの花模様が涙のなかに咲いたり蕾んだりした、白い花片が芝居の雪のやうに青い空へちら/\と光つては消えしました。
黄楊のさし櫛がおちたのかと思つたら、それは三ヶ月だつた。
黒髪のかげの根付の珠は、空へとんでいつては青く光つた。
また赤い簪のふさは、ゆら/\とゆれるたんびに草原へおちては狐扇の花に化けた。
少年の不可思議な夢は、白い路をはてしもなく辿つた。
死
花道のうへにかざしたつくり桜の間から、涙ぐむだカンテラが数しれずかヾやいてゐた。はやしがすむのをきっかけに、あの世からひヾいてくるかとおもはれるやうなわびしい釣鐘の音がきこえる。
金の小鳥のやうないたいけな姫君は、百日鬘の山賊がふりかざした刃の下に手をあはせて、絶えいる声にこの世の暇乞をするのであつた。
「南 無 阿 弥 陀 仏」
きらりと光る金属のもとに、黒髪うつくしい襟足ががっくりとまへにうちのめつた。血汐のしたヽる生首をひっさげた山賊は、黒い口をゆがめてから/\からと打笑つた。
あヽお姫様は斬られたのか。
それは少年のためには「死の最初の発見」であつた。
もう姫君は死んだのだ、死んでしまへば、もうこの世で花も、鳥も、歌も、再びきくこともみることもできないのだ。
涙は少年の胸をこみあげこみあげ頬をながれた。
「死顔」も「黒き笑も」泪にとけて、カンテラの光のなかへぎらぎらときえていつた、舞台も桟敷も金色の波のなかにたヾよふた。
その時、黒装束に覆面した怪物が澤村路之助丈えと染めぬいた幕の裏からあらはれいでヽ赤い毛布をたれて、姫君の死骸をば金泥の襖[#ルビの「ふすま」は底本では「うすま」]のうらへと掃いていつてしまつた。
死んだのではない、死んだのではない、あれは芝居といふものだと母は泪をふいてくれた。
さうして少年のやぶれた心はつくのはれたけれど、舞台のうへで姫君のきられたといふことは忘れられない記臆であつた。また赤毛布の裡をば、死んだ姫君が歩いたのも、不可思儀な発見であつた。
傀儡師
…………大阪をたちのいても、わたしが姿眼に
たてば、借行輿に日をおくり………………
口三味線の浄瑠璃が庭の飛石づたひにちかづいてくるのを、すぐ私どもはきヽつけました。五十三次の絵双六をなげだして、障子を細目にあけた姉の袂のしたからそつと外面をみました。
四十ばかりの漢でした、頭には浅黄のヅキンをかぶり、身には墨染のキモノをつけ、手も足もカウカケにつヽんでゐました、その眼は、遠い国の藍い海をおもはせるやうにかヾやいてゐました。棒のさきには、鎧をきたサムライや、赤い振袖をきたオイランがだらりと首も手をたれてゐました。
漢は自分のかたる浄瑠璃に、さも情がうつったやうな身振をして人形をつかつてゐました。
赤い襠をきた人形は、白い手拭のしたに黒い眸をみひらいて、遠くきた旅をおもひやるやうに顔をふりあげました。
…………奈良の旅籠や三輪の茶屋…………
五日、三日夜をあかし…………
と指おりかぞえ
…………二十日あまりに四十両、つかひはたし
て二歩のこる、金ゆへ大事の忠兵衛さ
ん…………
といつて、傍らに首をたれた忠兵衛をみやつたガラスの眼には泪があるのかとおもはれました。
…………科人にしたもわたしから、さぞにくかろう
お腹もたとう…………
思ひせまつて梅川は、袖をだいてよろ/\よろ、私の方へよろめいて、はつと踏みとまつて、手をあげた時、白い指がかちりと鳴つたのです。
私は泣きながら奥へはしりこみました。
母
二人の少年が泊つた家は、隣村にも名だたる豪家であつた。門のわきには大きな柊の木が、青い空にそヽりたつてゐた。
私どもは柱や障子の骨の黒ずんだ隔座敷へとほされた。床には棕梠をかいた軸が掛つてゐたのをおぼえてゐる。
「健作の母でございます。学校ではもう常住健作がお世話様になりますとてね」
とお母様は言はれて、私の顔をしみ/″\情ぶかい眸でみられた。
私は眼をふせて、まへにおかれた初霜の皿の模様へ視線をやつてゐました。
「まあ」
と、思ひもかけぬ声におどろいて、私ははっと顔をあげたのです。
お母様は、はしたない行ひをおしつつむやうに
「草之助さんでござんしたか。ま、おほきくおなりやしたことわい、なんぼにおなりやんしたえ」
「十二です」
「まあそんなになりますかいなあ」と夢みる眸をあげて「ようまあ、よつてくださんした」
思ひいつてこういはれた言葉に、曾ておもひもしらぬ感激をおぼえて、私はしみ/″\とよそのおばさんをみました。歯を黒くそめて眉の青い人で、その眼には泪があつた。
縁側で南天の実をみてゐたら、おばさんはうしろから私の肩を袖で抱いて
「おばあさんもおたつしやですかえ」
ときかれた。
千代紙や江戸絵をお土産にもらつて、明る日、村へかへつてきました。
祭の日が暮れて友達のうちへ泊つた一分始終を祖母に話してきかせました。すると、祖母は眼をみはつて、そのかたは父の最初の「つれあひ」だつたと驚かれました。
この日から、少年のちいさい胸には大きな黒い塊がおかれました。妬ましさににて嬉く、悲しさににて懐しい物思をおぼえそめたのです。蔵のまへのサボテンのかげにかくれては私とおなしに眼のわきに黒子のある、なつかしいその人のことを、人しれず思ひやるならはせとなつたのです。ですが私は、その人が私の「生みの母」であるといふことをたしかめるのを恐れました。やつぱりよそのおばさんです。私は、さう思つてゐねばなりませんでした。
炬燵のなか
………お庭のまえの亀岡に
君をはじめてみるときは
千代もへぬべき心地して………
美迦野さんは、炬燵布団の綴糸をまるい白い指ではじきながら、離室の琴歌に声をあはせた。
「あたしね、「黒髪」をあげたらこんどは「春雨」だわ。いヽわね。は る さ め…………」
「……………………」
私はだまつて美迦野さんの靨にうつとりとみとれてゐた。
「草之助さんてば返事がない、いヽ嫁さんでもとつたのかい」
「…………」私は笑つてゐた。
「なぜだまつてるのさ。なにかおこつたの」
「うヽん」
「さ、一がさした」
「二がさした」
「三がさした」
「四がさした」
「五がさした」
「六がさした」
「七がさした」
「蜂がさした、ぶん/\ぶん………」
「いや、美迦さんはあんまりひどくつねるんだものな[#「な」は判読困難につき推定、コマ25-左-3]」
「いたかつて、ごめんなさい」
そう言つて美迦野さんは、あまへたやうにしんなりとしなだれかヽつて
「まあおかあいそうに」
と言つて、赤くなつた私の手を熱い唇でひつたりと吸ひました。布団を眼深か[#「眼深か」はママ]にかぶつた小鳩のやうに臆病な少年はおど/\しながらも、女のするがまヽにまかせてゐた。
少年は女の顔をみあげるのさえはづかしかつた。
『クリスマスの贈り物』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)
竹久夢二の肖像写真
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
おすすめ参考文献
萩原珠緒(2002)「大正初期・日本文化の一側面―竹久夢二の「港屋絵草紙店」にみる異国趣味と東京・日本橋界隈」『 新潟県立近代美術館研究紀要』5: 1-12
高橋律子(2010)『竹久夢二 : 社会現象としての「夢二式」』ブリュッケ
竹久夢二美術館監(2014)『竹久夢二 : 大正ロマンの画家、知られざる素顔 』河出書房新社
高屋喜久子(2019)「竹久夢二流デザイン手法の研究」『八戸工業大学紀要』(38)1−9